悪食王
蒼 隼大
第1話
雨はもう、五ヶ月も降り続いていた。
真っ暗な空から叩きつけるに落ちてくる大粒の雨は、この国の人間とその社会にさまざまな意味で大きな打撃を与えた。
日本各地で海面の上昇や河川の氾濫が発生し、水害が多くの街を水没させ、山沿いの土地で頻発した土砂崩れに多くの集落が飲み込まれた。
交通網はズタズタに寸断され、救助や流通の足もストップ。商品の奪い合いから発生した暴動が街を席巻し、多くの人々が傷つき、生命を落とした。しかしそんな暴力の嵐も奪い合うべき物資が店頭から全て消えると自然に収まり、今では人々は自宅で息を潜めながら、じっと雨が止むのを待ち続けている。
あらゆる気候現象を無視して日本上空に居座り続け、全てを洗い流そうとする雨雲の存在に従来の常識は当てはまらず、気候学者たちはあまりに無力な存在と成り果て、その存在価値を見失った。
東京。渋谷。
かつては華やかに賑わっていた若者の街は暴動によって破壊し尽くされ、今ではかつての賑やかさなど見る影もない、ゴーストタウンと化していた。
その中心部……濁流と化したセンター街をリンダ・マーカス軍曹は二人の仲間と共に走っていた。足首まで浸かるほどの水をブーツで蹴立てながらの移動は通常より著しく体力を消耗する。特に脇腹の負傷が酷いジョン・ライナー上等兵は辛そうだった。
先頭を走るコンラッド・ビーン少佐が二人の部下をチラリと振り返り、身振りだけで指示を出す。それに従い、彼らはシャッターの破壊された雑居ビルに駆け込んでいった。
「Shit!」
壁にもたれて座り込み、ようやく一息ついた途端、コンラッドは口汚く毒づいた。筋肉質の巨体がブルブルと震えているのは寒さのせいではなさそうだ。
「司令部のバカ野郎ども! 帰ったら締め殺してやる!」
コンラッドは怒鳴りながら、そこらのガレキをブーツの踵で蹴り飛ばした。短く刈り込んだ髪からポタポタと落ちる滴に濡れた顔は、怒りのために紅潮している。
「生き残ったのは私たちだけみたいね……」
リンダはジョンの軍服をめくり上げ、水に濡れた救急キットで止血を試みようとしていた。その表情に浮かぶ絶望を、苦痛に喘ぐジョン自身に見られまいと努力しながら。
「どうするの?」
「決まってる。帰投だ!」
コンラッドは吠えるが、この残された僅かな戦力で『敵地』から脱出することがどれだけ困難なことかはその場の誰もが理解している。
「敵の戦力も配置も分からないのに、どうやってこの街を脱出するの? 運良くここまでは来れたけれど、今度見つかれば終わりだわ」
「そんなことは分かってる。だからって潔くここで野垂れ死のうってか?」
効果があるかどうかもわからないジョンの止血を終えて立ち上がったリンダは豊かなブロンドの髪を束ねていたゴムを外した。濡れた髪から大量の水が落ちて、ほんの僅かに軽くなった気がした。
「これ以上出血が酷くなればジョンの命が危ないわ。まさか、置いていくなんて言わないでしょうね?」
コンラッドは口をへの字に結んで黙り込んだ。任務のためなら仕方がない……とまでは言えなかった。いくらなんでもこんなふざけた任務のために命を投げ出すなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
……こんな、化物退治のために。
「せめてジョンの回復を待つべきよ」
「食料もないのにか? 時間が経てば消耗が激しくなるだけだ。ここは一か八か……」
「リンダ!」
口論に割って入ったのはジョンの叫び声だった。反射的に振り返ったリンダは闇から襲いくる異形の影が『敵』であることを一瞬で把握したが、不覚にもその手には銃がなかった。慌ててM4に伸ばしたコンラッドの手も間に合わない。
唯一間に合ったのはジョンのタックルだった。間一髪リンダを押し倒したジョンだったが、怪物の爪がその背中を容赦なく襲った。戦闘服が裂け、鮮血が迸る。
「ジョン!」
リンダが叫ぶ。コンラッドはM4を構えて銃口を向けるが、リンダを守ろうとするコンラッドが怪物と揉み合っているために撃つことができなかった。
「どけ! ジョン!」
怒鳴るコンラッドだったが、怪物の鋭い牙で肩口に食いつかれたジョンにはどうしようもなかった。彼にできることはただ、苦痛の叫びを廃墟に轟かせることだけだ。
「いま助けるわ!」
勇敢にもリンダはナイフ片手に怪物へと飛びかかっていったが、異様に長い、筋肉質の腕に弾き返されてしまった。ナイフが床を滑り、その後をリンダが転がっていく。
「くっ!」
リンダが立ち上がろうとしたその時、もう一つの影が闇の中から飛び出してきた。
(人間……?)
と、リンダが認識した時にはもう、鮮血が迸っていた。怪物の首筋に深々と食い込んだ大振りの鉈のせいだ。
「なに……?」
驚愕するリンダとコンラッドの眼前で、惨劇が始まった。闇から飛び出してきた男は怪物の首から引き抜いた鉈を、今度は頭部に振り下ろす……何度も、何度も。冷たい鮮血と脳漿が飛び散り、男の纏ったボロ布のような服を蒼黒く染めていく。やがて、倒れ伏した怪物はそのままピクリとも動かなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます