不死身の鬼


次の瞬間、小柄な子供の体が大きな大人の身体にズズゥンとのめり込んだ。

たとえ子供の体重とは言え石の鎧で被甲され時速30キロ近い速度で衝突されれば大抵の大人は吹き飛ばされ悶絶するだろう。


だが男は数歩よろめいただけで倒れなかった。玄狼のほうもぶつかった際の感触が普通の人間の肉体とは異質であることを感じ取っていた。

それはまるで水を含んだ真綿にぶつかったような感触だった。そして何より異様だったのは男の身体には体温らしきものが無かった事であった。


生きた哺乳類であれば程度の差こそあれ必ず温かみを持っている筈だ。それがこの青い服の男には感じられなかったのである。



「クロ君!」



玄狼の姿を認めた佳純が泣き声交じりの声を上げて背中にしがみついて来た。彼は少女を背中にかばいながら青い服の男を睨むように見た。


次の瞬間、彼は目の前の男がこの世の者ではないことを理解した。生きた人間がこのような状態で動けるわけがなかった。

そして青い背広を着た背の高い男、母の話の中にあった近づいてはならない存在が今まさに目の前にいた。


祓い師である母が警戒する相手とは恐らく現世うつしよの者ならぬ幽世かくりよの者である筈だ。


玄狼がこの世の者ならぬ存在を眼にするのは何もこれが初めてではない。

幼い頃より優れた念視能を持っていた彼は無害なものから悪霊と呼ばれるものまで数多くの霊を見て来た。

だが実体化して受肉した霊を見るのはこれが初めてだった。


肉体を持った相手とまともに組み合えばひ弱な子供でしかない彼は圧倒的に不利だ。

たとえ念能でその身を如何に硬化させたところでずっとその状態を維持できるわけではない。せいぜい持って数分程度である。


電撃、発熱による攻撃は念能器具無しの生身で行う場合、自分の身体も感電、熱傷を負う事になる。

荒魂あらみたまの気打ちは唯一有効かもしれない攻撃だが念体とも生体ともわからぬ得体の知れないこの男に何処まで通用するかは未知数だ。


よって今、選ぶべき最善の方法とは逃げることであった。ただ佳純を連れては荒脛巾アラハバキの術は使えない。普通に走って母のいる所まで果たして逃げ切れるだろうか?

見たところ異形の男の動きが遅いことが唯一の希望だった。



「佳純ちゃん、走るんや!」



玄狼は振り返りざま左手で佳純の右手を掴むと夜道を元来た道の方へと駆けだした。

佳純は恐怖で足がもつれそうになりながらも彼の手から流れ込んでくる温みに勇気づけられて必死に走った。


だが三十メートル程、走ったところでそれは待っていた。青い背広を着た歪に捻じくれた姿が闇の中にぼうっと立っていた。



「キャアッ」



佳純が悲鳴を上げて後ずさった。つられて玄狼の身体も後ずさる。

それに合わせたように青い背広の男は例のギクシャクした気味の悪い動きで前に出てきた。そして外れて変形した顎をガクガクと動かせて喋った。



「おれは・・ぢぃえに・・あう・んだ。ぢえに・・ぢぃえにぃ・・あわせろ~~~」



それは地の底から聞こえてくるような錆びつき軋んだ声だった。まるで地底のミイラが喋ったような声だと玄狼は思った。


” ぢえ ” というのが誰の事なのか分からないが生前のこの男にとっては死後、この世に彷徨い出るほどに未練を持った相手であったのだろう。

妻か、恋人か、それとも娘か・・・どちらにしても既に八割方、荒魂化しかかったこの霊を成仏させることは至難の業だと思えた。


ならば残された方法は消滅させるしかない。

自分の生体念能は人よりかなり強力であるらしい。

己の持てるその全てを荒魂の気と化して打ち込めばそれも可能かもしれない。

一か八かやってみようと玄狼は決意した。


事実、彼の念能量は小学生ながら常人とは比較にならないほど膨大であった。念能量だけで言えば巫無神流神道の歴史において稀代の天才と謳われた母の理子を凌ぐほどだった。

ただ精神的、技術的にあまりにも未熟であるためその殆どを有効に使いこなせていなかった。尤も玄狼本人はその事を知らない。


彼は巫無神流神道の呼吸法で素早く気を練ると全身にそれを張り巡らした。そしてそれを粗い波動に変えて右手の先に集中させた。全身の部位から集まったそれは右手の先で激しく共鳴を繰り返し強大な負の波動エネルギーとなって赤黒い燐光を帯びる程に高まった。


