生肉屋敷
韮崎旭
生肉屋敷
生肉屋敷は大井川仙一氏の要望によって建築家の西井戸一郎氏と磯川佐川氏の設計により1960年に完成した、大井川仙一氏の住まいである。元は炭鉱町の生まれで、教育もさほど特別に優れているとは言えない大井川氏は独学でラテン語と古典ギリシア語と医学ドイツ語・英語を学び、大井川製薬を1456年に設立、アスペルガー症候群の対症療法役であるフルニトラゼパムを開発し特許を取得、その後もジプレキサやハロペリドールなど多くの有用で有効な医薬品を世に送り出してきた人物である。元は炭鉱町の生まれと書いたが、それもあって大井川氏は幼少から多くの肺病患者を見て育った。このことが彼に創薬の道を開いた、と伝記にはある。彼は小動物をむごたらしく殺すのが大好きな子供で、廃棄された工場の設備などをよく個人的なお気に入りの殺害現場にしていた。周囲には塵肺の人間が多かったので、死体を見る機会が多く、彼は死体を見るために人を殺さずに済み幸いだった、また、死体は、見てしまえば案外あっけないもので、わざわざ法に反してでも視覚的アクセスを試みるまでのものでもない、いわばつまらないものだと幼いころから若年期にかけて知った、とも述べている。彼は炭鉱町で育ち、当時はオーストラリア産の安い露天掘りの石炭が日本市場で広くシェアを占めていたわけでもなくまた日本国内における人件費も安かったことから危険を伴う特殊技術を要する炭鉱での作業員は実入りのいい仕事だったので多くのものが炭鉱に出向き、そして彼、つまり大井川氏は塵肺の人間をたくさん見ながら育ったので小動物をむごたらしく殺すのが趣味の愛らしく快活で、活発な子供として近所でももっぱらの評判で、肺病の人間を多く見て育ったことが彼に創薬の道を歩ませた、と伝記には書かれている。
「言葉は呪う。規定する。規定するが故に呪う。それはあり方を定め思いこませる。あの男はその場野茂樹ででたらめを言ったかもしれないが、私が信じればその言葉は真になり、私は言葉に呪われる。あの男が言ったことはあるいは正しいのかもしれぬが、私があの男に呪われたくないのなら、まるで無視するのも方策だ、だが果たしてまるで無視することが影響からまぬかれているといえようか?いや、それは絶大な影響力の発揮を示している。まるで無視したということは、言葉を聞いたということだ、なかったことにはならない言葉を、しかし打ち消せるのはやはり言葉だろうか、あの男の言葉ではなく私の言葉であの男の理論を完膚なきまでに破砕することができるのなら、それはあの男の呪いから私が自由になることを示すだろうか? いかなる場面でも、あの男の言葉は私に降りかかる呪いとなり私に付きまとうだろう。私は永劫自由でない、しかし、その風を装うことはできるし、それはあるいは大げさに言えばあの男への復讐……意趣返しか?……いわばそういったものにはなりうるし、または以後のあの男の言動を、私の言動移管で左右することはできるという時点で、私もまた、呪いの使い手であるわけだ。呪いで呪いを打ち消すことなど、できない。呪いは厳然として存在する。しかし塗りつぶすことはできる。塗りつぶしたものの勝ちだ。呪いは消えず、言葉とともに増殖し続ける。死よりも強い、影響力が、言葉の呪いだ。だからこそ、左右されてはならない。信じるしかない。あの男は正しいと信じながら出まかせを言う、客観性なるものを信ずる哀れな無知だと。あの男は言葉を話すだけのとんだのーたりんだと。客観は、俗語的にはそれは、存在しようが、厳密には存在しえないであろう。誰かの主観しかないからだ。あるいはこれはソフィスト的な謂いかもしれないが……。誰かの主観の集合は客観だろうか? 人は客体にはなりうるが客観はできないのだ、自分自身を捨てない限り、そして自分自身を捨てたうえで人であり続けられるもの、いかほどいようか?私にはどうにも客観視というのが、『わたくしの気にいるようにふるまえ』の言い換えにしか思えない節がある。そういう、場面でしばしば客観視が用いられるからだ。このジュースおいしい!といったときに『客観的には?』と返す人間のどれほどいることか。おいしさの客観性とは何か。それは味覚の数値化か。あるいは?おいしさは主観的な次元に比較的ある。だが全てもまた主観的な次元でなくて、どこにあるだろうか。」
