第16話 そろそろ頭の中のハムスターも駆け回ることに疲れてきたでしょう

 大学が夏休みの期間に入ってから、槐は家を空けていることが多い。けれどもこの日は珍しいことに、槐が自宅にいた。出かけるような用事がないと槐が言っていたので、昼食の用意をしなければならない。にこは現在、臨時の家政婦として槐に雇って貰っている身なので。

 平均的な家庭にも一人暮らしの男性にも不釣合いだとしか思えないシステムキッチン――然も機能性もデザイン性も優れている――を前にしたにこは、本屋で購入してきた料理本と材料とを交互に睨みつけながら、食事の支度に励んでいる。今までも槐に手料理を提供する機会は幾度もあった。金持ちのお坊ちゃんが一度たりとも味わったことが無いような、節約を通り越した貧乏臭いとしか言いようの無い手料理には、槐へのやっかみやら嫌がらせやらの気持ちをこれでもかというほど込めてやった。

 ――食べられるのであれば、とりあえずは料理と言えそうなものであればなんでも良い。一日三食同じ献立が毎日続こうとも問題はない。といった、にこの屁理屈を押し通してやってきていたが、普段であれば決して手にすることの無い値段の食材を相手にしているうちに、それらを粗末としか言いようの無い料理へと変化させるのは食材様に非常に失礼なような気がしてきたし、それらを口にしても文句一つ言ってこない槐の味覚に不安を覚えたりしたので、確りとした”美味しい料理”を作ろうかと思い始めたのだった。

 然し、ド素人と言っても過言ではない腕の持ち主がいきなり素敵な料理を作れるはずも無い。栄養バランスだの、カロリー計算だの、彩りだの料理同士の組み合わせだのに気を遣ったとしても、一石二鳥で腕が上がるはずもない。

 ――そんなことが出来るなら誰でも一流の料理人になれるわ!

 と、ブツブツと文句を垂れながら、にこは料理本に記載されている情報に頼って事を進ませていく。それだけで美味なる料理が出来上がるのだと頭では理解しているものの、そこに辿り着くまでの手間が面倒で堪らない。

 ――世の料理人や主婦は毎日この苦行に耐えているのか。

 にこは彼らを尊敬した――ような気になった。


(あ~あ、早く次の就職先が見つかってくれないかなぁ。ていうか、何でこうも面接に落ちまくるんだろ?分からねーわ、マジで。あ~、そういえば、あのCDショップから連絡来ねぇな。面接してから二週間くらい経過してんだけど。『合否は必ず連絡しますので』とか言ってたのに……忘れてんのか?)


 その他にも本屋のアルバイトを受けていたのだが、其方はCDショップよりも後に面接を受けていて、三日も経たないうちに『不採用です』と電話がかかってきていた。やはり、採用の合否を連絡することを忘れ去られているのだろうかと、疑いの目を向けざるを得ない。


(あの本屋は本屋で、どうも店長の趣味で二十代前後のスレンダー美人を取り揃えてるみたいだったしな。此処は無理だろうなと自分でも思ってたから採用されなくても文句は無い。いや、あるにはある。外見の良し悪しだけで判断しやがって、とは思うけど……まあ……合否の連絡はちゃんと寄越してくれたし)


 それに比べて、あのCDショップの店長ときたら。やる気のなさそうな態度で面接をしていて、更には連絡も寄越さない。それで店長が務まるのだから世の中は全く分からないと、にこは心の中で文句ばかりを呟く。そうして、ふっと我に返り、無意識の内に上手くいかない就職活動のことばかりに意識が行ってしまっていることに気がつき、頭を乱暴に揺さぶることで一つのことで停滞しがちな思考を切り替える。頭を振りすぎたので、にこは多少気持ち悪くなった。

 ――暫くして。適当に皿に盛り付けた料理をダイニングテーブルの上に並べると、にこは小さく溜め息を吐いた。朝に挨拶を交わしてから姿を見ていない槐を書斎まで呼びに行く。


「本日の昼食は五目ちらしとお吸い物と――モヤシが多めのサラダです」


 食卓の席に着いた槐に、にこは献立の内容を大雑把に説明していく。料理本には、もっとちゃんとした献立の名称が掲載されていたはずなのだが。


「美味しそうだね。作ってくれて有難う、にこさん。……頂きます」


 行儀作法のお手本のように箸を手にした槐が静かに皿を持ち上げて、五目ちらしを一口食べる。味付けが口に合ったのだろうか、彼は嬉しそうに目を細めて、「美味しい」と呟いた。

