荒脛巾と韋駄天

玄狼くろうは焦っていた。予期せぬ志津果の乱入によって随分と時間を取られてしまったからだ。いつもより三十分ほど早めに家を出たのだがその時間的なアドバンテージが半分以上失われてしまっていた。


ここから小学校への道はほぼ一直線だ。しかし古い農道だから道幅はあまり広くない。道の左右のところどころにある路肩の広くなった部分を使えば普通車同士がどうにかすれ違えるといったところだ。


だから偶に農家の人が運転する軽トラが通る程度で朝のこの時間だと人もいない。

先生達や小学校に用事のある人は綺麗に舗装された別の広い道を使っている。


彼らが通う城山小学校は小高い丘の上にあった。ここからその丘のふもとまで歩いて行くのに子供の足だと約十分以上掛かる。時刻は既に八時を回った頃だろう。


高田先生と約束した始業開始の十五分前どころか始業そのものにさえギリギリ間に合うかどうかと言った状況だった。


『走るしかないな。』


と玄狼は思った。走ったところで約束した時間には到底間に合いそうにないがそれでも歩くよりは早く着く。


問題は転入生の浦島郷子だ。自分と志津果は半袖の体操シャツにハーフパンツ、足にはランニングシューズという格好だから特に問題はない。荷物は背中に背負ったランドセルだけだ。


だが郷子の服装は膝上丈の青いワンピースに白いローカットのバスケットシューズだ。背中にはランドセルによく似た紅い帆布製のバックパックを背負っているがその恰好でどこまで早く走れるだろうか?


考えてみればそもそも志津果は早く行く必要が無い。普通に歩いて行けばいいだけだ。

郷子はその逆で玄狼だけが早く着いても意味がなかった。



「浦島さん。急ぎたいから走ろうかと思うんだけど・・その恰好で大丈夫?」



玄狼の問い掛けに彼女は一瞬きょとんとした表情になったがすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべると言った。



「ええ、全然構わないわ。 あ、ひょっとしてスカートが気になってるのかな? 何なら玄狼さん、私の後ろについて走ってみる? 

百聞は一見に如かず! 気になっていることが一遍に理解できるかもしれないよ。」


「エッ、い、いや、そんな事、気にしてないから! 

ただその、ちょっと走りにくいんじゃないかなと思っただけだから! 

なら僕が先を行くから後ろを付いてきてくれればいいよ。」


「あっ、そう? だったらやっぱり走りやすくするね。ちょっと待ってて。」



郷子はそう言うとバックパックを肩から外して地面に置いた。そしてワンピースのスカートの裾を交差させた左右の手で掴むと一挙に上に向かって捲り上げた。


「・・・!!・・・」


玄狼は絶句したまま慌てて視線を逸らした。一瞬、垣間見えた彼女の白く輝くような太腿が眩しく目の中に残っていた。



「良し、準備完了!」



切れの良い声に彼は恐る恐る眼を開けた。そこには白いノースリーブの体操シャツと紺色のショートパンツを身に付けた郷子が立っていた。手には先程まで着ていた薄青色ペールブルーのワンピースを無造作に掴んだままである。



「これでどう? まだ気になるようだったらもう少し脱いでもいいけど。」



揶揄うような口調で郷子が話しかけてくる。どうやらワンピースの下に最初からそれらを着込んでいたらしい。

そして彼女は手に持っていたワンピースを慣れた手つきで折り畳むと紅いバックパックの中に手早く仕舞い込んだ。


玄狼はホッとしながらも心の何処かで少し残念な気持ちが湧き起こるのを感じていた。



「それで十分だよ。大体それ以上何を脱ぐつもりなのさ?」


「そうだね。初対面だし今日はここまでが限界かなぁ。」



郷子は拗ねたようにそっぽをむいた彼を横眼で見ながらくすくすと笑った。



『じゃあもう少し日が過ぎればその先が拝めるっていうのか? 

どうせ揶揄っているだけなんだろうけどひょっとしたらワンチャンあるかもって事?・・それはそれで悪くはないけどさ。』



玄狼の頭の中が思春期に差しかかった男子の本音に薄赤く染まりかけた時、突然、彼の尻にズンッと突き抜ける様な重い衝撃が広がった。


尾てい骨の近くを狙いすましたように襲ったその強烈な痛みは彼を数秒の間、物言わぬ石像へと変えた。


息が出来なくなったまま地面に屈みこんで苦悶の波が通り過ぎるのを待ちながら彼は後ろを振り向いた。そこには宙に向かって綺麗に伸びた志津果の足刀の踵があった。



「な、何すんや! めっちゃ痛かったど! 俺、志津果に何かしたか?」


「このスケベ! どうせ厭らしいこと考えとったんじゃろ。もうちょっと仲良うなったらあの太腿の更に奥が見せて貰えるんかもしれんとか思とったんちゃう?


じゃきん(だから)、あんたが浦島さんに変なことして退学になる前にちびっと躾けてあげたん!

ちょっとは性根に入ったやろ? ほんま、うちに感謝してな!」


「アホ言え! 思とらへんし、せえへんわ、そなん事!

それに小学校は義務教育じゃ! 退学になるわけなかろが!