それは今日の昼間、郷子さとこがコンマイさんで赤髪の幼女に対して使おうとした荒魂の気打ちと全く同じ技法であった。

ただ郷子の荒魂の気は超精霊合金鋼スーパースプルテンの指輪によって増大ブーストされたものであったが玄狼のそれは自身の生体念能のみによるものだ。

にも拘わらず玄狼の荒魂の気は質、量ともに郷子のそれを遥かに凌駕していた。


異形の男は直ぐ眼の前まで迫っていた。佳純が喉の奥でヒィッとくぐもった悲鳴を上げた。玄狼は身を屈めて男の懐に潜り込むと同時に右掌底でその水月をドンッと突き上げた。

右手に凝縮された濃密な荒魂の気が赤黒い火の粉のような光粒を空に撒き散らしながら男の胸元へと吸い込まれていく。


男はその途端、動きを止めた。やがて全身をおこりにかかったかのように震わせ始めた。眼、鼻、耳、口といった体中の穴から水蒸気らしき白い煙を噴き上げながら身を激しく捩じらせている。


玄狼の放った荒魂の気が男の全身の細胞を破壊しながら駆け巡っているのに間違いなかった。


『・・・勝った。』


と彼は思った。途端に重い疲労感がのしかかってきて彼はペタンとコンクリートの地面に座り込んだ。先程の一撃は玄狼の全身全霊を込めたものであった。それは少年の身体から精神力と体力の両方を根こそぎ奪い去っていた。


でもこれで佳純ちゃんと二人で無事に皆の下に帰れる・・・玄狼はぐったりとした体を硬い路面に横たえながらそう考えた。

佳純が慌てて走り寄ると傍にしゃがみ込んで彼の身体を抱え上げた。そして自分の身体にそっともたれかけさせた。


だが次の瞬間、予想外の変化が異形の男の身体に起きた。男の身体が異様に膨らんだかのように見えるとバリィッ、バリィッという音と共に体全体がめきめきと大きくなったのだ。


歪に捻じれていた首や手足は真っ直ぐに伸びて皮の下に丸太を押し込まれたかのような太くごついものに変わっていた。


圧倒的な肉量の増加で青いスーツは千切れ飛び半裸となった小山の如き身体は所々が

渦巻いた赤茶色の剛毛に覆われている。


半面が醜く潰れていた顔も炯炯けいけいと光る真紅の両眼と上下に巨大な牙が突き出た肉厚の唇、そして逞しくせり出た岩のような顎を備えた獰猛かつ魁夷なものに変貌していた。

