結界と惨状

鉄骨とコンクリートで仕切られた吹き抜け状の部屋の中に凄まじい衝撃が走り抜けた。同時に鉄の焼けたようなきな臭い匂いとコンクリートの粉塵が辺りに広がった。


まるで耳のすぐそばで巨大な銅鑼どらを打ち鳴らされたような轟音にヤスオは反射的に身を屈めて目を瞑った。

再び眼を開けた時、彼は奇妙なことに気付いた。

部屋の中ほどに立っていた筈の乾司の姿が消えていた。代わりにそこには歪んで曲がったマンドアが転がっていた。



「オゴォッ・・ウベェェッ」



胸が悪くなるようなくぐもった呻き声につられて壁際に眼を向けた彼は思わず息をのんだ。壁に寄りかかる様にして顔から肩にかけて血まみれになった小山乾司が蹲っていた。その右頬から顎にかけての部分が大型ハンマーで殴られたようにひしゃげて潰れている。


マンドアの尖った角にその頬肉をごっそりとそぎ取られたのだろう。耳下から口までがザックリと裂けて繋がってしまっていた。

右頬筋を失って支えるものの無くなった下顎がだらりと斜めに垂れ下がってピンク色の歯肉と舌が見えていた。


床に転がったマンドアの角にはそれと思しき肉片が絡まっている。それを見たヤスオは吐き気を覚えた。



「ガボォッ、ゲボォッ・・・ベッ」



粘液が泡立つような音を立てて乾司が半分千切れかかった口の中から何かを吐き出した。血反吐と共に床の上に転がったのは折れ砕けた数本の歯だった。四肢をビクビクと痙攣させながら彼は呻き声をあげて見悶えていた。


死にはしないだろうが見るに堪えない酷い損傷だった。優れた形成外科医をもってしても顔を元通りに修復するのは難しいだろう。


一体、ドアの向こうで何が起きたのか?

どのような方法でドアを吹き飛ばしたのか? 


たとえ屈強な男が数人がかりで体当たりをしてもあのようなことが出来るとは思えなかった。安普請の町工場の扉とは言えフルスロットルの乗用車を突っ込ませでもしない限り無理な仕業だ。


そう思ったヤスオは扉のあった場所を見た。扉のあったその場所は今は四角い穴と化してポッカリと暗い闇を覗かせていた。

何故かその闇の中から巨大な怪物の剛腕がヌッと現れるような気がして彼はゾッとした。


しかしその闇の中から姿を現したのは女の子と見紛うような綺麗な顔立ちをした色白の華奢な少年であった。

その少年は部屋の中をゆっくりと見回すと後ろ手に縛られて床に転がされた少年二人を見つけた。



「賢太、団児、大丈夫か? 志津果と亜香梨は?」



大きい方の少年が顎で部屋の片隅を指し示した。そこには両腕を上に挙げて吊り下げられた状態の少女達の姿があった。



「亜香梨・・・・志津・・果?」



赤く顔を腫らし衣服をはだけられて下着が露わになった少女を見て彼は一瞬、声を詰まらせた。



「くろ・・う? く、玄狼・・・玄狼!」



少年の姿を認めた志津果の眼が驚いたように見開かれるとその顔がくしゃくしゃに歪んだ。両の眼から涙がポロポロとあふれ出る。彼女は晒け出された肌身を隠そうとするかのように身を捩った。


不良少年達は状況に理解が追い付かず戸惑っていた。ドアが吹っ飛んだという事はそれをやってのけた強大な何者かが外にいるという事だ。なのに入って来たのはほっそりとした小柄な少年一人。