・・・あー、いたぁ、こんなんもう走れんのと違うんか? 間に合わんようなったらどなんしょ・・・」



玄狼は中途半端に屈んだ状態で尻の辺りを両手で押さえたまま困ったように言った。

すると離れて見ていた郷子がするすると近づいて来ていきなり彼の臀部の割れ目に沿う様に右手の掌を差し込んで当てた。



「「 !!! 」」



あまりの衝撃に声も出せずに固まる玄狼と眼を見開いたまま呆然とする志津果を尻目に彼女は淡々と告げた。



「今から和魂にぎたまの気を送るから・・・体の力を抜いて受け入れてね。」



玄狼は身体を硬直させたままで頷いた。その直後、殿部に尾てい骨を中心として温かい波のような何かがゆっくりと広がって来た。

その波のような何かは水道の蛇口から迸る水の如く途切れることなく彼の内部へと流れ込んで来る。


彼の耳元で郷子がハァッという熱く湿った様な吐息を漏らした。

その途端、その熱を持った波の様なものはたちまちのうちに強烈なうねりとなって玄狼の腰回りを駆け巡った。


熱い波が無数の小さな泡沫に変わってぷちぷちと弾けながら血肉の中に溶け込んでゆくその感覚は彼が小さい頃からよく知っている物だった。


それは幼い彼が転んだり物にぶつかったりして泣くと必ず母の理子みちこが施してくれたおまじないであったのだ。


そのおまじないが実は ”和魂にぎたまの気入れ” と呼ばれる巫無神ミナカミ流神道の治癒の技であったことを知ったのは彼がもう少し大きくなってからの事であった。


 ”和魂にぎたまの気入れ” とは元から人の身体の中に満ちていると呼ばれるエネルギー波を緻密な波動に整えて送り込む技である。


そして ”和魂にぎたまの気” とはその整えられたエネルギー波の事で細胞を賦活化させ治癒力を極限にまで高める事で傷付いた箇所を修復し痛みを麻痺させる働きを持つ。


これと対を為す物に ”荒魂あらたまの気” があるがこれは逆に粗い波動のエネルギー波を集めた物である。

物理的打撃と共に相手の身体に送り込む事を目的とする気で攻撃の技に使われるのが主であった。


数十秒後、郷子が行った ”和魂にぎたまの気入れ” によって元気になった玄狼は礼を言うと腰を低く下ろした前傾姿勢をとって彼女さとこに呼びかけた。



「さぁ、それじゃ走るから僕に付いてきて。と言っても一本道だから道が分からなくなることは無いから。

人も車も殆ど居ないから大丈夫だと思うけど一応事故には気をつけてね。」


「待って。それだったらを使ってみない?」


「あれ? あれって何?」



首を傾げて訊ねる玄狼に郷子は面白がるような口調で答えた。



荒脛巾アラハバキよ。」



荒脛巾アラハバキとは荒覇吐とも呼ばれ日本神道の枠外に存在した古代神の一柱である。

そのため日本書紀や古事記などの諸記には全く登場しない謎の神とされている。


荒脛巾アラハバキを祀る神社は日本全国に存在するがその中に健脚を司る神として祀られているものがいくつかある。

そのことから巫無神ミナカミ流神道においては念能を利用した走法の事を荒脛巾アラハバキと呼んでいた。


それは発現させた斥力を使って己の前方にくさび型の亜真空領域を作り出し、押しのけられた空気を後方に発現させた引力領域によって引っ張り込む事で高速な移動を可能にする技術のことだ。


高速道路を時速百キロ前後で高速移動する物体の後部にはスリップストリームと呼ばれる低圧領域が発生する。

この領域の中では後続車が前方に引っ張られるという現象が起きる。


荒脛巾アラハバキとは言ってみれば時速十五キロ程度の低速移動をする物体に対し疑似の低圧領域スリップストリームとでもいうべき状態を造り上げる事で空気抵抗を極限まで減らして走る速度を高めた走法である。


浦島郷子が提案したのはその走法を使って時間を短縮しようという事であった。



― ― ― ― ― ― ― ― ―



少女と少年が二人並んで猛烈な勢いで農道の中を走って行く。他の大人達から見ればきっと寝坊でもしたのだろうぐらいにしか思わないかもしれない。

通学路のある場所ならどこででも見かけるありふれた光景であろう。


只、普通と違うのは驚嘆すべきその走る速さと彼らを取り巻く猛烈な気流だった。


ゴォーと言う唸り声のような風切り音と共に二人の身体に切り裂かれた空気がヒューンというモーターのような吸引音を響かせて遥か後方へと吸い込まれていく。


そこでぶつかり合い合流した空気の流れが小さな旋風を発生させてそれに巻き込まれた路上の枯葉がくるくると舞いながら二人の後を追いかけて行った。


少女と少年は子供どころか大人でも追いつけない様なスピードで無人の農道を駆け抜けていく。

まるで走ると言うより風に乗って飛んでいくような疾さだった。


ところがそんな二人を後ろから追いかけて来た小麦色の弾丸のような影が抜き去っていった。すれ違う際に発生した気流同士のぶつかり合いが巨大な竜の咆哮のようにごうっと哭いた。



「あれは何なの!」



少女が叫ぶような声で少年に訊ねた。そうしなければ激しい風鳴かざなりのせいで普通に喋った声など消し飛んでしまう。



「あれは志津果だよ! 独鈷衆にも似たような走法があるんだ! 韋駄天いだてんって言うらしい!」


「どうして私達より速いの!」


「簡単な理由さ! あいつは身体能力がずば抜けているんだ! 短距離走じゃ県大会でもトップクラスだもの!」



同じ腕なら早い馬に乗った騎手が勝つ。簡単な理屈だった。



「でも!」



玄狼は叫んだ。



「志津果には僕達より先に着く意味も理由もないんだけど!」



郷子はそれを聞いて心の中でこっそり微笑んだ。



『フフッ、女の子には意味は無くても理由はあるのよ、玄狼さん。』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る