 ――そりゃあ美味しいでしょうよ、レシピの通りに作りましたからね。

 余程の料理下手の手にかからない限り、材料と道具を揃えてレシピの通りに作れば美味しい料理が出来上がるという寸法なのだから、と、にこは心の内で毒づく。


「……実家のお手伝いさんの方が、もっと美味しいものを作ってくれるんじゃない?」


 口に出さなくても良いことをにこが態と口に出すと、槐は遠慮なく「そうだね」と肯定してきた。自分の言葉を否定して欲しかったという訳ではない――心の奥底ではそうして欲しかった――が、こうもあっさりと肯定されてしまうと身勝手にも腹が立つ。にこは額に青筋を浮かべたが、身の内に湧いた理不尽な怒りを何とか押さえ込んだ。


(落ち着け、落ち着け、私。奴は雇い主です。私は奴よりも三歳も年上です。奴は私の弱味を握っています。奴が私の弱味を暴露したら、私は確実に警察のお世話になります。賠償金払えない。慰謝料払えない。示談金払えない。前科がつく。再就職絶望的。私の人生終わる)


 無理矢理に冷静になる呪文を心で唱えていると、仏頂面になっているにこに気がついていない槐が続けて口を開く。


「確かに家のお手伝いさんが作ってくれる料理は美味しい。彼女たちはその道のプロフェッショナルだから。でも……僕は、にこさんが作ってくれる料理の方が好きだ」


 何言ってんだこいつ?と言わんばかりの目でにこが槐を睨みつける。彼はその視線に気がつくと、そっと目を伏せて、とても恥ずかしそうに頬を染める。そして、こう呟いた――好きな人が作ってくれた料理だから、と。

 その言葉に素直に喜んだら良いのだが、捻くれ者のにこにはそれがどうしても出来ない。彼女は眉間に深い皺を刻み、もう一度彼を睨みつける。


「あのさぁ、どうでも良いと思ってたから聞かなかったんだけど。あんた、何で私が好きなの?探せばもっと条件の良い女が転がってるじゃない、その辺に。どうしてよりにもよって、こんな欠陥だらけの……碌でもない女が好きだとか言っちゃうかな?意味が分からねーっ!」


 自分は碌でもない人間である、という自覚があるのでにこは口に出したのだが――その言葉は思ったよりも、心に深く突き刺さった。

 質問をされた側の槐はきょとんとすると、虚空を仰いで黙考した。


「……中学生になったくらいの頃からかな?二連木槐とはこのような人間であると勝手に想像をして、それと違うことが分かると勝手に失望する人と関わることが多くなっていって……何だか寂しかった。容姿端麗の秀才という完璧な人間であることを求められて、辛かった……かな」


 家族は思い描いた理想像を槐に求めることがなかったので、そういったことをされた槐は強い衝撃受けたものだ。


「にこさんは僕が内気で頼りなくて、運動が少し苦手な人間でも……僕を受け入れてくれていたでしょう?苦手なことがあっても、他に得意なことがあるなら其方を頑張れば良いと言って貰えた時、凄く嬉しかった」


 家庭環境のことで周囲に何かを言われても、真っ直ぐに前を見て歩いていっているにこに憧れた。時折、ふとした瞬間に見せる、にこの酷く寂しそうな表情が気になるようになっていって――気がつくと、にこの役に立ちたい、守りたいと思うようになっていたのだと、槐は初めてにこに語る。


「心の支えになることは出来ていないようだけれど、金銭面だけは支えになれる。僕にはそれしか出来ないみたいなのだけれど……」

「いや、他にも出来てることあるよ。私の神経を逆撫でするのが上手いよ、あんた」

「……御免なさい。あの、その、にこさんを愛しく思う気持ちは本当なんだ。上手く、言葉にすることは出来ないけれど……」

「はいはい、あざーす。あ、お吸い物冷めるよ」

「……うん」


 にこは無理矢理に話を中断させて、別の話題へと移行する。それ以上は聞きたくないと、頭が勝手に命令を出してしまっていた。自分から尋ねておいて、答えを聞いて、それが気に入らないとなると勝手に話を終了させる。にこは自分勝手で、且つずるい真似をした。その自覚はあるが、やってしまった手前、何となく引くに引けなくない気分になった。


(……どんな風に伝えたら、にこさんは納得してくれるのだろう?)


