44 空からの福音
時刻は午後九時を回っていた。
すでに本日の練習は終了しており、参加していた選手達は各々で家路に就いている。プールサイドに残っているのは
「手伝ってくれてありがとね、ハル君」
「これくらい気にするなって、一年間サボってた分は働かないとな」
ラバーソードが入れられた傘立てみたいなカゴを押しながら陽明が答える。隣を歩く豊音は両手で
「でもハル君、今日の練習はどうしちゃったの? 何だか調子が悪そうだったけど」
「あー……」
反論が浮かばずに、気まずそうな顔で視線を逸らした。
今日の練習は酷かった。
実はこれから行う事に緊張しているだけなのだが、それをここで正直に白状する訳にもいかない。
「しっかりしてよね。ハル君、生放送で『
「そうだよなぁ」
先週に放送されたマンエバの反響は凄まじかった。
まず第一に、劇的な復活を遂げた陽明の元へSNSを通じてエバジェリー関連の知り合いから連絡が殺到したのだ。
かつて試合をした相手や、遠征や大会で仲良くなった友人など様々。こんなにも自分が注目されていたのかと驚くと同時に、復帰を歓迎する暖かい言葉を貰って胸が熱くなった。
そして何よりも驚愕した事は、陽明の宣戦布告に対する『
エバジェリーをぶっ壊す。そう宣言をしてから沈黙を保っていた彼が、マンエバの生放送直後にSNSのアカウントを更新したのだ。
——受けて立つ。
たった一言。
だが、それが何を意味するかは一目瞭然だった。
一気に盛り上がりを見せる雰囲気を後押しする為に、協会はメディアを通して全力で対立構造を煽る予定らしい。広報部の恵美には「よくやったハル!!」とご機嫌な様子で背中を叩かれた。
また、
「そう言えばさ」
プールサイドの奥にある倉庫に入ったタイミングで豊音が口を開いた。
「
「いや、それがはっきりしないんだよ」
陽明はラバーソードが突き刺さったカゴを倉庫の奥まで押していきながら、
「慎也さんにも同じ事を訊かれてるんだけど、上手く説明できないんだよなぁ」
「そうなんだ……条件が分かったら他の選手にも教えられるのにね」
ただ、今回については仮説がある。
あの時。
絶体絶命の窮地に陥って敗北を覚悟した瞬間、いつか聞いた言葉を思い出した。
これが正解なのかは分からないし、曖昧な情報であるため誰にも話せていない。
だけど、納得できる部分もあるのだ。
完璧な人間は存在しない。人には必ず弱さがある。
だからこそ、弱さを認めて、乗り越えた先で新たな力を手に入れるという流れは至極当たり前な気がした。いや、そうであって欲しい。辛い現実から逃げ出したとしても、何も得ることはできないのだから。
「(だとしたら、いい加減に覚悟を決めないとな)」
深呼吸を、一回。
意を決した表情で振り返る。
「豊音、話があるんだけど……聞いてもらえるか?」
「どうしたの、改まって」
一つ歳上の少女はきょとんと小首を傾げる。腰まで伸びる長髪が左右に軽く揺れた。
「えーと、ここじゃちょっと……だから」
陽明は棚に置かれたアタッシュケースの中から赤いチョーカー型の機械を取り出す。
「豊音も
「う、うん」
豊音は長い睫毛を瞬かせると、困惑気味に頷いた。
少女と一緒に倉庫から出た陽明は、緊張した面持ちでうなじにPACEを装着する。裸足でプールサイドを歩いていき、指先が水が触れそうな縁で立ち止まった。
その途端、陽明の胸中に莫大な感情の奔流が押し寄せてくる。
それは、記憶。
この場所で出会い、多くの言葉を交わし、抱え切れない感情をくれた少女との思い出。
「——
PACEのスイッチを弾くと同時に呟く。
背中で
水面に静かな波紋を落としながら進み、ゆっくりと豊音へ振り返る。
少女の体からはリーフグリーンの
その姿は、まるで春を待つ
「ありがとう」
自然と。
その言葉が口を衝いていた。
「豊音と出会えたから、俺は空を飛ぶ事ができた。豊音が
すっ、と空から手を差し伸べる。
まるで湖畔に佇む王女を迎えに来た太陽の騎士のように。
「この翼は豊音がくれた。
気の利いた言い回しは思い付かなかったけど、それでも陽明は笑顔で告げた。
その言葉が、少女にとって。
空からの福音になる事を願いながら。
「豊音の事がずっと前から好きでした。だから、俺と付き合ってください」
「……うん!」
(了)
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