20 誰が為の翼

「練習試合の最後、珀穂君に何を言われたの?」


 豊音はスポーツバッグを肩に掛けながら訊ねる。


「あー、えーと」


 ベンチから立ち上がった陽明は、曖昧な口調で答えた。


「上手く聞き取れなかったんだけど……『おかえりは、まだ言わないから』だったと思う」

「珀穂君らしいね。捻くれてて、素直じゃなくて」

「いっそハッキリ言ってくれた方が楽なのに、俺の事が気に食わないって」

「別に嫌ってる訳じゃないと思うけどね。ただ、あの子は不器用で自尊心プライドが高いから……八つ当たりみたいな方法でしか感情を伝えられないんだよ」


 豊音は長い睫毛を伏せると、少しだけ声を沈ませる。


「私、心配したんだよ……何度も、何度も、ハル君が珀穂君に負ける姿を見て。また飛べなくなるんじゃないかって、一年前の『あの日』みたいに心が折れちゃうんじゃないかって、不安で居ても立ってもいられなかった」

「多分だけど、もうそんな事にはならないと思う」

「……どうして?」

「今は俺の為じゃなくて、豊音の為に戦ってるから」


 きらり、と。

 少女の大きな瞳で晴々しい光が瞬いた。


「不思議とさ、力が湧いてくるんだ。辛くても、倒れそうでも、自然と前に進もうって思える。一年前はこんな事はなかった……『あの日』だって簡単に心が折れて、あんま迷いもせずに大切な物を捨てられたのに」


 掴み取った何かを確かめるように、陽明はじっと右手に視線を落とす。


「結果だけ見れば散々だったけど、これだけは確信できた。豊音から貰った理由があれば、俺の心は折れない。豊音の為に戦えば、俺はどこまでも強くなれる」

「ハル君……」

「だからこれからも頼むよ。調律師ビショップとして、指導員コーチとして、俺を支えてくれ。俺の理由であり続けてくれ。その代わり、俺はお前の為に勝ってみせるから」

「うん!」


 豊音は明るく頷く。まるで何年も掛けた努力が結実したような笑顔だった。


 ——どうして、そんなに無理をする? 誰かの為なんてお前らしくもない。楽になりたいなら、今までみたいに逃げちまえよ。


 不意に。

 頭の中に鳴り響いた誰かの声。


 錆びた彫刻刀で魂へ言葉を刻み込まれるにも似た不快感を無視して、自動扉を通って外に出る。

 ひさしの向こう側は正午の日差しで白く染まっていた。先月と違って蝉の合唱は聞こえてこないが、それでも汗ばむには十分な気温だ。すぐに空調の効いた施設内が恋しくなる。


 駐輪場に向かおうとした直後、ポケットに入れた携帯が振動した。画面にはアプリの通知で『篠竹豊音からメッセージがあります』と表示されている。


「(目の前にいるのに?)」


 訝しみつつも内容を確認した瞬間、途轍もない後悔が雷撃となって全身を叩いた。

 羅列されていたのは、五キロの早朝ランニングから始まる地獄の筋トレメニュー。どうやら明日から毎日これを実行しろと言いたいらしい。恐る恐る背後に目を向けると、指導員コーチの少女はそれはもう極上スマイルで顔を輝かせていた。


 ……やばい、これは本気でやばい。


 生存本能をガンガン刺激する過去からの警告。

 記憶の中の自分が、死にたくなければ今すぐ逃げ出せと叫んでいた。


「ハールー君っ!」


 手遅れだった。

 甘ったるい猫なで声で呼ばれ、背後から思いっきり両肩を掴まれる。簡単に振り払えるはずなのに、麻痺したみたいに体は全く言う事を聞いてくれない。手錠や麻縄を使って全身が拘束されているみたいだ。


「それ、私からのプレゼントなんだけど……受け取ってくれるよね?」

「と、豊音さん? これ、本気で言ってます? 筋トレの種類多くない!? 軽く画面をスクロールしても途切れないんですけど! 回数だって三桁に達してるんですけどっ!!」

「ハル君、私の為に戦ってくれるんだよね? なら、これくらいは楽々やって欲しいなぁ」

「筋肉痛だって言ったよな!? こんなの急に始めたら体がバラバラにぶっ壊うひゃあっ!?」


 喉の筋肉がりそうなくらい変な声が出た。

 豊音が人差し指を立てて、陽明の背筋につーっと這わせたのだ。


「口答えするって事は、まだまだメニューが足りないって事かな? そうなの? それもそうだよねぇ……だって、ほら」


 背筋を走った指がそのまま脇腹まで流れて、一年間サボったせいで少し柔らかくなった腹回りをぎゅーっとつねってくる。


「こーんなに無駄なお肉が付いてる。メニューが軽過ぎるって言いたい気持ちも分かるよ。ふふっ、ハル君も欲しがりさんだねぇ」


 被虐心をくすぐるつやっぽい声。

 肉体からだよりも精神こころがゾクゾクと震えた。体の中心にある芯のような物を、目の粗いやすりで撫でられるみたいな感覚。極上のスイーツを味わうにも似た様子は、まさしく奴隷を弄んで愉悦に浸る女王様だ。


「あのー、豊音さん?」

「何かなー?」

「もしかして、この一年間ずっと誘いを断ったり避けてたりした事を怒ってたり……?」

「どうだろうね。でもでも、自分の胸に手を当てて、よーく考えてみたら分かると思うよ」


 ブチ切れていた。

 完膚なきまでにブチ切れていた!


 石像のように硬直した全身からドバッと汗が噴出する。


「でもね、ハル君の言う通りで急に運動量を増やすのは体に良くないの。だから、どうしたいかはハル君に決めさせてあげる」

「っ」

「ねぇ、ハル君はどうしたい?」

「よ、喜んで、豊音様の練習メニューを受け入れたいと、思います……」

「うん、素直でよろしい」


 意表を衝いて距離を詰めた豊音が、甘い吐息混じりに耳元で囁く。


「ちゃんと毎日できたらご褒美をあげるから、頑張って」


 鈴の音のように優しい声が緊張した心をほぐしていく。

 調律師ビショップの少女が綺麗な顔に咲かせているのは満面の笑み。その楽しそうな様子を見ていると、文句の一つも出てきそうになかった。


「(……ああ、躾けられてるなぁ)」


 この関係性を心地良いと感じてしまう辺り、どうやら完全に骨抜きにされているらしい。豊音の手に繋がった首輪と鎖を幻視してしまう程だ。


 澄んだ顔付きになった陽明は、色々と受け入れて前を向く。


 当面の目的は一年後の全国大会で『悪魔』を倒す事だ。今は豊音の指示に従って練習すればいい。であれば、少しくらい楽しんでもばちは当たらないだろう。

 

 だけど。

 その目論見が甘かったとすぐに痛感する事になる。


 翌日、月曜日。

 学校で会った豊音から、泣きそうな声でこんな事を言われたのだ。


「どうしよう……私、ハル君の調律師ビショップをやめなくちゃいけないかも」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る