第17話 心に余裕が出来ると、上から目線の奇妙な優しさも生まれます
夏の風物詩の一つと言えば、花火。ただでさえ蒸し暑さが鬱陶しくて堪らないというのに、人々は花火を見る為に一度に一ヶ所に集まる。人口密度が高くなれば必然と不快指数が高まっていくのだが、どおんと花火が打ち上がってしまえば不思議と人々の意識は真夏の不快感から其方へと向かっていく。腹の内に響くような打ち上げの音を耳にし、そして火花が煌めく際の騒音も夜空を彩る美しい光の洪水を目にすれば、いつしか気にならなくなる。
――そう、にこが着せられてしまっている浴衣のように。そうなったのには勿論、理由が存在する。
本日の夕方のことだ。年下の恋人(仮)の自宅へと到着したにこを迎えたのは、そわそわと且つもじもじとしている槐で、彼は出迎えの言葉を言い終えた後に言葉を続けた――今夜は浴衣を着て花火を見ないか?と。
普段着だろうが浴衣だろうがドレスだろうが、どの恰好をして花火を見ようが何かが変わる訳ではないだろうに。と、情緒を感じ取る心があまり発達していないにこは思ったのだが、珍しく文句を口に出さずに槐の意見に従うことにした。彼女はこの日、機嫌が良かったのだ。
そうして寝室へと案内された彼女は着せ替え人形宜しく、彼の母親に借りたのだという白地に朝顔の模様が描かれた浴衣を槐によって着付けられていく。動くことが出来ず、暇を持て余したにこは奇妙な雰囲気に呑まれて艶っぽい展開になっていくのかと妄想したものの、槐は至極真面目に着付けをするだけだったので、妄想はただの痛い妄想に終わる。
(妙に手馴れてんなあ、こいつ。童貞ではいたけど、それなりには女遊びしてたんじゃねーの?)
結果としてそうなった、槐の誕生日デート。その時分にも着物を着たが、その際は美容室で着付けて貰っていたので、彼には女物の着物の着付けは出来ないと思っていた。けれども実際にはやたらと手際が良かったので、何だかそれが面白くないにこは碌でもない疑いを持つ。
「あんた、浴衣の着付けが出来るんだ?」
「ああ……うん、その、今日の為に母さんに着付けの仕方を教えて貰ってきたんだ」
自分の着付けは出来るのだが、誰かに着付けをするのは慣れていないので猛特訓したのだと、彼は照れた様子で答える。花も恥らう乙女宜しく頬を桜色に染める美青年の姿に言葉を失ったにこは、せめてもの意思表示として、白い目で彼を見ることしか出来なかった。
「僕も着替えてくるから、先に花火と食事を楽しんでいて」
「予め着替えておけよ。段取りが悪いな……」
「うん、御免ね」
そう言い残して、槐は別室へと姿を消す。広々としたリビングに一人残されたにこは、やれやれといった心地で溜め息を吐くと、花火観賞がしやすいように移動されているソファに腰掛ける。目の前のローテーブルには美味しそうな料理が詰められた重箱、ワインクーラーに収められている赤・白のワインに日本酒や瓶ビール、グラスやお猪口が並べられている。
(先に楽しんでいろと言ったのは奴ですので、遠慮なく酒を楽しみますかね)
伝統的な日本人体型、要は寸胴ついでに胴長短足体型のにこには、ソファに腰掛けたままでローテーブルの上に置かれているものを飲み食いすることは難しい。彼女は夏用のラグが敷かれている床に正座して、一先ずお重の中身を箸を使ってつまみ食いする。何処ぞの高級料亭で拵えてもらったかのような美しく盛り付けされたそれは問答無用で美味しく、彼女は次々と料理を箸で摘んでは、遠慮なく口の中に放り込んでいった。
「胡坐かきてえ~」
ある程度腹が膨れたところで、足が痺れを訴えてきた。行儀良く畳んでいた足を崩して、びりびりと痺れている足を擦り、痺れが取れたところでワインクーラーの中から瓶ビールを取り出し、グラスの縁ぎりぎりまで中身を注ぐ。胡坐をかいてしまいたい気持ちを何とか押さえ込んで、再び正座すると、程好く冷えているビールを一気に体内に流し込んだ。
にこが一人で飲酒と飲食を楽しんでいるうちに花火が打ち上げられ始めた。大きな音と鮮やかな光に気付いた彼女はビールを呷る手を止めて窓の外に目を向け、都会の明るい夜空に煌めく花火を見る。
(本当に花火が見えるのか、この部屋。てーことは、結構な額の家賃を月々支払ってんですね~、あのお坊ちゃまは~。……いや、正確にはお坊ちゃまの御両親がだけど)
槐に対しては妬み嫉みを如何なく吐き出すにこだが、彼の両親に対しては悪し様に言葉を投げかけるようなことはしない。彼の両親に悪意のある対応をされたことがないので、そんなことをしようものなら多少なりと罪悪感が出てきてしまうかららしい。槐にもそんな対応をされたことはないのだが、そのことは綺麗サッパリ忘れていることに彼女は気付いているのか、いないのか。