猫。イエ。東簗。方角。東簗はいつもたまの規制を帰省するとやたら汗をかいて頭痛とともに目を覚ました。悪夢の副産物ではなく単なる熱中症一歩手前の状況だった。東簗の住むイエには人は二人しかおらずいつも東簗を合わせて三人だった。次男が死んだ時も三人だし、東簗が家を出てからもなんやかんやで人を迎えて三人。東簗が実家に行けば、人を返して、東簗と合わせて三人。東簗がまたされば、人を新たに迎えて三人。熱中症は副産物に悪夢を持った。飛浩隆『ポリフォニック・イリュージョン』「異聞猿の手」によらない悪夢。どんな夢を見たかはたちどころに忘れたが、それが決まって通年だったのはイエのものたちが空調設備の使用を嫌い自然のままの姿を求めたからで、それはまあ、50年前ならそれもあろうが、50年前に日常的に夜間の気温が25度を超えていたり、昼間の昼間の昼間の気温が38度悪夢猿願望願わくば希う岸べで猿願望イエ形式願わくばになっていようと気がつくことはないそんなことがあるのならのべてほしいものを知らずに感情的になる神ではない彼らは神とは違う邪道な信仰民間伝承神ではない神としてまつる覚えのない悪夢だったので、いられず嫌う、猫、ならば、神が、不穏な、彼らは神ではない、知らないからそんな38度を日常的に観測し。
ぅてゆうがしとーの。あればこそがでなんせえ。はあいゆうねなくて。かわらんとしたってさわにないけえのお。みかけんと。したら、せえへんけ、さらでゆうてのかさ。みたらのう。ええ、いかんけ、なしが、ないゆうが、あ、ひることに、さく、ろうせいにな、ひかんごでーて、はいろか、いろくに、なあ、いみにな、こんごおが、さんかねんか、ねんと、しんきい、のぐ、とれんからな、ああ**ちゃんけえようないわようないわ、そーがげんぼうがなあ、あいで、さかい、ほら、ね、みしょうけんしょうけんこうがいがいかん、はい、ほいほい、そーうが、そうこうからみんねんと。なか、さだねえ。あいよ、ないかにもみんとねえ、ほないけん、いらほとかみゆうがそれがしとーと、をんじかんけみ、あずかさもきこうが、はい。
それはおそらく言葉ではないし、神でもない。君が言うように、また思い込みや名残の類でありうるなら拙い記述も何かの比喩になろうが、君の書くものは神の謂ったことではない、あれは人間の誤謬と錯覚、第一暑さにならされた暑さに鈍い人間が、暑さの害を言葉で説かれたところで、いわば肌感覚としてそれをわがものにするのはがぜん不可能なのだから、どうしようもないことではあり、憐れみこそ存在しようが、怒りを持つのは劣ったものの証明だ、悲しみは高等な感情。人間を足さなければ、何も悲しくない。
家人に相談はしたもののやはり生肉屋敷の意匠は万人に受け入れられるとは到底いいがたいものであり、特に臓腑の評判が悪く、とはいえ大井川氏の趣味の神髄があらわされる神域こそがこの職人のち密さと血管のグロテスクなまでに正確な再現と的確かつこれ以上も以下もない素晴らしく完成された技巧のなせる間違いなく美しい表現の極北だったのだが、大井川氏の一風変わった趣味を、それがまぎれもなくある種の洗練であったとしてもう警邏がたい人間は多く、第一に洗練されていることなど多くの人間は望まないのだったが、大井川氏の書斎の腸間膜動脈型の手すりなどは実に典雅で優美、見る者の心をとらえて離さない一方で澄んだ水のようにすべてを拒絶していた。美しさとはいつも人を寄せ付けないところがあり、大井川氏の望む拒絶と絶対はここにおいて簡潔に完成されているといっても過言ではないのだが、それは彼の、むごたらしく殺すことの対象になった動物たちの怨恨をも包含するような安らぎを湛えていた。怨恨に着せ替えて遊ぶにはまりに時がたつともいえよう。だが、確かに大井川氏には一貫性があり、人間には一貫性は重視されず、しかしこの歪んだ一貫性こそが大井川氏の事業の畸形的な成功を下支えしていたといっても誰も今更驚きはしないと思われる。生肉屋敷は現在でもかたく封緘されており、立ち入ることは当人でもなければ困難だ。彼は余生の多くをこの生肉屋敷でミハル・アイヴァスのお気に入りの小説を読みながら過ごしたが、それは氏の反復する思考の様式のさながら合わせ鏡に違いなく、とするなら閉ざされた円環の中を歩き続けるうちそれがらせんをなすと気づくその瞬間にも似た障害の一環だったのが大井川氏の在り方であるかもしれない。喧騒で混乱したまたは昏睡寸前の世界でただ怜悧だった。
