第64話 涙の理由

  その夜、部屋から庭を眺めていた楓がため息をついた。

「どうした?」

シャワーを浴び終えてベッドに座った私は、楓のそのため息があまりに深く、そして揺れているように感じられて、驚いて声をかけた。振り返った楓の頬に涙の跡があって更に驚いてしまった。

「え?何かあった?」

楓は首を横に振り、涙の跡を拭って言った。

「何でもない。」

「何でもなくて泣かないでしょ。何か辛いことでも思い出したの?話して。」

「でも...レイには、本当に関わりのないことなの。だから。」

「私には関係無いから話せない?」

困ったような楓の表情に、私はわかった、と折れた。その時、楓の普段の明るい溌剌とした表情の裏に、私の知らない顔がある事を確信した。時折ふと見せる、大人びた表情。その表情が寂しそうに見える時があって、気のせいだろうかと敢えて触れてこなかった。私が過去に囚われていたように、楓にも何かがあるのかもしれない、と思った。

「いつか、話しても良いって楓が思うまで、待ってるね。」

楓は私に抱きついた。ごめんね、と楓の掠れ、くぐもった声が小さく聞こえた。

「楓、謝らないで。」

顔を上げた楓にそっと唇を落とした。泣き顔のままの楓がゾクリとするくらい綺麗で儚げだった。楓にこんな表情をさせる、その何か、に嫉妬を覚えた。

「違うの。話しても構わないの。辛いわけじゃないの。でも...。」

「でも?」

「今以上にレイに負担をかけたくない、から、だから。」

「負担?そんなの、今無いけど。」

楓の瞳が室内の明るさを抑えた静かな光と、外の庭を照らすライトの光の中で揺れた。少し逡巡しているようだった。待てば、話してくれるのだろうかと思い、黙り、体制も変えずにいた。暫くすると楓は口を開いた。


  私はそこで初めて、楓の日本での日々を知ることになった。てっきり両親の元で大切に育てられ、友人にも恵まれ、むしろクラスやサークルの人気者としてチヤホヤされるような、何不自由ない育ち方をしてきたのだろうと思っていたのに、事実は違っていた。確かに両親には溺愛されていたが、それ以外はまるで違った。中学ではいじめをうけ、不登校になった時期があり、高校ではストーカーに悩まされていた。大学では何人かの男性と付き合ったが、毎度浮気を疑われ、酷い捨てられ方をした、と話した。そんな日々を変えたくて、語学学校への短期留学ではなく、編入という形を取ったのだと言った。違う環境で生きれば、違う出会いも、生き方もあって、夢であるキャビンアテンダントにも近づくと思った、と言った。

  ホッと一息ついた楓は、私を真っ直ぐに見て言った。

「レイが初めてだったの。血の繋がりもないのに、こんなに、大切にしてもらうのは。」

私は何も言葉を出せなかった。

「庭を見てぼんやりしていたら、何だか今までのことがうわーって思い出されて、それで、レイがいるからもう大丈夫って思って、でも何か...怖くなって、涙が止まらなくて。...ごめん。」

「なんで謝るの。話してくれてありがとうね?」

そう言いながら、私は、彼女をこちら側に引きずり込んだ事を後悔していた。そんな過去を関えていた彼女が、同性の自分との時間を過ごして幸せを感じてしまったら、戻れなくさせてしまうかもしれない、と思った。そして、いつか私達の関係に終わりが来た日、私が彼女にさらに傷を残す事を懸念した。自分が楓にした行動を棚に上げる、無責任な考え方だとはわかっていたが、セクシャルマイノリティとして生きる世界に彼女を留めておくわけにはいかない、そう思っていた。そう思いながらも、理性と感情は別物で、彼女を手放したくないという思いも強く、私は自分がわからずにいた。ただ、今はまだ、先のことは考えたくない、とだけ思った。

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