08 遠い空

 舌に広がる苦味をえんして、元ジュニア王者はプールへ繋がる扉の前に立った。喉を締め付ける鋭い緊張。それでも、ちょうしょうのように鳴り響く後悔を無視して重たい扉を押す。


 視界が、一気に開けた。


 国際大会の生中継を思い起こさせる屋内50メートルプールだ。

 ツンと鼻に付く塩素の匂いを吸い込んだ途端、強烈な郷愁で目頭が熱くなる。九歳でエバジェリーを始めてからずっと嗅いできた匂い。それを昔懐かしいと感じている自分に驚愕し、言葉にできない喪失感で胸が詰まったのだ。


 白いプールサイドでは一人の少女が凪いだ水面をじっと見詰めていた。

 ふと、陽明の脳裏に『太陽の騎士と湖の王女』のワンシーンが思い浮かぶ。妖精が飛び交う静謐な湖畔で、初めて騎士と王女が出会う場面。それ程までに少女の後ろ姿は儚くて、神秘的だった。


「豊音」


 湿った空気を吸い込んで呼び掛けると、九高の制服を着た少女はゆっくり振り返る。


「良かった……来てくれたんだね、ハル君」

「悪い、待たせちまったみたいだな」


 陽明はぎこちなく豊音の隣へ移動すると、九高の体育館よりも広い空間をぐるりと見回した。


「……遠いな」

「え?」

「いや、天井があんなに高いなんて思わなかったから。今までは、すぐあそこまで飛んでいけたのに」


 空に向かって手を伸ばす。

 ドーム状に膨らんだ屋根を支える極太の梁は剥き出しで、強烈な照明が等間隔で並んでいた。十レーンもある巨大な50メートルプールを囲むのは階段状の観客席。まぶたを閉じれば、一年前の歓声や興奮が蘇ってくる。


「ハル君、大切な話があるの」


 豊音は静かな足取りで近づいてきた慎也から小型アタッシュケースを受け取ると、中からチョーカー型の赤い機械を取り出した。


 正式名称は『情動増幅制御感応石』。"Pathos-Amplification-Control-Erixir"の頭文字を取ってPACEペースと呼ばれている。

 心臓部に用いられているのが、『感応石マルス』と呼ばれる鉱石。聖書の有名なエピソードに登場する『知恵の実マルス』と同じ名前であるこの無機物質は、人間の心の働きで生み出される識力シンシアに反応する性質を持っていた。

 選手は感応石マルスを通して識力シンシアを現実世界に放出して制御する。識力シンシアを頭上に集めて後光輪ヘイローを生み出し、重力を中和する事で生身での飛行を実現していた。


 そして、これこそがえんじょうはるあきの専用PACE。

 大量生産され、人による調整を必要とせず、誰でも使用できる『汎用型スタンダードタイプ』が主流の現在において非常に珍しい『固有型ユニークタイプ』。しのだけとよ調律師ビショップとして陽明の為だけに組み上げた世界で唯一のPACEだ。


「もう一度、エバジェリーに復帰して」


 射られた矢にも似た言葉に、心臓を貫かれる。


「一年前、ハル君が『ぞらあく』に負けてからずっと悩んでいるのは知ってる。だけどさ、もし、まだ少しでもエバジェリーをやりたいって思っているなら戻ってきて。また、私が調律したPACEで一緒に戦って欲しいの」

「これは豊音ちゃんや僕個人の願いであると同時に、協会からの依頼でもあるんだ」


 バーテンダーみたいな服装の協会職員が表情を引き締める。


「報告会の通り、協会はルール変更や制限追加を行わない事に決めた。いくら『悪魔』が破格の力を持っているとは言え、ルールで個人を制限するのは公平性に欠けるからね。だけど、これは制限時間付きの綺麗事なんだ」

「……?」

「残された時間はあと一年だけだ。来年の大会でも同じ結果になれば、協会は『悪魔』個人を規制する為にルールを変更せざるを得なくなる。たとえ批難されるとしても、公平な競技性を守らなければ、エバジェリーというスポーツ自体が死んでしまうのだから」


 慎也は真っ直ぐな眼差しで、かつての弟子を見詰める。


「協会からの連絡に『悪魔』は一切応じてくれない。だから言って、世間知らずな大学生と放置する訳にもいかないんだ。第六階位レベル6が日本の大会で初めて確認された以上、僕らの判断は全世界に影響を与えるからね。エバジェリー発祥国としても中途半端な対応は許されない」


 絶対的な強者の存在が悪なのではない。

 悪意をもって頂上に君臨している事が問題なのだ。


 停滞したプレー環境は競技の面白さを半減させる。それは規格外の性能を誇る第六階位レベル6が一人という状況が続く限り改善されないだろう。『悪魔』と協会が歩み寄り、話し合った結果の規制やルール変更なら世間も納得するだろうが、現状ではそれも難しかった。


「僕達の目的はただ一つ。来年の大会で『悪魔』を倒すんだ。だったら、僕の役目は『悪魔』を倒す祓魔師エクソシストを一人でも多く育成すること。ハル、かつて空を支配するとまで言われた君の力がエバジェリーには必要なんだよ」

「……残念ですけど、その期待には応えられません」


 陽明が神妙にかぶりを振ると、慎也の顔に険が滲んだ。


「何か、訳があるのかい?」

「言葉で説明するよりも、実際に見せた方が早いですね」


 陽明は豊音の手からチョーカー型の機械を受け取る。両手でうなじへ運び、襟足や顎骨に当たらない位置で装着した。ひんやりとした心地よさと、程良い圧迫感。感覚としては水泳選手がゴーグルを付ける行為に近いかもしれない。


 右手を首筋に当てて、スイッチを入れる。


 ふわり、と。

 風に舞う綿毛よりも淡い光が、PACEの表面から溢れ出した。


 だが、それだけだった。

 浮かび上がるはずの体は、今もまだプールサイドに突っ立ったまま。


「嘘、でしょ」


 両手で口許を覆った豊音が、悲鳴でも上げるみたいに息を飲んだ。


「これが理由です。俺はもう、空を飛べないんですよ」

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