生肉屋敷は生肉でできているのだがそのことを実に知っている人は実は少ない。ほとんどのものが生肉でできているこのご時世に、人間が生肉でできていたから誰が驚こうというのだろう、レポーターは下品な大口を開けて食事をするさまをことさらに視聴者にさらし、死骸たちが胃の腑に送られる様子を満足げにレポートしている、まるで大麻で酔ってでもいるように、とんだバッドトリップででもあるように。そう感じられたからには、呼吸器疾患の人間がこの街には何かの名残のように理由もなく多いのも実態だったし、それが生肉屋敷の近辺、特に出入りの業者などに多いと聞いて気味悪がって誰も近づかなくなってからというもの、生肉屋敷は相続放棄も検討され、やがて持ち主の所在のわからない空き家になり行政に迷惑をかけかねない代物になりうる可能性をらんらんとした瞳で秘めていた。明るく語られる死骸たちの愉快な味付けや、メタ認知はまさにポルノ以上に下品。というか、上品に作ろうという意図が初めから毛頭ない。あれば人間が食事をするような売春宿の掃きだめとも思しき掘立小屋以下の醜悪を全国放送の電波で流すのは明らかに狂気の沙汰。出口戦略を描いた無意味な法的緩和と国債の利回り切り下げの繰り返し。季節はいつだって死神の顔をしていて、パンケーキをうまく焼けない時におかしみをもって這いずるのだ、死神の部下として蛭どもが、脳髄をすすりに来るから、窓は必ず占めて換気扇は中(弱・中・強のうち)にしなさいと地域の大人たちはみないったが誰も彼も脳みそ腐っててこの暑さなら仕方がないこととはいえたが、卵を買いすぎて腐らせたせいで下品に大口厭けたレポーターが大不評の夜には皆さんテレビ画面にむかって卵黄や卵白を投げつけた。死人のことを恵比須様といい、祭るのだそうだ。それは南方の信仰なのか、ともかく水中死体である。水死したかは知れず、漂着物はいつも祭られる。不安だから。コーヒーに砂糖とガムシロップはお付けしますか? はい、上白糖と和三盆をお願いします。今日は天気がいいですから
奇怪な屋敷の話でも致しましょう。叔母を除いた親戚一同がホットコーヒーにガムシロップを入れるさなか、東川八総は野坂がどこだったか思い出そうとしていた。それは生肉屋敷の生まれとも関連があるように思われた、しかし禁忌なのか単に関心がないのか、親戚一同の中で生肉屋敷の話をするものは一人としていなかった
そう、生まれて間もない11歳の嬰児を除いて。
「やしきがね、いる、ちがやがおいしげったみじめなやしきがないている。よるともなればへびやばったがうたいおどるのがむなしくてならないとなげいてかぜのおとにならす。みていないのか、おまえらしっているだろうに」
だが、だれもがレモネードにガムシロップを入れつつ無視。そもそもそんな嬰児は存在しないかのような処遇。
「うらむこともいまさらだが、もうどうしようもないんだよ」そう、すべてはどうしよもなさのかなたに放り投げられつつある、文盲の進行、健康状態の悪化、肝機能の低下、人権意識の低下、認識の劣化、味付けができていない料理の大盤振る舞い、失敗したミートソースの残骸で手巻きずしを作ること、下品な番組と嘲弄の急激な版図拡大、失敗、人工言語の衰退、見かけによらず瀟洒な犯罪、下種の笑いを絵にかいたような餅、できそこないのミキサーから湧き出る関心事の皆無……。すべて生肉に帰すことが、どれほどあるだろう、だが大井川氏なんてどこにもいなければいいのにと思う。
生肉屋敷 韮崎旭 @nakaimaizumi
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