腕力 対 念力

「おい、佳純。そのおなご染みた餓鬼はどこの誰や?」



倉本明夫は佳純にそう訊ねた。

一重瞼の切れ上がったようなまなじりが賢太や佳純と従兄であるという事を感じさせなくはない。


只、賢太達のスッキリした眼差しとは違って険のある尖った眼付きだった。

自分で剃っているのであろう鋭く跳ね上がったような眉尾がより一層それを強めている。



「この子は水上玄狼君やん。

小学校の時、二つ下でおったやろ? 明夫兄ちゃん覚えとらんの?」


「水上玄狼?・・・ああ、途中から転入してきよった奴か? そう言うたら賢太と同級やった様な気がするわ。

おなごどもが可愛いとか言うてキャアキャア騒いどったあの生白なまちっろい餓鬼か?


ほんで何でそいつがお前と一緒に帰っとんじゃ?」


「そんなん帰り道一緒やし二人で帰った方が楽しいからやん。」


「帰り道一緒て、すぐそこで別れるじゃろうが。そいつは東側の海岸通りへ行くんじゃなかったんか?」


「ううん、これからはクロ君が毎日、家まで送ってくれることになったん。ほんだきん一緒に帰っりょんよ。(帰っているのよ。)」



佳純の言葉を聞いて玄狼は面食らった。本当は今日送る事さえ聞き逃しかけていたのだ。毎日だなどと聞いた覚えが無かった。


実際そうなったら家に帰るのが三十分以上遅くなるのは間違いないだろう。場合によっては小一時間近く掛かるかも知れない。


いや、それは困る。第一、ゲームをする時間が無くなってしまうじゃないか!

そうでなくても母さんがうるさくて厳しく制限されているというのに・・・


ところが佳純の言葉に遺憾を感じたのは彼だけではなかったらしい。倉本明夫がズイッと玄狼に向かって一歩踏み出すと睨め付ける様に彼の顔を見て低い声で言った。



「お前はもうこっから(此処から)帰ったらええ。

佳純は儂が家まで送るけん。

これからもずっとそうするきんいらん心配すな。(いらない心配をするな。) 

分かったら早よね。」



すると佳純が明夫に向かって小さく叫んだ。



「何言よん、明夫兄ちゃん! うちはクロ君に送って欲しい言うて頼んだん。明夫兄ちゃんにや(明夫兄ちゃんなんかに)頼んどらへんやろ。」


「なんやと・・・こら、佳純、お前がおかし気な奴に変な事されたらいかんけん俺が出て来とんやろが。

おっちゃんやおばちゃんからも頼まれとんじゃ。ごちゃごちゃ言わんと早よ帰るぞ。」


「ほんだきんうちはクロ君と帰るて言いよるやん。明夫兄ちゃん、耳が悪いんな。帰るんやったら一人でさっさと帰ったらええやん。」



佳純がそのクールな眦をキッと向けて明夫に鋭く告げる。

白く涼し気な目元が朱く上気した顔は青々しい艶めかしさのような物を感じさせた。

それを聞いた明夫は眼を細くして佳純を見るとぼそりと湿った声で言った。



「お前ンとこのおっちゃんとおばちゃんにはうちの母ちゃんがもうだいぶ前に話をしとんじゃ。将来、うちの子の嫁にくれ言うてな。


ほしたらおっちゃんもおばちゃんもOKしてくれたんじゃと。男の少ないこの御時勢に有難いこっちゃ言うてな。つまりお前は家族公認の儂の許嫁いいなずけちゅうことやが。


自分の許嫁がそなな青っチョロい餓鬼と一緒に帰っとってみい。誰じゃって気に入らんじゃろが。

まあ、お前は未だ子供じゃけんその辺が分らんかもしれんけどの。その辺は帰り道にじっくり言うて聞かしちゃるけん。さ、そなな奴ほっといて早よ帰らんか。」



玄狼は明夫の話を聞いてああ、そういう事かと思った。


今の日本において男女の比率は1:2を少し割り込んで1:1.8ぐらいだと言われている。適齢期の男女に限って言えばもう少し差が縮まるかも知れないがそれでも2:3にはなるまい。


