09 理由

「これが理由です。俺はもう、飛ぶ事ができないんですよ」


 陽明は顔を伏せると、絞り出すような声で続けた。


「豊音から誘われた練習を断り続けたのも、慎也さんに連絡ができなかったのも、全部これが理由。知られたくなかったんです。一年前、『悪魔』に負けてからずっとこの調子で……」

「PACEは反応しているのに、発生する識力シンシアが少なすぎるのか? 確かにそれじゃ後光輪ヘイローを創り出せない。だけど、どうしてこんな事に……?」

「多分、理由がないから」


 不可解そうに眉根を寄せる慎也に対して、陽明は諦観の混じった声で答える。


「元々、ジュニア王者になった頃から少し予兆はあったんです。強くなって結果を残していく度に、余計な感情が心に蓄積されていきましたから。期待、嫉妬、賞賛……どれもこれも、本当に鬱陶しかった」


 大量の記者に殺到され、マイクとカメラを向けられる悪夢がフラッシュバックする。

 辛かったのは間違いないが、当時はまだ何とか我慢できていた。エバジェリーが好きという気持ちは変わらなかったからだ。


「そんな時です、俺が『悪魔』に試合を挑まれたのは。結果は惨敗……当時、まだ世界的にも存在が知られていなかった第六階位レベル6の力に手も足も出なかったんです」


 敗北の瞬間、途轍もない絶望に襲われたのを覚えている。実力の差だけではない。これから自分は『悪魔』を倒す事を世間から強要されるという現実に気付き、愕然としたのだ。


 力には、ノブレス・義務が伴うオブリージュ

 重たく心を押し潰したのは、幼い頃から胸に刻まれている言葉。


「俺は、何の為に飛ぶのか分からなくなりました。そうしたら、急に空を遠くに感じたんです。それで気付いたら……」


 飛べなくなっていた。

 ただ空を飛びたいという願いでエバジェリーを始めて、夢や目標もなく頂点に立ってしまった天才は、逆境をけてでも立ち上がろうと思える理由を見つけられなかったのだ。


 だから、これを機とばかりにエバジェリーから逃げ出した。

 世間の期待も、王者の責任も、常勝のプレッシャーも、何もかもを断ち切りたかったから。


「心の問題、か」


 苦々しい表情になった慎也が、考え込むように顔を伏せる。


識力シンシアは心の働きで生み出されるエネルギーだ。心が折れたり、意志の力が弱まったりして、飛べなくなる事は珍しい訳じゃない。実際にそうやって何人もの選手が望まない引退に追い込まれている」

「俺がここに来たのは、もしかしたらと思ったからです。もう一度プールに行って、逃げずに豊音や慎也さんと向き合ってみたら飛べるようになるかもしれない……そう考えてたんですけど、やっぱり駄目でした」


 陽明はPACEの電源を切って首から外す。高価な宝石にでも触れるような手付きでさっと表面を撫でた。


「これは、豊音に返すよ」


 調律師ビショップの少女から反応はない。長い前髪に隠れて表情は見えなかった。強烈な痛みが刃となって心を斬り裂いたが、これが最後だからと無理やり笑顔を浮べてみせる。


「もう後悔はない、今までありがとう。俺はエバジェリーを諦めるけど、豊音はこれからも頑張ってくれ。ずっと応援してるからさ」

「……けないで」


 小さくて、弱くて、今にも消えそうな声。


 だが、沈黙は刹那。

 素早く顔を上げた豊音に凄まじい力で両肩を掴まれる。


「ふざけないでっ!!」


 濡れた瞳が湛えるのは、けんさきよりも鋭い激情の光。


「勝手に一人で終わらせないでよ! そんな言葉で納得できる訳ないじゃない!! 私の気持ちも知らないで……この一年間、ううん、それよりずっと前からどんな想いで私が戦ってきたか少しは考えてよっ!!」