 伝えたいことを他者に説明することが得意であったのならば、彼女は自分に呆れたりしないだろうに。他者に失望されることには慣れているはずなのに、どうして彼女に対してだけはそう思ってしまうのだろうか。槐はその答えが何であるのかを分かっている――好きな人には失望されたくないのだと。

 答えが分かっていても、どうやって説明をしたら良いのかまでは分からず、悶々と考えてしまうばかりだ。一度気持ちを切り替えなければ沈み込んでいくばかりだと感じた槐は、にこに促された通りに吸い物に口をつける。冷房が効いている室内での食事をしている為か、熱かったはずのそれは少し温くなっていた。


(私も結構、こいつの神経を逆撫でするようなことばっかり言ってるはずなんだけどな……)


 表情を曇らせて食事をしている槐に気取られないようにして、彼の様子を探るにこ。

 恐らくは無意識ににこの神経を逆撫でするようなことを口に出してしまっているのだろう槐と違い、にこは故意にやっている。にこは激昂して余計に酷い言葉を投げかけるが、彼は謝罪をして、理不尽な物言いをしたにこを責めることをしない。そんな槐の思考が読めず、にこは苛立つ。


(五年前まではどんな風にこいつに接してたんだっけ?そんなにも昔のことなんて事細かに覚えてないってーの、どこぞのお坊ちゃまと違って)


 過ぎ去っていった彼の日の光景はすっかり色褪せてしまっている。それでも何とか思い出してみようと試みつつ、五目ちらしを頬張り、にこは咽た。しっかりと白飯と寿司酢を混ぜ合わせたつもりだったが、混ぜ具合にむらがあったようだ。小さな塊になってしまっている部分が他の部分よりも酸っぱくなってしまっている。


(……槐の奴、何で文句一つ言わずに黙々と食べて……あー、何だかぼろぼろと思い出してきたぞ……)


 酢の衝撃で脳味噌の回線が上手く繋がったらしい。突然、断片的な記憶に辿り着いてしまったにこは呆けた顔をして、槐を凝視する。それに気がついた槐が「どうかした?」と尋ねてきたので、彼女は慌てて表情を仏頂面に戻し、五目ちらしをかっ込んで、ごほごほと咽た。

 ――やがて五月蠅いほどの沈黙に包まれた食事が終わり、にこはてきぱきと片づけを始める。トレーの上に殻になった食器を全て載せると彼女は小さく溜め息を吐き、食後のお茶を嗜んでいる槐に声をかける。


「いきなり話を蒸し返すんだけど。五年前までは、あんたと過ごす時間が嫌いじゃなかったよ。家庭教師のアルバイトも嫌じゃなかった。あんたに教える分の予習は大変だったけど、その御蔭でこっちの成績も上がったし。……あんたは私を見下さなかった。嫌いな下の名前を馬鹿にしなかったし、色ボケババアの娘だって馬鹿にしてこなかったし、母親と同じ道を歩むに違いないって決めつけてもこなかった。それは……嬉しかったかもしれない」


 蛙の子は必ず蛙だと、周囲の人間たちも、生徒を公平に見ていると善人ぶっている教師も決めつけてきた。極稀に、本当に親身になってくれる人間がいて、その中に槐がいた。馬鹿にされないようにと突っ張って、他人と深く関わろうとしてこなかったにこが唯一作った馴染みの人間が槐だ。大人しい彼と親しくすることには弊害があり、勝手な想像で傷つくような陰口を叩かれたこともあった。それでも槐との付き合いを止めようとは思わなかった――あの日までは。

 その理由として思い浮かぶことは、二つ。一つ目は家庭教師での収入を失うことが死活問題だったから。二つ目は、二連木家の人々が好ましかったから。穏やかで温かな家庭の中に余所者のにこが紛れ込んだとしても、二連木家の人々は野良犬のようなにこを追い払おうとしなかった。”劣悪な環境にいる問題児”ではなく、”槐の友人”として応対してくれていた。それが素直に嬉しかったことを、にこは漸く思い出す。

 壊れてしまって直すことが出来ない、寂しくて暗い場所しか知らなかったにこを、日の当たる温かい場所へと連れて来てくれたのは槐だ。


「……あんたのこと嫌いじゃなかったよ、五年前まではね」

「今は嫌い?」

「私を好きだって言ってくるところが気に入らない」


 誰よりも誰かに好かれたいと心底願っているのに、それは決して叶わないのだと思い込んで、自分が愛される価値のない人間なのだと悲観して殻に閉じこもる。そうして、自分を守る。いつだって、にこはそうしてきた。それでも時々は若しかしたらと期待して、失望する。