「――料理とお酒は進んでますか、にこさん?」
近くから声が聞こえ、視界の端で何かが動いた。花火ではなく虚空に目を向けていたにこは顔は動かさずにそれを確認する。麻で作られた涼しげな浴衣に着替え終わった槐がソファではなく彼女の隣に腰をおろしていて、優美な微笑を湛えて、にこを見つめていた。
(おいおい、一体何処まで美形アピールするつもりだよ、この野郎は……)
カジュアルな洋装であってもそこはかとなく他者の目を引く槐だが、和装はより一層彼の容姿の良さを引き立てるようで、妙な色気まで醸し出している――ように見えてしまったので、にこは反射的に思いきり嫌そうな表情を浮かべる。
「……どうかした?」
彼女の顔を視界に入れた槐は眉を下げ、おどおどとした声音で尋ねた。原因が何であるのかは察せないが、にこの不興を買ってしまったのではないかとは察することは出来たようだ。
「あー、浴衣が良く似合っていらっしゃいますね、素敵ですー」
雇い主の機嫌を損ねてはいけないと咄嗟に思ったにこは、脳裏に浮かんできた適当な褒め言葉を棒読みで口に出す。それを耳にした槐は一瞬きょとんとするが、直ぐに微笑んで「有難う」と返した。
(そんなことないよ~とか謙遜しねえのかよ。自分は美形だって自覚があるんだな、むかつくわー……)
何だかんだで槐は自分の容姿の良さに自信を持っているようだ、と曲解をしたにこは口元を引き攣らせつつ顔を背ける。そして意識を槐から酒に向けることにして、空になっているグラスにビールを注ごうと手を伸ばすと、横から現れた腕がビール瓶を攫っていった。
「どうぞ、にこさん」
「……あざーす」
滅多に槐のことを褒めないにこ――五年前の彼女はそうではなかった――が、棒読みの台詞ではあるものの槐を褒めた。そのことに衝撃を受けたものの、単純に嬉しかった槐ははにかみながらお酌をする。
(何だろう、ホストに酌されているような気分だな。ていうか慣れてるな。やっぱりこいつ、大人しそうな顔してそこら中で遊びまくって……)
槐がお酌をすることに慣れているのは、父親や兄を相手にした酒盛りに参加をして経験を積んだからであるのだが、そんなことを露ほどにも知らないにこは、大分酔っ払って出来上がってきているにこの頭は勝手な想像を現実であると誤認識する。
「花火、綺麗だね」
「綺麗じゃねえ花火ってあんの?」
「……偶にはあるのかもしれない……かな?」
会話の起点になるようにと地面に蒔いた種は発芽する間もなく、突然の大雨によって流されて消えていってしまった。花鳥風月を楽しむ感覚があまり発達していないにこと共に風情を味わおうとするのは困難であるようだ、と、槐は実感し、別のことに目を向けることにした。
(それにしても……大丈夫なのかな、にこさん……)
彼女の顔は真っ赤になっていて、据わりきっている目は潤み、時折吐いている深い溜め息は非常に酒臭い。再会した時の彼女を思い起こすような姿――つまりはべろんべろんの酔っ払いは、正直に言って色気も素っ気も無い。このまま飲酒を続けていると真っ赤な顔が真っ青な顔に変化していってしまうのではないか。そう危惧した槐が彼女に忠告をするか否かと迷っていると、何杯目か分からない日本酒が注がれたお猪口を開けたにこがぐりんと顔の向きを変えて、思い出したように口を開く。
「言うの忘れてたわー。あのさあ、やっと就職が決まったんだよねー」
「え……?そう、なんだ、おめでとう、にこさん」
「まあ、そういう訳なんで、家政婦の仕事は辞職させて頂きまーす。正社員と家政婦の二足の草鞋はきついんで、年齢的に。次はちゃーんとプロフェッショナルな家政婦さんを雇ってくださーい、高ーい時給払って」
或る日のこと。とりあえず続けていたハローワーク通いで、にこはとある会社の正社員の募集を発見する。これまでの不採用続きですっかり就職活動に対して後ろ向きになってしまっていたにこは、駄目で元々とその会社に電話をしてみた。すると驚くほど簡単に面接の日取りが決まり、いとも簡単に正社員としての採用が決定した。こうして彼女は、主にビルの清掃を請け負っている会社で事務の仕事をすることになったのだ。
その知らせを受けたのは二日ほど前のことで、再就職が決まった喜びが未だ持続している為、今夜のにこは珍しく機嫌が良かったという訳だ。
「再就職が決まって本当に良かったね、にこさん。おめでとう……」
