前鬼と後鬼

※ 少し短めです。



「明夫さん、 佳純ちゃんを泣かせた罰は受けて貰うよ。」


玄狼が底冷えのするような冷たい声でそう言った。


明夫の感じていた違和感は今、はっきりとした恐怖に変わった。それは明夫の背骨をゴリゴリと音を立てて擦りながら這い登って来る恐ろしい情動だった。


身を食むような恐怖に駆られた明夫の視界の片隅に人の手首ほどの太さの何か棒のようなものが眼に入った。地面に無造作に投げ捨てられたそれは径二インチほどの鉄パイプだった。


この島の住民の半数以上は漁師である。恐らくは漁船の何処かに使われていた配管の一部であった物を誰かがそこに捨てたのだろう。


彼はその鉄パイプを引っ掴むと玄狼目掛けて殴り掛かった。

それは、通常の感覚ではあり得ない行為だ。小学生の子供どころか大人にとってすら充分致命傷になり得る暴力だった。


中学二年生という精神と肉体の成長がアンバランスになりやすい時期であったことがその暴力的衝動に結び付いたのかどうかは分からない。

分かるのは明夫の精神がそこまで追い込まれていたと言う事実だけだ。



「ぉどらぁー! ぶっ殺しちゃらぁーーー!」



ブゥンと唸り声を上げて鉄パイプが玄狼目掛けて袈裟懸けに振り下ろされた。まともに喰らえば怪我どころで済む話ではない。

何処に当たろうと肉が裂け骨が砕ける事は間違いないだろう。


玄狼はその残忍な鉄パイプの殴打を無造作に左手だけで受けた。当たる寸前に彼の左半身を取り巻く空間に陽炎かげろうの如き透明な波紋がギューンと広がって消えた。

次の瞬間、三つの連続音が響いた。


硬いもの同士がぶつかり合うゴォンッという重く鈍い音と撥ね飛んだ鉄パイプが地面をガランゴロンと転がる甲高い音、そして耳を塞ぎたくなるような恐ろしい苦痛の悲鳴。

悲鳴を上げたのは明夫だった。



「アゴォッ! ギィッ、アギィィィィィーーーーッ」



絶叫を上げながら左手と右手首を身体全体で抱え込むようにして地面を転がりまわる。やがて明夫は地面に尻もちをついた姿勢のまま動かなくなった。


顔面蒼白で息が荒い。涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになった鼻と口からヒィッ、ヒィッという呻き声のような呼吸音が洩れ続けている。耐え難い激痛によるパニックで過呼吸を起こしかけているらしかった。


よく見ればブルブルと震える右手の手首と何本かの指が在り得ない方向へと曲がっていた。脱臼骨折しているのはほぼ間違いなかった。


玄狼は鉄パイプが当たる寸前に物質化した念を自分の左半身に張り巡らした。鉛よりも重く鉄よりも固い物質をイメージして実体化させたのである。


実際に触れて念を通した物質であればより実体化しやすくなる。彼が素にしたのは以前、母に連れられて行った鉱物展でタングステンに触れた時の念の記憶だった。


鉄の約1.5倍の硬度と鉛の約1.7倍の比重を持った巨大な重金属の塊に鉄パイプを叩きつければどうなるか?

その衝撃は一切吸収されることなく全て反作用となって明夫の腕先へと撥ね返ったのだ。


間断なく手首に喰いこむ猛烈な痛みに朦朧としかけた明夫の意識が恐怖によって引き戻された。玄狼がゆっくりと彼に向かって歩き始めたからだ。


あきおの脳裏にはズウゥゥン、ズウゥゥンとすり鉢状の馬鹿でかい足跡を大地に刻みながら迫って来る玄狼の姿が現実の出来事のように映し出されていた。


ところがくろうはいたって普通の歩き方でトコトコと近づくと伸ばした人差し指を明夫の額に押し当てた。



「少しの間だけあんたの第三眼を開かせてあげるよ。僕の周りに存在するものの正体をよく見ると良い。」



玄狼がそう囁いた途端、何か熱い波の様な物が明夫の額から頭の中へと流れ込んで来た。それは彼の眼の奥にバチバチと火花を散らす無数の紫電をもたらした後、再び額より外へと抜け出た。


額から抜け出たそれは昼間の景色の中を夜の闇を切り裂くサーチライトのように真直ぐ突き進んだ。そして明夫の視覚に現世うつしよの裏に隠された幽世かくりよの如きもう一つの世界をまざまざと映し出した。


明夫は一瞬手の痛みも忘れるほどに仰天した。小柄な少年の後ろに巨大な生き物が二体立っていた。


一体は紅い皮膚の色で分厚い筋肉を捩じり合わせたような猛々しい体つきをしている。もう一体はややほっそりとした体つきで蒼い皮膚の色をしていた。

二体とも腰と胸周りに簡素な布を巻きつけただけのような衣服を纏っている。


身の丈三メートルを超えるいわおの如き巨体、全身の所々を覆う曲がりくねった金色の剛毛、上下の唇から突き出た太い牙、そしておどろおどろしく振り乱した金髪の生え際から覗く湾曲した二本の角・・・・それらは正しく鬼であった。