結婚しない男性も少なからず居るから結婚を希望する女性達にとってその競争率は二倍以上と言う狭き門となる。その上、日本では重婚は法律上認められていない。


その為、事実婚と言う形をとった多重婚が増えては来ているがまだ主流には程遠い状況だ。特に地方の田舎においては一対一の単婚を望む傾向が強い。


佳純の父母にしてみれば少々の事には目をつぶってでも娘のパートナーを確保しておきたい、とそう言ったところであろう。

いとこ同士という血縁の濃さも今の世間の感覚ではどうと言う事はない。欧米の中では兄妹同士という近親婚すら認められている国や州があるのだから。


だが佳純はその話に全く納得した様子が無かった。明夫に冷めた視線を向けると呆れた様な口調で言った。



「何な、それ? 何時の日本の話な? 明治や大正の話とちゃ―うんで。

今はもう平成も来年には終わって新しい年号になろか言よんで。

本人の意思がないのに何で許嫁が決まったりするんな。


ハッキリ言うとくけどな。うちは明夫兄ちゃんと一緒に帰る気は無いし増して結婚なんかせーへんよ。


一緒に帰るんはクロ君やし‥ソノ、ケ、ケッコン スルンモ・・・・ま、まあそれは明夫兄ちゃんとは関係ない話やし。

とにかく私達うちらが一緒に帰るん邪魔せんとって。早よどっかに行ってよ。」



一気に話し抜くと彼女はフゥーとため息をついた。そして玄狼の手を握ると



「待たして御免な、クロ君。ほんなら帰ろ。」



と言って彼の手を引いたまま歩き出した。と、明夫がその前を塞ぐように立ちはだかった。怒りで赤黒く染まった顔と吊り上った眼で玄狼の顔を睨むと彼の肩をドンと突き飛ばした。

体格も膂力も圧倒的に違う相手から容赦なく突き飛ばされて彼は地面を転がった。



「きゃっ、クロ君! 大丈夫!?」



佳純が声を上げて転んだ玄狼に駆け寄って来る。明夫に押される寸前に彼は彼女が握っていた自分の手を素早く振り払っていた。佳純が巻き添えになって転ぶのを防ぐためだった。 



「明夫兄ちゃん、何すんな!」


「やかましわ、佳純! こんなヒョロいんがどうやってお前を護ってくれるんじゃ。

見てみぃ、ちょっと押されたらこの様じゃが。

こんなんにまかしとってどうなるか分かっとんか、お前?


え、どこぞの|悪す共(悪い奴ら)が来て襲われたらどよんすんじゃ?

儂が居らんかったらどよんも出来んじゃろがぁ!


ちょっと待っとけや。今からこいつと話しつけるきんの。」



明夫は右手を伸ばして玄狼のシャツの襟首をその太いゴロンとした指で無造作に掴むと片手だけで彼の身体を引き上げて立たせた。

そしてぎらついた眼と脂ぎった顔を玄狼の顔にくっ付くほどに近づけると凄みを効かせた声で威嚇した。



「コラァ、玄狼! お前みたいなカッコばっかしの奴が佳純を護れるんか、え? 

儂が早よね言よんのに何でなへんのじゃ、えっ?


お前みたいな奴が儂は一番むかつくんじゃ。なんちゃようせんくせにおなごにばっかり付きまといくさって・・・らされとなかったらシャンシャン帰れや! 