 目を伏せて、自嘲の笑みを浮かべているにこの傍に、いつの間にか席を立っていた槐が佇んでいた。徐に顔を上げると、彼は真摯な目をして、にこを見つめていた。


「僕は以前のにこさんも、今のにこさんも変わらずに好きだよ。迷子になって泣いていた僕を助けてくれた年上の女の子が、意地っ張りだけど優しくて、誰よりも頑張って生きている女の子が、やさぐれても根は生真面目でとても不器用な女性が……誰よりも好きだ」


 ああ、こいつはまたおかしなことを言っている。そうとしか受け取れないにこは、槐から目を逸らして、鼻で笑う。


「趣味が悪すぎる。折角、生まれた環境も見た目も何もかも恵まれてるんだから、ちゃんと釣り合いの取れる女を選んだら――」

「趣味が悪いのは君の方だ。君が言うところの色々なことに恵まれている人間であるらしい僕が君を求めているのに、君はそれがおかしいと否定する。それは何故?僕の容姿が君の好みではないのだとしても、親の財力があるから将来は安泰だと喜んだりはしないのかな?そんな君は平々凡々な容姿の財力は平均並みの、変な野心だけは無駄に旺盛な勘違い男が良いと言う。その方がおかしい。僕の方が絶対に良いよ、あんな男より。どうして僕では駄目だというの?」


 これがドラマなどで言うところの、”平凡な私にどうしてこんなにも素敵な男性が告白してくるの?”というシチュエーションなのか。と、にこは他人事のように頭の片隅で考える。然し、何かが違うような気もした。そうだ、ドラマなどではそういった局面の場合、相手の男は妙に自信に満ち溢れているもので、女は大抵ころっと落ちていく。

 ――眼前の槐は目に涙を浮かべていて、実に自信のなさそうな表情をしていた。


「……泣きながら力説するなよ」

「泣いてないよ」

「いや、泣いてるって」


 包茎シメジよりも自分の方が良い男だと主張しておきながら、槐は自分に自信が無いのか。精一杯に気持ちを伝えようとして、泣きそうな表情をしている槐が滑稽で、にこはうっかり噴出してしまう。


「どうして笑うのかな?僕は真剣に――」

「馬鹿みたいだから。あんたも、私も」


 にこがどんなに槐の言葉を否定しても、彼は諦めずに事あるごとに気持ちを伝えてくる。さっさと見限ってしまえば良いというのに、彼は決してそれを選ばないで、同じことを繰り返す。回し車ハムスターホイールを回すハムスターを見ているような気分になって、苛立って、にこもにこで反抗してきたが――槐と再会して五ヶ月近くも経過すると、その様式を続けることにも飽きが生じてくる。


「私はあんたを異性として好きになる気が起きてこない。自分よりも綺麗な男とか、生まれながらの金持ちとか、私にない物ばかりを持ってるあんたを見てるとどうしても嫉妬するから。ただ……あんたが私を好きだっていう気持ちは、ほんの少しだけ認めることにするよ。反抗するのに飽きた」


 何様のつもりで、こうも上から物を言ってしまうのか。我ながら呆れてしまったにこは、流石の槐も愛想が尽きただろうと想像して、彼の様子を窺う。槐はにこの予想に反して――いや、心底では期待していたので予想通りとも言える――目を細めて、嬉しそうに微笑んでいた。彼の目に溜まっていた涙は、いつの間にやら蒸発して消えていた。


「有難う、にこさん」

「何で礼を言うんだよ。……本当に馬鹿だね、あんた」

「そうだよ、にこさんに対してだけ馬鹿なんだ、僕は」


 光り輝く笑みを持って断言されてしまうと、何となく悪態を吐く意思が殺がれ、にこは押し黙る。居心地が悪くなったにこは食卓の上に置いていたトレーを掴んで持ち上げ、そそくさと移動を始める。


「にこさん」


 ささっとキッチンに逃げ込もうとしていたにこは呼び止められてしまったので、足を止める。せめてもの抵抗として、振り向かずに「何だよ」と愛想の無い返事を寄越してやった。


「この部屋からはね、花火が見えるんだ。だから……今度の花火大会は、この部屋で一緒に花火を見ませんか?人混みの中に入っていかなくて良いから楽だよ。それに部屋の中だから、涼しいよ」


 先月に行ったケーキバイキングデートの次は、花火観賞らしい。槐に背を向けたままのにこは廊下を見つめながら、暫し考える。


「お酒とおつまみを用意してくれるなら付き合う」

「うん、承りました」


 振り向かずに答えると、背後から楽しげな声が飛んできた。


(……まずい、あいつのペースだ)


 得体の知れない危機感を覚えたにこはキッチンへと逃げ込むことに成功したが――その後は暫く、悶々と頭を悩ませることになった。

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