二体の鬼はその燃えるような金色の眼で明夫を見ると憤怒の形相で彼を睨んだ。耳まで裂けた真っ赤な口を大きく開き太く長大な牙をガチガチと激しく打ち鳴らす。



「グオォォォォーン!」

「ゴガァァァァーー!」


凄まじい牙鳴りと威嚇の雄叫びが明夫の心をペシャンコに押しつぶした。



「ひっ、ひいぃぃぃ!」



声にならない悲鳴を喉奥に吐き出しながら彼は尻を地面に付けたままいざって逃げようとした。

玄狼の言った ”罰を受けて貰う” という台詞が明夫の頭の中に谺のように響いていた。


罪を犯した者は死後、罰として地獄に堕ちて鬼に責めさいなまれるという。

その台詞が彼に幼い頃に植え付けられた鬼に対する色濃い恐怖を呼び覚ました。


更に追い打ちをかけるように玄狼が低く冷たい声で囁く。



「この二匹の鬼が見えるかい? 

彼らは僕の式神さ。善童鬼・妙童鬼という夫婦の鬼なんだよ。でも前鬼・後鬼って呼ぶ方が有名らしいけど。


母さんが昔、奈良の山中で修行していた時に見つけて調伏した野良の式神なんだけど何年か前に僕が受け継いだんだ。どう? 二匹とも凄いだろ!


あんたがこれ以上、佳純ちゃんに近づかないって約束するならこいつらは何もしない。でも今後、もし約束を破って彼女に近づいたりしたら・・・そんな程度の怪我や痛みじゃ済まなくなる。


残りの手足を引き千切られて舌を引き抜かれ目玉を抉り出されて貪り食われるのは比べ物にならない痛さだろうと思うよ。


こいつらは何時でも佳純ちゃんの近くにいて見張っていると覚えておく事だね。」



明夫は黙って首をガクガクと縦に振った。心底、打ちひしがれた様子だった。


それを見届けた後で玄狼はクルリと踵を反すと佳純の下へと歩いて戻って行った。

彼女は未だ青い顔をしてしゃくり上げていたが玄狼が戻って来ると涙の痕が張り付いた頬を弛めて笑みを見せた。


その時、一台の軽トラックが道を通りかかった。荷台に網や魚籠びくなどの漁具を積んでいるところからこの辺りに住む漁師であろうと思われた。

軽トラックはそのまま通り過ぎようとしたが道端に突っ伏したように座り込む明夫を見てブレーキを踏んだ。

停車した車から降りて来たのは浅黒く日に焼けた五十年配の男性だった。



「誰かぁおもたら倉本んところの坊主やないか? 

こなん所に座り込んで何しょんど?(何をしているんだ?)


おい! どしたんや、その手!? ひん曲がっとるやないか? 

大丈夫なんか? 一体、何があったんぞ?」



応える気力も無さげな様子の明夫に代わって佳純が声を上げた。



「あ、真鍋のおっちゃん!」


「おう、佳純ちゃんやないか。 どしたんや、これ?

何ぞ事故でもあったんか?」


「ううん、明夫兄ちゃんがそこら辺に落ちとった鉄パイプひろて一人で振り回しよったらその先っぽが地面に当たって・・・ほんでしたら(そうしたら)鉄パイプが跳ねて兄ちゃんの手からすっぽ抜けて飛んでいってしもたん。


ほんでその後、明夫兄ちゃんが急に手を押さえてしゃがみ込んでヒィヒィ泣き出したとこやったんよ。」


「あぁ、そやったんか・・・ こら、明夫、ちょっとぐらい背が伸びて力がつよなったきん言うて、さいあがりょったらいかんど!(ふざけ過ぎたらだめだ!)

ほんだきんそなん事なるんじゃが。(だからそんなことになるんだ。)


診療所に連れて行ってやるけん、早よ助手席に乗れ。 ほら、行くぞ!」



真鍋のおっちゃんと呼ばれた壮年の男性は佳純に向かって手招きすると運転席から声高に叫んだ。



「佳純ちゃん、こいつを診療所に連れて行くけん、倉本んとこにそう言うとってくれ! 下手したら救急艇で本土の病院に行かないかんかも知れんきんの!」


「うん、分かったよ、おっちゃん。倉本の伯父ちゃんか伯母ちゃんにそう伝えとくきんな。」



真鍋のおっちゃんはそれを聞いて軽く手を挙げると軽トラックを発車させた。助手席の明夫は苦痛に歪んだ顔を下に向けたままでこちらを見ようともしなかった。

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