第25話 地球外生命体と思えば、何とか(弐)
――関わるな、とはどういうことですか?突然のことで状況が把握出来ていません。理由を教えてください。
その場に立ち尽くし、カタカタと小刻みに震える指でメール送信してから暫くが経過したが、返信が来る気配が感じられない。にこからのメールの内容の衝撃が強すぎて、頭が回らなくなっている槐は漸くのろのろと歩き出し、やがて駅の改札を通り抜けて、呆然とした状態でホームに佇む。そうしているうちに電車がホームにやって来たので、彼は車内へと乗り込んだ。利用客の姿は多いが、座席は全て埋まってはいない。兎に角目についた空席に座るなり、槐は項垂れて、長い溜息を吐く。
(関わるなってどういうこと?何で?何で?何で!?にこちゃんに嫌われた?僕が想っているようには好かれていないって知ってるけど、でも、とてつもなく嫌われてはいないと……思ってた……)
ガタン、ゴトンと規則的な音を奏でる電車に揺られているだけで、負の感情に塗れた思考もまた揺られて、余計に落ち込んだ気分になってくる。移りゆく車窓の風景に目をやることもなく、車内の広告の文字を読むこともなく、槐は虚ろな目で黒ずんだ床と少しずつ増えていく人間の足先を眺めるばかりだ。
「あの~大丈夫ですか~?」
遠慮がちにかけられた声に反応して槐が顔を上げると、吊革をハンカチ越しに掴んで立っている二人組の若い女性が目の前に立っていることに気が付いた。ボーイッシュな恰好をしている女性とは反対に、茶髪にふんわりとしたパーマをかけているセミロングが印象的な可愛らしい恰好をした女性がもじもじとして、けれどもじっくりと槐の顔を見つめている。
「顔色悪いですよ。気分でも悪いんですか?」
「あ、ああ、大丈夫です。気にかけてくださって、有難う御座います」
彼女の言葉で、槐は自分がどのような状態にあるのかを知る。何とか表情を作って彼女に御礼を言ってから、彼は徐に後ろの窓を振り返る。電車が動き出し、先程まで停車していた駅名を見て、目的の駅の一つ手前までやって来ていたことも知る。
(兎に角にこちゃんに会って話をしたい。にこちゃんの口から直接言ってもらわないと、納得出来ない……っ)
槐の前に立って、槐の目を見て、にこが「私に関わるな」と拒絶の意思を吐き出したとして、槐は本当にそれで納得出来るのだろうか。面と向かって告げられたことに傷つき悲しみ、泣き崩れる可能性の方が高いかもしれない。それでも槐は根拠のない可能性にかけるつもりのようだ。
自発的に精神を追い詰めている槐は駅の改札を抜けて、これからにこが住んでいるアパートを目指し、やがて得体の知れない不安と焦燥に駆られて、物事を冷静に考えられなくなっている槐の細くて長い足が止まる。にこが住んでいるアパートに到着するなり、彼は彼女の部屋の窓に目をやった。部屋の明かりはついていない。にこは未だ帰宅していないのか、それとも既に就寝しているのか。
――先ずは、にこが在宅しているのかどうかを確認しよう。
形の良い唇を引き結んだ槐が一歩踏み出した時、甲高い声が夜の闇に響いた。
**********
実の父親である水沼に八つ当たりの電話をされた日からだろうか。にこの携帯電話の着信履歴に、”公衆電話”の文字が現れるようになった。一時間に一回の頻度でかかってきているようだが、身に覚えがないにこは無視を決め込んでいた。
(あれ、またかかってきてるよ。まさかこっちが電話に出るまでかけ続けるつもりじゃねーだろーな?)
