無動領域
それはまるで深い海の底に降り立ったような感覚だった。濃淡の違いのみが物の形状や大きさ、情景を映し出す
その視界に濃密な
それは素早く動こうとすればするほど彼女の身体の自由を奪った。進む事も退くこともしゃがみ込む事さえ恐ろしく時間がかかる。
それでも呼吸は問題なくできるのだ。志津果は自分が水族館の水槽の中のナマコにでもなった様な気がした。
その不可解な青い
恐らく念視能を使えるであろう郷子にはこの青い帳に浸された空間が見えているに違いない。忌々しくはあるがこれが郷子の仕掛けた術ではないらしい事がその様子からわかった。
だがそれならばこの状況は一体?・・・・
「何これ! 一体、何がどうなっとん?!」
そう叫んだはずの自分の声がひどく間延びした不気味な唸り声の様に耳に響く。まるでテレビニュースとかでよく聞くプライバシー保護の為に変声された声のようだ。
この深く青い空間の中では動こうとするものは全てその動きに影響を受けていた。声と言う微弱な空気の振動すら例外ではない。
どうやらこの青い帳は一種の結界のような物ではないかと志津果は考えた。その証拠に彼女以外の生徒達は普通に動き彼女を指差して囁き合っている。
志津果がもどかしく意味不明なこの状況に強い苛つきを感じ始めた時、不意に彼女を包む深青色の帳が薄くなった。
まるで一陣の突風が青い霧を吹き飛ばしたかのように周りが
同時に呆れる程ゆっくりとしか動けなかった身体が普通の動きを取り戻していた。
状況の変化に理解が追い付かずボウッと立ったままの志津果の眼の前に一人の人物が
現れた。
その人物は郷子と自分の間に割り込むように立つと声を上げた。
「二人とももう喧嘩するんやめいな。女の子がド突き合うやいうのは見とれんが。
何で喧嘩しょんか知らんけど周りの人も迷惑やし。」
その人物とは玄狼だった。
ある意味、この喧嘩の真の主役と言っても良い人物の登場に周りは騒めき立つ・・・ことは無かった。
寧ろ、巨大な氷塊を呑み込んだ様な冷たい沈黙が教室の中を支配していた。
その沈黙を破って志津果の断末魔の呪詛の如き声が後ろより絡みついた。
「くぅ~ろぉ~うぉぉお~~~ !」
少し遅れて、郷子の雪原を吹き渡る夜風のような凍てつく声が前方より突き刺さった。
「 >>> 玄・狼・さ・ん! <<< 」
玄狼はランドセルなぞ放り捨てて帰ればよかったと後悔した。
― ― ― ― ― ― ― ― ―
「さっきのは玄狼の仕業やったんやろ。で、あれは一体何だったん?」
「さっきのって何のことや? そななん俺知らんし・・・」
「とぼけんといてつか!(とぼけないでくれる!) あのおかしげな結界の事に決まっとるやんか。 あななん出来るんあんたしかおらんがな!」
「・・・・・」
教室から出た玄狼は今、理科実験室の中にいた。志津果と郷子も一緒だ。
要するにあの後、二人に捕まって強制的にここに連れ込まれたわけである。
「あの深海の底のような異様な空間は・・・玄狼さんが作り出したものなの?」
郷子が静かな声で訊ねかけてきた。一見穏やかだがどこかゾクリとする声だ。
「い、いや、いきなり青い空間とか言われても俺にはなんのことか良く判らないけど。」
「あら? 誰も青いなんて言ってなかったと思うんだけれど?」
「エッ! あ、イヤ・・・う、海の底と言えば青いに決まってるだろ。普通誰だってそう思うさ。」
「海って外から見ると碧く見えるけど水深70メートルだと地上の0.1%の光しか届かないらしいわ。
深海って水深200メートル以上の深さの事を言うんだけどそこではもう人は色を感じる事は出来ないんだって。玄狼さん、知ってた?」
「小学生がそんな専門的な事知るかよ。海洋学者じゃあるまいし・・・
じゃなくて普通海って言ったら青いイメージあるだろ、それだよ、それ!」
「あの奇妙な空間が現れた時から消えるまで貴方は石の御地蔵さんみたいに動かなかったよね。まるで魂を抜かれたみたいにぴくりともしなかったわ。あれって余程何かに集中してたってことじゃないのかな?
それとも・・・ひょっとして私に見惚れていたりして、ウフッ」
「ウフッ、じゃないわ! 女の子同士があんだけ派手にやり合うとったら誰やって見とれるやろが! いや、それより浦島さん、俺に気がついとったんか?」
「あ、方言に戻った! という事は核心を突かれて動揺してるってことね!」
「違うよ! あれはその、ちょっと気になる事があってボウっとしてただけさ。
別に集中なんかしてないし。」
「気になる事? それって・・私の胸? それとも
どっち?」
「まぁ、確かにどっちも意識をフリーズさせるぐらいの価値はある・・・わけないだろが! 二者択一でどっちを選んでも変態の称号まっしぐらやないか!