グスグスしとったらそのおなごみたいな顔の形が変わる位しばっきゃげるどぉ!」



明夫は顔をぴくぴくと痙攣させるように歪めると華奢な少年の顔を覗き込んだ。

彼は怒りで興奮したように見せかけながらも実は心の中ではニヤリとほくそ笑んでいた。


中学の同級生でも彼が少し声を荒げて脅せば大抵の奴は引き下がる。本土の奴らはどいつも意気地なしばっかりだ。


彼は中学生にしては大きな身体と馬鹿力を認められて入った柔道部でも新人戦で地区の三位になった。

そのまま行けば三年が引退した後には主将になれるはずだったのだがつまらない事で暴力事件を起こして退部になってしまった。


同時に鷹松市の中に在る学校の寮からも出ていく羽目になった。だから今は家からフェリーで通っている。

時間を持て余してモヤモヤした日々を送っていた彼が久し振りに見かけたのが従妹いとこの門城佳純だった。


彼は小学校の頃からそのスラリとした体形と涼し気な目鼻立ちをした従妹の少女に淡い恋心のような物を抱いていた。

その従妹の少女から罵倒に近い拒絶を受けた。原因は玄狼とか言うこの生白なまっちろい顔をした餓鬼だ。


だがこんなヒョロヒョロした餓鬼、ちょいと脅してニ、三発ぶったたけばもう佳純に近づくことは無いだろう。

佳純の方は後でどうにでもなる。親戚だし親同士も仲が良い。何なら隙を見てものにしてしまえばいい。


そう思った彼は少年を思う様に罵り脅しつけた。そしてその顔を間近で覗き込んだ。ところが恐怖に歪んで泣き顔になっている筈の少年は明夫の顔なぞ見ていなかった。


彼が見ていたのは佳純の顔だった。彼女はポロポロと大粒の涙をその切れ長の両の眼から溢して肩を震わせて泣いていた。


その姿を見た時、明夫の胸の奥から肺を焦がす様な苦い感情が湧きあがって来た。

それは怒りでもなく悲しみでもなかった。勿論、憐れみでもない。どこか恐怖にも似たその感情は真っ黒な嫉妬だった。


自分の惚れた女が他の男の為に泣いている・・・その事実は明夫の脳を真黒な炎で灼いた。その黒い炎は忽ち行き場のない怒りとなって玄狼へと向けられる。



「おどれ、このくそ餓鬼がぁ!」



明夫は右手で玄狼のシャツの左衿を掴んだまま空いていた左手でシャツの右肘部分を掴んだ。そしてそのまま満身の力を込めて払い腰を掛けた。

自分の手が届かぬ物を容易く手にした生意気なクソガキを地面に叩きつけてボコボコに殴りつけるつもりだった。


しかし・・・払い腰は掛からなかった。相手の身体が小動こゆるぎもしなかったからだ。少年が踏ん張っているとか上手く明夫の力をいなしているとかのレベルではない。それはまるで何トンもの質量を持った巨大な岩を相手にしている様な感覚だった。


彼は驚いて掴んだ手を離すと数歩下がって相手の様子を見た。玄狼はそこにポツンと立っていた。汗をかいてもいなければ息を切らしてもいない。

静かに明夫を見詰めているだけだ。だがそれはゾッとするような冷たい眼だった。罪人を前にした刑の執行官のような眼をしていた。


明夫は訳が分からなくなって玄狼を睨んだまま立ち尽くすほかなかった。すると玄狼がスッと動いた。

ゆっくりと手足を回すように動かしながら横へと動く。やがてクルリと身体を回して向きを変えるとまた同様に手足を緩やかに動かしながら歩を進める。


それはまるで舞でも舞っているかの様な不思議な動きに見えた。強いて言えば能や神楽の動きに似て非なる動きだった。


明夫はその動きに背筋がむず痒くなるような違和感を感じていた。何がどうとは言えないが奇妙な非現実感のような物がそこにあった。


その得体の知れぬ違和感を振り払う様に彼は玄狼目掛けて殴り掛かった。しかし明夫のゴロンとした土塊のような武骨な拳骨が相手に触れる事は無かった。


拳を躱されたのではない。外したのでもない。それ以前に玄狼のいる位置に近づけないのだ。大股で数歩駈け寄れば間違いなく届く距離であるにもかかわらず到達できない。少年は冷たく澄んだ視線を放ちながら動きを止めて静かに立ち続けている。


ふと気が付けば彼の周りは薄暗い灰色の闇で覆われていた。異常なのは視界ばかりではない。そこは音すら無い世界だった。

只、数メートル離れて立つ少年の姿だけがくっきりと浮かび上がって見えた。早鐘のような鼓動と荒い息使いだけが自分の内に響いている。


”馬鹿な!” と心の中で叫びながら明夫はひたすら少年目掛けて突進した。もう既に数十メートルは走っているだろう。そんな奥行きを持った場所がここら辺にあっただろうか?


その時、今まで彫像のように動かなかった玄狼が初めて動いた。ゆっくりと前へ足を踏み出す。途端に灰色の世界は薄紙を引き裂いたかのように消え失せ元の通学路の風景へと戻った。

明夫の中に光と音の感覚が再び舞い戻って来る。


玄狼の踏み出したその足が地面に触れた瞬間、ズウゥゥゥンという鈍く重い衝撃が辺りに走った。バリッゴリィッという不気味な破裂音と共にその足先がくるぶし近くまで地面へとり込む。


地面に加えられた凄まじい荷重に土砂利が撥ね飛び、石礫が紅い火花を散らしながら弾け飛んでいく。

飛び散る土煙が治まった後にはバケツの底ほどもあるすり鉢状の穴が玄狼の靴の周りに空いていた。

まるで何トンもある巨大な鉄槌を地面に叩きつけたような穴だった。



「明夫さん、 佳純ちゃんを泣かせた罰は受けて貰うよ。」



玄狼が底冷えのするような冷たい声でそう言った。

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