”公衆電話”の向こうにいる人物が質の悪い悪戯をしているのか、それとも、かけ間違えていることに気が付いていないのかは分からない。着信履歴に目を通す度に増えていく”公衆電話”の文字が流石に気持ち悪くなってきたので、着信拒否設定をしたのだが――着信音などからは解放されても、履歴から公衆電話の文字が消えることはなく、にこはがっくりと頭を垂れた。
(あ~あ、今日も一日働いてご苦労さーん。ビールでも飲んで気を紛らわせよう)
コンビニに立ち寄って、安い弁当とビールを一本購入して、帰宅してみると――
「やっほっほ~!にこ、おかえり~!待ってたよ~!」
にこの心の健康を害する存在、母親の博子が彼女の部屋の前で待ち伏せをしていた。今日もまた、近くの公園で食事をしなければならないようだ、と、瞬時に悟ったにこは素早く踵を返し、肌寒い夜道を歩いていく。にこに無視をされても全く気にも留めない博子はヒールの高いサンダルを履いているにも拘らず、軽い足取りで、にこの後を追いかける。
「ねえ、聞いてよぉ~!あんたがお金をくれないから、前のダンナにお金を貰いに行ったら、あいつ、一円もくれないんだよ!?あんたの都合で捨てた元妻へのイシャリョーとかあるでしょ!?それに後妻は略奪婚なんだから、その女も私にイシャリョー払いなさいよね!って言ったら、あいつ、警察を呼ぼうとしたのよ!?ありえないでしょ!?」
――ありえねーのはてめえの方だよ。と、喉から出てきてしまいそうになったので、にこは急いで口を閉じた。口を利いてはいけない、博子に隙を与えてしまうのだと知っているだろう。博子を視界に入れるな、出来るだけ声も耳に入れるな、と、自分に言い聞かせる。
一度たりとも後ろを振り返らず、にこが無言を貫いていてもお構いなしの博子は好き勝手に喋る。夜という時間帯であることに一切の配慮はしないで、大きな声で喋る。
「あ、でもね、にこのケータイ番号教えてくれたわ。にこの母親なんだから、にこに頼るのが筋だろうって言われたのよ。だからね、あんたのケータイに何回も電話かけたのに、あんたは全然電話に出てくれなくて……っ。ママを見捨てようとしてるんでしょ!?酷いっ!!」
着信履歴を埋め尽くした”公衆電話”の正体が博子で、その原因を作ったのが水沼だったと判明し、にこは思わず足を止めてしまった。それを博子は見逃さず、意気揚々とにこの隣に並び、顔を覗き込んできた。
(あの親父は本当に碌なことをしねーな!このオバサンにアパートの住所を教えたのも、あの親父だし……っ!)
高校を卒業し、直ぐに一人暮らしを始めたにこは博子にアパートの住所を態と教えなかった。兎に角、博子から離れて、博子の存在を気にしないで生活をしたかったからだ。けれども余計な気を利かせた水沼が博子に住所を知らせてしまい、博子がにこの許を尋ねて来られるようにしてしまったのだった。水沼曰く「二人きりの親子なのだから、何かあった時のために互いの住所を知っておいた方が良い」とのこと。本人は善意のつもりなのだろうが。にこにとっては多大なる迷惑以外の何物でもない。
成人してしまえば、何かをするにも親の許可はいらない。その時に保証人を見つけて、別の場所へと引っ越してしまっていれば良かったのだが、あのアパートの家賃の安さが魅力的だったのと、貯金を優先することにしか目が向いていなかったので、機会を態と逃してしまったことを今更公開しても遅いと、にこは痛感する。
(流石に何とかしないと、これ以上このオバサンに関わると、私が、駄目になる。また、駄目になる……っ)
前回と同じように、博子は自分が如何に可哀想な存在であるかを説いて、当面の生活費として、にこに五十万円を融通しろと言ってくる。「あまりにもしつこくすると、警察を呼ぶ」と言って、携帯電話をかけたふりをしてみると、怯んだ博子が一目散に逃げて行ったので、ほっと息を吐く。それから水沼に電話をして、「他人の携帯番号を勝手に教えるな。プライバシーの侵害だ。今度やったら訴える」と文句を言って、受話口から漏れ出る水沼の声を無視して、電話を切ってやった。少しだけ、すっきりしたような気がする。