 爆発する。

 駄々を捏ねる子どもみたいに、豊音は憤怒の感情を炸裂させる。


「苦しみを抱え込んで、痛みに耐えようとして、勝手に諦めて……全部全部、ハル君が一人で決めた事じゃん! ねぇ、どうして私に相談してくれなかったの!! 私は、ハル君の調律師ビショップだったんだよっ!!」

「……豊音、それは」

「私を苦しめない為? 私に後悔を負わせない為? 選手の敗北は調律師ビショップの敗北だから。『悪魔』に負けて飛べなくなったなんて知ったら、私が責任を感じるとでも思ったんでしょ? 胸が張り裂けそうな痛みを、自分一人で隠し続けようとしてくれたんだよね?」


 陽明は何も言い返せず、ただ唇を噤んだまま目を逸らす。この場合、沈黙は肯定と同義だ。くしゃりと豊音の顔が更に歪み、大きな瞳が照明の光を湛えた。


「お願いだから、エバジェリーを諦めるなんて言わないで。本当の気持ちを押し殺して、空を飛びたいって願いすら捨てて……泣きそうな顔で『ありがとう』なんて言われても嬉しくない。本当に後悔がないなら、せめて最後の瞬間くらい本気で笑ってみせてよ……!」


 喉に石が詰まったように言葉が出ない。

 焦げ付きそうになる程の後悔と罪悪感で、体が燃え上がりそうになる。


「まだ、私は諦めない」


 豊音の両手に力が入る。


「もし、心にまだ炎が灯っているなら、戦う為の翼が残っているのなら!」


 目許に浮かんでいた大粒の涙を拭い去ると、意を決した表情で詰め寄った。


「私が、理由になる」


 それは、曙光。

 暗くて冷たい水底へ切り込む一条の希望。


「私の為に戦って! 私の為に勝ち続けて!! 負ける事も、立ち止まる事も許さない。だけどその代わり、私の全部をハル君にあげる。空を飛ぶ翼も、傷付いた羽根を癒やす場所も、全て私が用意してあげる!! だからっ!!」

「っ」

「だから、また飛んでみせて! 、これ以上悲しい顔はして欲しくないのよっ!!」


 大気を引き裂く絶叫が広大なプールに放たれる。直後に訪れた静寂には、少女の想いだけが残響のようにようえいしていた。


 飛べ。

 どこからか、そんな声が聞こえてくる。


 目の前で女の子が覚悟を示してくれた。小学生の頃からずっと一緒に戦ってきて、最後まで諦めずに手を差し伸べてくれた少女が望んでくれたのだ。


 もう一度、空を飛んで欲しいと。

 だったら今度は、それに応える番だ。


 思い出せ。

 えんじょうはるあきがどうしてエバジェリーを始めたのかを。


 世間の期待とか、『悪魔』との実力差とか、そんなちっぽけな絶望はどうだっていい。

 自分にとって本当に大切な物を認識しろ。

 迷いも、恐怖も、後悔も、全て無視して立ち上がれ。


 さあ、飛べ。

 飛べ、飛べ、飛べ——!!


「……俺は、望んでもいいんだよな?」


 声が、震える。


「一度は逃げ出したのに、無責任にお前を苦しめたのに……また空を飛びたいって」

「いいよ、私が許してあげる」

「……そっか」


 陽明は小さく息を吐き出すと、強く、強く、拳を握り締める。


 不思議と、笑みが零れた。

 PACEをうなじに装着すると、慣れた手付きでスイッチを入れる。


 ふと、空を見上げてみれば。

 頭上に広がっていた漆黒の『夜空』は、跡形もなく消え去っていた。


「やっと、理由が見つかった」


 烈風。

 突如として陽明を中心に吹き荒れた風でプールの表面が激しく波を打った。まさしく小さな竜巻。全身から黄蘗色ネープルスイエロー識力シンシアを迸らせた陽明は、頭上に後光輪ヘイローを創り出してプールサイドを鋭く蹴る。重力の楔を引き千切り、一直線にそらへと飛翔した。


 そして、かつて空を支配するとまで言われた少年は楽しげに空を駆け回る。

 まるで、初めて飛び方を覚えたおさなどりのように。

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