「ヤスオ、外がどよんなっとんか見てこい。」



ヤスオはおっかなびっくりで外の様子を確かめるためにドアがあったところの四角い穴を通ろうとした。だがそこで奇妙なことが起こった。

確かに前へ進んでいるはずなのに一向に部屋の外に出れないのだ。まるで自分の前進に合わせて穴が後退しているかのようであった。


慌てて後ろを振り返ってみるが自分が元いた位置から数メートルしか変わっていない。部屋の中を少し進んだだけの状態だった。

彼の感覚が間違っていなければトシキ達から十メートル以上は離れたはずだ。



「どしたんや、ヤスオ? なんで外に出えへんのじゃ。なんぞあったんか?」



その様子を見たカズマサが怪訝そうに訊いた。。



「な、なんかおかしいっすよ? まるで部屋の床が伸びているような感じっす。なんぼ歩いてもここを潜れんのっすよ!」


「はぁ? アホと違うんか? そなんことがあるわけ無いやろが・・・」


「イ、イヤ、ホンマなんすよ。兄ぃ達で一回やってみてください。」



そう言われてトシキとカズマサもやってみたが結果は同じであった。体は前に進んでいるはずなのに目と鼻の先の真っ暗な空間へ入ることがどうしても出来ない。

全力疾走で突進しても駄目だった。 



「どしたんや、これ? どよんなっとるんど!」


「なんで向こうに行けんのじゃ? おかしいが!」



薄気味悪い思いが恐怖への種火と姿を変えて彼らの背骨をチロチロと炙り始めた時だった。黙っていた少年がぼそりと呟いた。



「この部屋から外には出れないよ。ついさっき、空間ごと現世うつしよから切り離したから。」



その言葉を聞いたヤンキー少年達の顔色が変わった。子供の戯言だと無視できなかった。如何に強がってはいても彼ら自身もまた子供であったからだ。

背筋を這い上る青く冷たい恐怖の炎が少年たちの心中なかに凶暴な攻撃性を炙り出した。



「なんじゃと? おどれがこなん手品みたいなマネしくさったんか!?」


「コラァ、くそガキ! おどれ、何をしてくれとんじゃ! わしらがビビッて逃げ出すとでも思うたんか? 


わしらはな、怖いもんなしの蛇悪暴威主ダークボーイズじゃ!

恐怖を母親おかはんはらの中に忘れてきた奴らの集まりじゃ!


ホンマにおどれがやったんやったら早よ、元に戻せや! 早よせなんだらぶち殺っそ、コラァ!」



二人のヤンキー達は激昂して少年に歩み寄った。見るからに狂暴そうな容姿の彼らに凄まれれば小学生でなくとも縮み上がるのが普通であろう。


しかしその少年はまるで動じた様子がなかった。街中で道を訊かれた時のような涼しげな声でサラリと答える。



「恐怖を忘れて来た? でも怒りっていうのは恐怖から生まれる感情だって母さんが言ってた。怒りは恐怖を生まないけど恐怖の裏返しは怒りになるんだって。


さっきから随分、怒っているけどそれって本当は怖いからじゃないの?

ああ、それから結界を張ったのはあんた達が逃げると思ったからじゃないんだ。」


「何じゃとぉ! ほしたら何で外へ出れんようになっとんや! エエッ、こら!」



それを聞いた少年はニヤッと笑って答えた。



「そりゃ、勿論・・外からあんた達を助けにこれないようにするためさ・・・」



背筋が寒くなるような声と微笑みだった。




― ― ― ― ― ― ― ― ―




キョーコは呆然として吹き飛んだドアの向こうを見ていた。ドアの向こうは真っ暗な闇だった。先程その闇の中を少年だけが入っていった。スゥッと消えていくような入り方だった。それはまるで違う世界の中へ消え入ったかのように見えた。


彼女も後を追って入ろうとしたのだが入れなかった。

何かにぶつかったわけではない。前に進めないわけでもない。ただ何処まで進んでも眼の前は暗い闇のままだった。


怖くなって後ろを振りむくとそこは今まで通りの廃工場のなかだった。さっきまで自分が腰を下ろして煙草を吸っていた椅子の位置もそのままだ。

薄闇の続く遠い先に壊れて捲れ上がったシャッターが見えた。白い昼の陽光がぼんやりと差し込んでいる。


その明かりに向かって彼女は歩き出した。今までにない異常事態であった。

征道の父親が組長を務める組の事務所はここからそれほど離れた場所ではない。組事務所に行けば留守を預かる若中が何人かはいる筈だ。

一刻も早く彼らに応援を頼んだ方がいいと心の中で警報が鳴り響いていた。


暫く歩いてキョーコは奇妙な違和感を感じた。どこまで進んでも一向にシャッターが近づいてこない。薄気味悪くなって後ろを振り返るとそこは歩き出す前の場所そのままであった。


恐ろしくなった彼女はシャッター目掛けて駆けだした。足元の暗さも床のあちこちに転がる空き瓶や工具も関係なかった。ただひたすらにこの得体のしれぬ状況から抜け出したかった。


だが結果は同じだった。息が切れるほど走った後で彼女が目にしたのは依然として遠い先にぼんやり佇む壊れたシャッターであった。



「いくら走ってもダメよ、お姉さん。この場所とあのシャッターのある場所は三次元における空間座標は同じだけど高次元から見た時間座標がずれているから・・・


この建物の中に時空の断裂が生じているの。

今見えているあの光景は三日前のものかもしれないし一週間後のものかもしれない。

ひょっとすると何年もずれた時間座標に位置する空間の可能性もあるし。


だからどうやったって辿り着けないわ。」



突然、横からかかったメゾソプラノの落ち着いた声にキョーコはヒィッと声にならない悲鳴を上げて飛び退った。


そこには背の高い美しい少女が立っていた。少年と一緒に現れた少女だった。冷たく暗い廃工場の中から出られないというこの異常な状況の中でその美しさは非現実的でさえあった。


そうだ、この少女は確かに居た、居たはずだ。だが何処に?