公園に辿り着く前に博子を追い払えたので、にこは帰路に着く。部屋の鍵を開けて、閉めて、部屋着に着替えるなり、彼女は万年床の上に転がり、そのまま目を閉じた。折角買ったコンビニ弁当も食べないで、無理矢理に眠りの淵へと落ちようとする。
――翌日。博子の襲撃を警戒したにこは、滅多に立ち寄ることのないファミリーレストランで無意味な時間を過ごし、深夜に帰宅したのだが、何食わぬ顔をした博子が三度待ち伏せをしていた。余程切羽詰まっているのか、毎度お馴染みになってきてしまった台詞「五十万円を頂戴」を吐いて、にこにしつこく付きまとう。その無意味な一所懸命さを真面目に働くことに使えば、生活に困ることには絶対にならないだろうに、と、にこはどこか他人事のように考えるが――博子は決してそんなことはしないだろうと直ぐに結論を出す。この日も「警察を呼ぶ」と言って、博子を追い払うことが出来た。
その次の日も、また次の日も博子は待ち伏せをしている。博子は必ず一人で、にこを待ち伏せしている。”支えてあげなくてはいけないダーリン”とやらの姿は、一度も見ていない。その男はきっと自分では動かずに、女に金を調達させているのだろうと、にこは推測する。幸せな生活を望む博子が選ぶ男はいつも、こういう碌でもない人間なのだ。
連日連夜の博子の来襲に身も心の疲れ果てた頃、にこが置かれている現状を知らない槐からデートのお誘いメールが届いたが、彼女は返信しないままにした。適当な返信さえもする気力がどうにも湧いてこなかったのだ。
(さて、と。会社の通勤圏内にある、家賃の安いアパートの空き部屋を探さないとな……)
現状打破のためににこはついに引っ越しすることを決意する。彼女の背中を押したのは、アパートの御親からの電話だった。
『あのね、媚山さん。誰かと揉めたりするのは別に良いんだけど、夜中に大きな声を出すのは控えてもらえないかな?隣近所から、声が五月蠅いって苦情が入ってきてね。このまま続くようであれば、此方も相応の対処をしないといけなくなるよ?』
頭の片隅で引っ越しでもしようかと考えていたにこは大家に対して、こう答えた。「近いうちに次の入居先を探しますので、もう暫くの間だけ住まわせてください」と。すると大家は「あんたは真面目に家賃払ってくれるから、追い出したいとは思っていないんだけどね……これも大家の役目だから、悪く思わないでね」と返答した。
(槐から貰った金は殆ど貯金に回してるし、今の会社の給料も出来るだけ貯金に回してる。だから、何とか引っ越し出来る分の金は……あるかな)
貧乏臭い生活をしている自分がほとほと嫌になる時が多々あるが、こういった非常事態で大金が必要になった時だけは自分の性分に感謝したくなる。後は、条件に見合った物件が存在していてくれることを祈るばかりだ。
そして、にこは仕事帰りにネットカフェに立ち寄り、不動産や引っ越し業者などのウェブサイトを閲覧して、情報の収集に熱中した。
(あ、そうだ。引っ越し先を探すのも大事だけど、携帯の番号も変えないと……)
そうしなければ、いつまでも博子はにこと連絡が取れる状態のままだと気付いた時、にこは何かを忘れていることにも気が付いた。
(やばい、槐のこと綺麗に忘れてたわ……)
目的を達成するまで驚異の粘着力で付きまとう人災こと博子の魔の手から逃れることにばかり意識が集中していて、槐の存在を忘却の彼方へと追いやってしまっていた。放置したままでいるメールをもう一度読み直し、にこは漸く返信する。今は本当に気持ちに余裕がないので、「暫くの間、私に関わろうとするな。何事も無くなったら、また連絡を入れる」と送信したメールに書いた。
手にしていた携帯電話を鞄の中に入れて、条件の良さそうな物件の情報をプリントアウトして、それを会計で受け取ってから、ネットカフェを後にする。これから自宅に戻り、集めた情報と通帳とを見比べて、出来るだけ早いうちに決断をしなければと考え事をしているうちに、彼女はいつの間にか自宅のあるオンボロアパートへと辿り着いていた。
「……げえっ」
「おっかえり~、にこ~!待ってたよぉ~!」
何度追い払われても全くめげることなく、今夜もまた待ち伏せをしている博子を見つけてしまったにこは意識が飛びそうになってしまった。
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