そしてぐっしょりと濡れ乱れた黒い髪の中からはゴツゴツとした太く捻じれた角が左右に生えていた。


その姿はまるで昔話に出て来る鬼そのものであった。

鬼とは人の妄執が行き着いた果ての姿であるのかもしれなかった。


くろうは知らなかった。

青い背広の男の肉体とは高濃度の液状精霊鉱リキッドスプルトニウムを含んだ海水を媒体として男の執着ねんが実体化した物であったことを。


そして自分の注ぎ込んだ厖大な ”荒魂の気” は全てその海水の触媒作用によって男の肉体の再構築の為に消化され吸収されてしまったことを。



「やべぇ・・余計におとろしげ(恐ろしそう)になってしもたが・・・

式神を召喚した方が良かったんかいの?」



玄狼はそう呟いた。

これなら最初から鬼の同類である前鬼・後鬼を呼び出せば良かったのかもしれない。

彼等ならこの異形の鬼なぞよりも遥かに大きく強大だ。


しかし今となってはそれも後の祭りであった。彼には二匹の鬼神を呼び出すだけの通力ねんのうが最早残ってなかった。

残された唯一の希望は母の理子だが暗い夜道の向こうには人の気配など微塵も感じられない。


異形の鬼が肉食獣の如き牙の生えた口を大きく開き天を仰いで 轟っ! と吠えた。

そして玄狼達の方へ向かって二メートルを超える巨体を揺らしながらズシン、ズシンと歩き始めた。



「ぢえを・・ぢえをかえせ・・・がえせーーーーー!」



獰猛な大型獣の唸り声を思わせる低く重い声を呪詛のように吐き散らしながらさっきまで青い背広の男であった筈のものは二人に迫りつつあった。

玄狼は切羽詰まって大声で叫んだ。



「佳純ちゃん! 一人で逃げろ!」


「えっ クロ君は?」


「心配すな。俺にええ考えがあるけん・・俺がこいつを引き付けとくきんその間に佳純ちゃんは逃げるんじゃ。」


「ほんでも・・・」


「グズグズすな! 早よ行け! 早よ逃げて母さんを連れてきてくれ!」



玄狼に怒鳴られた佳純はビクッと身を震わせた後、パッと身を翻して駆けだした。

意を決した少女の足は速かった。白い太ももの奥が覗くほどにスカートの裾を跳ね上げながらグングンと速度を上げて離れて行く。


それを見定めながら少年は異形の鬼へと振り返った。



「さあ、ほんだらタイマン張っちゃろか!」



玄狼は喧嘩相手を威嚇するヤンキー少年のような科白を鬼に投げつけた。そうしないと恐怖で体が竦みそうだった。

彼の”ええ考えがある”という言葉は佳純を逃がすための苦肉の方便に過ぎなかった。

彼に出来るのはなけなしの気力を振り絞って逃げまわる事だけだった。


もし捕まったら・・・古来より鬼は人を捕まえて貪り喰らう妖怪だ。その先の事は考えたくもなかった。


ところが・・・異形の鬼は何故かそこに立ち止まったまま動かずにいた。燃えるような赤い眼で佳純が消えていった夜道の奥を見詰めている。


『・・・エッ?』


玄狼は思わず胸の中で叫んだ。

小山のような巨体がガスバーナーの火を浴びた飴細工のようにドロリと溶けると粗打ちされたコンクリートの路面に黒い液体となってわだかまった。


その黒い水は忽ち棒のように長く伸びると一匹の巨大な朽縄くちなわと化した。それは矢の如く恐ろしい速さで地を這いながら少女の後を追い始めた。




― ― ― ― ― ― ― ― ―




肌に絡みつくような潮気を含んだ夜気を切り裂きながら再び佳純は走っていた。おのれが地を蹴るダッ、ダッ、ダッという靴音さえ得体の知れない何かが後ろから迫って来る物音のように聞こえて恐怖に泣き声を上げそうになる。


と同時に少年を助けなければと言う熱い思いが燃えるように少女の胸を焦がしていた。その必死の思いだけが頽れそうになる彼女を支えて前へと走らせていた。


その時だった。夜道を疾風のように駆け抜ける少女の前方に突如、小山のような黒い影が立ち塞がった。後ろ足で立ち上がった羆を思わせるその巨大な影は唸るような声を上げた。



「れいご・・ぢえを何処にやっだぁ・・・ぢえをがえせ、れいごぉーーーー!」



あの異形の男が変化へんげした鬼が再び少女の前に立ちはだかっていた。彼女を ” れいこ ” と呼び ” ちえ ” を返せと喚きながら・・・


佳純は絶望で眼の前が真っ暗になった。クロ君は・・玄狼はもう既に喰われてしまったのだろうか? そして今度は自分の番なのか?

今から自分はこの鬼に体を引き裂かれ肉を骨ごと貪り喰われるのだ、と思った。その身の毛もよだつ様な恐怖にフラッと意識が飛びかけた時、何かが自分の横をすり抜けていったような気がした。


異形の鬼が動きを止めていた。鬼と自分の間に小さな何かが立っていた。

それはくすんだ丹色にいろの着物を着た赤髪の幼女であった。

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