あの少年が闇の中に消えてから後、この娘は一体何処に居たというのだ?

自分が動揺していたとはいえ周りを囲む薄闇以外に何も見た覚えがない・・・



「お姉さん、しばらくここにじっとしていてね。さっきの男の子が皆を連れて戻って来るまで。

多分そんなに時間はかからないと思うけど中の状況次第では結構長引くかもしれないわ・・・でも男の帰りを待つのは女の役目だもんね。」



ませた口を利きながら冴え冴えとした冷たく黒い大きな眼で自分を見つめる少女にキョーコは黙って立ち尽くしたままだった。




― ― ― ― ― ― ― ― ―




トシキは少年の言った言葉と冷たい笑顔を見た時、胸の中に冷たい霜が舞い降りたような気がした。


『こいつは・・普通のガキと違う。』


その思いはチリチリと胸を刺す恐怖を生み、それはたちまちピリピリとした怒りに変わった。まさしく少年の言葉通りだった。


カズマサもそれは同じだったらしい。剃り上げた金色の細い眉を激しく逆立てて少年に迫った。



「なんじゃと、コラァ! クソガキがなめた口を利っきゃがってぇ!」



カズマサは節くれだったごつい指で少年の胸元を掴むとその体を自身の胸元へ引き摺り上げようとした。

ところが少年の体は毫も動かず彼は奇妙な表情を浮かべて少年を見た。


少年は普通にそこに立っているだけだった。自然体と言っていい姿勢で穏やかな表情のまま立っていた。だがカズマサが押そうが引こうが少年の体は小揺るぎもしない。


それは踏ん張っているとか粘って耐えているとかのレベルではなかった。

まるで等身大の岩の塊を相手にしているような重量感であった。

カッとなった彼は少年の頭を抱え込むとその腹に容赦のない膝蹴りをぶち込んだ。


次の瞬間、ゴッという衝撃音にメギッという小さな破砕音が重なって聞こえた。それは人体同士がぶつかり合う鈍いくぐもった音とはまるで違う音だった。


カズマサの丸い体が頽れると床にゴロリと転がった。そのまま右膝を抱えると凄まじい苦痛の咆哮を放った。



「 ゴ、ゴッ、ヴゴォッーーー! ギッ・・ヒギィィィィィィ―ーーーーー!」



膝蓋骨が粉々に砕け大腿骨顆上部にまで亀裂が入ったその耐えがたい痛みに彼は絞め殺される豚のような悲鳴を上げ続けた。


カズマサの惨状を見たトシキは直感した。このガキは服の下に何か硬い鉄板のようなものを隠し入れていやがったに違いない。

女のようなやさ顔をしてはいるがコイツはとんでもなく腹の黒いガキだ。


他にも服の下に何を呑んでいやがるか・・・そうだ、その顔だ! 

顔なら素のままだ。そのなまっちろい女顔を思いっ切りぶん殴ってやらぁ!



「オラァ! このクソガキがぁーーーー。」



トシキは少年に駆け寄った。少年は青銅の彫像のように動かなかった。

彼は骨ばった指を固めた拳で少年の顔を思い切り殴りつけた。その寸前、少年の顔の周りの空間が一瞬、陽炎の如くユラユラと揺らめいた。


グチュッ! という湿った音がした。熟れたトマトを尖った岩肌にぶつけたような音だった。トシキが恐ろしい苦悶の声を上げた。


右手首を左手で掴んで床に膝をつくと天を仰いで絶叫する。今までに、そしてこれからも経験することがないであろう程の激痛が彼の脳を焼いていた。


玄狼の鼻頭を打ち付けたトシキの拳がぐちゃぐちゃに潰れていた。あらぬ方向へと折れ曲がった五指と爆ぜた血肉がまさしく叩きつけられたトマトを思わせた。


玄狼は全身を念で覆ってその念を金属として実体化させた。半物質化させたその念を同一空間に同時存在させることで彼の肉体は鋼鉄と同等の硬度と質量を兼ね備えたものとなった。


つまりトシキが玄狼に対して仕掛けた行為は尖った鉄床かなとこを渾身の力で殴りつけるものに等しかったと言える。


三つの呻き声が交錯する部屋の中を玄狼はゆっくりと振り返った。そこには二人の人間が立っていた。

志津果達を騙してここへ連れ込んだヤスオと彼ら不良少年達を束ねるボスである印藤 征道いんどう まさみちだった。





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