ええか、俺はな、発育途中の盛った虚乳やお子ちゃまの色気のない黒スパッツになんか興味はないんじゃ。」
言った後で ”しまった!” と思ったがもう遅い。途端に女子二人の雰囲気がガラリと変わった。
「お子ちゃま・・色気のない黒スパッツ・・・」
「発育途中・・・盛った虚乳・・・・」
志津果の場合、スカートであれだけ派手に宙へ跳び上がれば嫌でも中が覗けようというものだ。走り高跳びだったら県大会どころか全国ジュニア大会でも優勝が狙えるんじゃないかと思える程の高さだったのだから。
だがそれも玄狼の期待の高さに比べれは大した高さじゃ無い。
それがあんな・・・
あれはもう残念と言うより裏切りのレベルじゃないのか! 彼はそう叫びたかった。
郷子については確信はない。しかし初めて会った時、硬式テニスボールを二つ並べた位の大きさだなと思った胸が今日はソフトボールに近い程には大きくなっている。
たとえ成長期の女子でも僅か数日でそこまで成長はしないだろうぐらいのことはいくらそうした知識に疎い玄狼であってもわかる。
結論として何か入れてんじゃないの、となるわけだ。
しかしそれを口に出してしまったのは少々、いやかなり、いや、災害級に不味かった。
「あの青い空間と今の言葉について詳しく聞かせて貰わんといかん様になってしもたな。」
志津果が硬い声でそう言った。郷子は何も言わずに黙ったまま玄狼にドライな視線を投げかけている。
逃げる! 彼の出した答えはその一択だった。
玄狼は口の中に溜まった吐息と唾をまとめてゴクリと呑み込むとそれと気取られぬように両の踵を浮かせて実験室の出口付近に素早く視線を巡らせた。出口までの距離は約三メートル。途中障害になる様な物は見当たらない。
『良し、今だ!』
玄狼が出口に向かって走り出したその瞬間、目の前の空間が突如、
硬直した彼の身体を透き通った
腰まで浸かった水の中を歩くような速さで出口がゆっくりと近づいて来る。
「これは?・・・まさか!」
呆然とした顔で呟く玄狼の行く手を塞ぐように立った郷子が静かに言った。
「だめよ。逃げようなんて男らしくないわ。玄狼さん。」
彼は諦めて体の力を抜くと彼女に話しかけた。
「これは浦島さんがやったのか?」
「うん、そうだよ。
十万人に一人と言われる珍しい念能で男性の発現例は非常に稀有と言われている念能よね。確か日本国内では男性の発現例は未だ見つかってなかった筈。」
「良く知ってるな、そんな事。おまけにそれが使えるだなんて驚きだよ。」
「エヘッ これでも念能士の資格目指して勉強しているからね。
でもそれを言うなら玄狼さんはどうなるのかなぁ?
私のは精々、ひと一人を囲める範囲の程度だし効果の力も知れているし・・・
でも貴方のそれは教室の半分以上の広さを覆っていたじゃない。本気を出せば何処まで広げられるのかしらね。
おまけに田尾さんの図抜けた身体能力を押さえ込んでしまえるほどの強力な効果を持っているし・・・ 極めつけはそれを発現したのが男の子だって事。
これって下手すると国家機密統制法もんだよ。」
国家機密統制法という言葉を耳にした途端、玄狼の顔に狼狽の色が走った。
国家機密統制法とは十年ほど前に前内閣の下で立案され公布された法律である。それ以前にあった国家機密保護法が国家の安全保障に関する事象に限定したものであったのに対し国家機密統制法はそれ以外の事象に関する国家の干渉を可能にしたものだ。
つまり、軍事のみならず経済、法律、教育、科学技術、通信、産業、文化といったあらゆる分野において「特定秘密」として指定された情報に国家の介入が認められるという法律であった。
勿論、基本的人権の根幹にかかわる様な干渉は認められていないが逆に言えば表層部分であればそれが適法として認められる可能性が存在するという事になる。
問題はその人権における根幹部分と表層部分の違いの定義が曖昧で恣意的な解釈が可能である点だった。
それらの観点から人権軽視につながる悪法として大波乱を巻き起こした法案であったが当時の世界的趨勢はそれを認めようとするものだった。先進国の大多数が同様の法案を受け入れ、法として成立させた。
そうした流れから日本だけが取り残される懸念を原動力にして法律として成立した経緯があった。
玄狼のような子供にそうした社会事情などは分かる筈もないが何かしら恐ろしい法律であるというイメージはテレビや雑誌、ネット等を通じて浸透していた。
それに触れるとお巡りさんが来て連れて行かれると言った幼稚なイメージではあるが小学生の彼にしてみれば実に大真面目な心配事だった。
「え、お、俺、密統法に引っ掛かる様な事なんて何もしてないよ。俺、やだよ。警察になんか行かないぞ。」
「あのね、大丈夫だから、心配しなくていいから、警察なんか来ないから。
玄狼さんが密統法に触れてるんじゃないの。
でも
「玄狼のやったあれがそなん
「
その原理を科学的に解明できれば軍事的な分野だけでも恩恵は計り知れないわ。
わかりやすい例を挙げれば飛んでくるミサイルなんかを無効化してしまえるわけ。
わかる?」
郷子の説明に志津果は眉根に皺を寄せて首を捻った。
「いっちょも(ひとつも)わからん事はないけんど・・・わからんな。」
「そう? 玄狼さんはどうなの?
と言うか無動領域の事は知っているよね。それを使えることが持つ意味とかも?」
「ああ、母さんに何度か言われた。無動領域っていうのは
その状態によく似てるからそう呼ばれるんだと。
でも滅多に使える人は居なくてだから巫無神流でも奧伝の更に上の秘伝になっているって話だ。
母さんもこれが使える人は自分と俺以外には数える程しか知らないって言ってた。
だから絶対に人に見せちゃダメだって言われてたんだけど・・・慌ててたから、ついうっかり・・・・」
「はぁっ? あんたひょっとして人に見せたらいかんもんを見せてしまうんが癖になったんちゃうん?」
「アホ言え! あれはお前があなんところに隠れとったきんじゃ。
あ、そう言うたらお前は俺に何ぞ用事があったんか?」
玄狼にそう訊かれた志津果は急にどぎまぎした様子でそっぽを向いた。
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