「おい、何だよ、お坊ちゃま。ちょっともおめでたく思ってるよーな顔じゃねーんですけど。また不採用になれとか思ったの?うわ、最悪ー」
「……違うよっ。そんなことは思わない。ただ、にこさんと過ごせる時間が減ってしまうのかと思うと、寂しくて……」
勢いのままに心情をぽろっと零した槐ははっとして、即座に口を噤む。それは本音であるのだが子供っぽい言い分で、表に出してしまうのは成年を迎えた男性としては恰好が悪いことだ。ただでさえ年下であるということで子ども扱いされてしまうことが多いので、そうされない為にも余裕のある男性として振舞いたいのだが――そうしようとすればするほどボロが出てしまう。
どのようにして前言撤回しようかと槐が頭を悩ませていると、にこが笑い声を上げた。
「私と会う時間が減るのがそんなに寂しいの、槐は?」
「あっ、いやっ、ええとっ、そのっ、あ~……っ!……寂しい、よ」
からかい混じりに問いかけられたので反論しようと試みたのだが、彼女を納得させられるような言葉が槐には見つけられない。焦っているので、頭が上手く回らないのだ。漸く口に出せた言葉は、またしても本音。恰好の悪い真似しか出来ないのかと、槐は俯いて落ち込む。
「まだまだお子様だね~、槐は~。かっわいい~」
「な……っ!」
からかいの言葉を投げられた槐がかっとし、反射的に顔を上げると同時に彼女を睨みつける――が、彼は目を瞠り、ぽかんとする。彼の目に映ったのは、にこにこと笑っている酔っ払いのにこ。苦笑いでもなく、嫌味を大いに含んだ笑いでもなく、自嘲の笑みでもない、純粋な笑顔だ。
「私がいないと寂しいんだ。へえ~」
にこの手がゆっくりと伸びて、彼女に見惚れている槐の頬を優しく撫でる。そしてそのまま体を動かして彼の首に腕を回し、ふうっと耳に息を吹きかけた。
彼女の不意打ちに驚いた槐が体をびくつかせると、にこは楽しそうに肩を揺らす。
「私がいないと駄目?」
「……うん」
実際にはにこと五年も会わなくてもやっていけていたので、そうではないのだろうとは思う。けれども彼女と過ごしている時の方が何倍も心穏やかでいられて、楽しくて、時々苦しくて悲しくなる。にこという存在は槐の感情を豊かにしてくれるスパイスだ。
予想もしていなかったにこの行動にドキドキして目を泳がせていた槐は流されるままに、本音を吐き出した。舐める程度にしか酒を飲んでいないのに、泥酔しているにこと同じくらいに顔を赤くして。
(――ああ、良い気分。誰かに必要とされるのって、本当に気分が良くて……堪らないわ~)
槐の返答は、にこの内に暗い喜びの花を咲かせた。
「槐、可愛い」
逃げられないように両手で槐の美しい顔を捕まえて、にこは自発的にキスをする。初めは緊張していた彼の唇は彼女の執拗な誘惑のキスに負けて、少しずつ緩んでいく。思考力が落ちてきた槐はぶら下げているだけだっただけの腕を徐に動かして、彼女を閉じ込める。普段であればそのような真似を働けば嫌そうな顔をされる上に、きつい言葉を投げかけられるが、機嫌が良い酔っ払いのにこは槐を拒絶しない。
にこに拒絶されないことで槐の理性の箍は少しずつ、然し確実に外れていく。彼女を掻き抱いている腕を片方だけにして、自由にした手で背中や脇腹、更には太腿を撫でる。キスの間に漏れる艶っぽい吐息が聞きたいと、槐の行動が大胆になっていく。
「ん~?何で急に盛ってんの~?」
触れ合わせていた唇を離して、にこが意地悪な質問をする。槐からしたら、けしかけてきたのはにこの方だというのに。
「……にこちゃんが、好きだから、どうしようもない」
発情した雄の顔をしている槐はうっかり”ちゃん付け”で彼女の名前を呼び、再び唇を塞ごうとして――彼女の掌に阻まれた。
「そんなに好きなの~、私のことが~?」
「好きだよ、大好きだ」
熱を帯びて、しっとりと汗ばんでいる彼女の掌にキスをして、あざとく舌を這わせて、槐は正直に答える。建前を放り投げて、本能で求めてきているのだと感じたのか、にこの背中にぞくぞくとした快感が走った。
「今のあんたは好き」
理由なんてどうでも良い。誰にも必要とされない私を求めてくれたなら、それで良い。求められるのは、とても気持ちが良い。
泥酔して思考力が落ちているにこの猜疑心が全く機能しておらず、支離滅裂なことばかりが頭の中に浮かんでは消えていく。満足そうに目を細めているにこは流されるがままに発情している槐を押し倒して、貪るようなキスをした。
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