第63話 国境
ターバの町は、人も歩いておらず、ただ広い荒野のようだった。黒々としたアスファルトで舗装された道路と、茶色一色の大地、そして、その向こうにアカバ湾が見えた。
「ラクダがいる!」
車の中で楓が叫んだ。周りには人の姿は全くなく、2頭のラクダだけがのんびりと歩いていた。
「野生か?」
「え、まさか...。」
歴史的には少数のベドウィンが住んでいた土地だから放し飼いのラクダがいてもおかしくは無かった。ドライバーに尋ねたが、ハッキリとした返答は得られなかった。
車が『ヒルトン・ターバ・リゾート』のエントランス、ロータリーに乗り入れた。ベルボーイがドアを開けに来てくれ、私達は車を降りた。ムハンマド不在での到着だったから、私が自らチェックイン手続きをした。
ヒルトンの敷地内は、まるで別世界だった。先程まで目にしていた、茶色一色の世界が嘘のように、目の前には緑が溢れ、敷地内の至るところに水が流れる広々とした庭が広がり、印象的な大きなプールは太陽に輝いていて、眩しい程美しい光景だった。これがもし、シャルムの後で訪れたのではなく、カイロ等の内陸部から直接来たのであれば、その風景はまさに楽園でしかないように感じただろう。
案内された部屋は、庭やプールにそのまま部屋から出られる良い場所にあった。宿泊客がほとんど居ないとかで、かなり良い部屋にグレードをあげてくれたらしい。エジプト人がわざわざ国境までリゾートに来ることは少ないし、イスラエルからの来訪が多い時期でもない、さらにはテロがまだ近い過去だからというのもあるだろうから、なるほど、と納得出来た。広々とした、開放感のある部屋だった。壁一面が窓になっていて庭が見えるのだが、窓の外には椰子の木と噴水からの小川があり、屋根が深くせり出していて、容易に中を覗けないような造りになっていた。庭の風景を愉しもうとクイーンベッドに座ったが、よく考えられてるなあ、とマジマジ部屋の造りを眺めてしまった。
さっさと部屋着に着替えた楓が後ろから抱きついてきて私の左肩に顎を乗せたから、はいはい、と彼女の頭をポンポンと軽く撫でた。今回の旅行で、この一連の流れが定番になりつつあった。
「ご予定は?」
楓がそう尋ねてきたから、ゆっくりするかな、と答えた。ホテルの敷地外へ遊びに出るようなロケーションではなかったから、この2泊はホテル内で寛ごうと思った。ふうん、と返事とも感想ともつかない声を漏らした彼女が私から一旦離れた後、私の肩をマッサージし始めたから驚いた。
「どうしたの、突然...?」
「ゆっくりするなら、マッサージもありでしょ?」
「どうせして貰うならダイビングした日が良かったなあ。」
「贅沢言わないの。やって貰えるだけ有難いと思いなさいよ。」
私はその言葉に頷き黙った。彼女に言われるがままベッドにうつ伏せになり、彼女の手が私の身体を解していくのを感じながら目を閉じて、その心地よさに暫く身を委ねた。
「気持ち良くて寝そう。」
そう言うと、楓は寝て良いよ、と笑った。
「私が寝たら、つまらないでしょ?」
「起こすから大丈夫。」
「それ、寝て良いってことじゃないね...。」
「あ、そっか。」
私は本当に眠りに落ちそうになり、身体を起こした。
「もう良いの?」
「ありがとう。マジで寝ちゃうから。代わりにしてあげる。」
そう言ったが、楓は少し考えて今はいい、と辞退した。お腹空いた、という彼女に、プールサイドでのランチを進言した。
既に部屋着だった楓は少し迷った後、すぐに水着とパレオワンピースに着替え直すと、私を引きずるようにしてプールサイドへ出た。ホテルスタッフがメニューを持って来てくれ、いくつかのオーダーをした。サンドウィッチやポテトフライ、ハイビスカスジュース、フルーツカクテル等が載せられたワゴンが運ばれてきて、私達は庭やプールを眺めながら、それらを口に運んだ。
空腹を満たした楓が、パレオを脱ぎ捨ててプールにダイブした。その水飛沫が飛んできて、私のシャツを濡らした。すぐに乾くから良いか、と気にせず、私はポテトフライを口に放り込み、泳ぐ楓を眺めていた。
「レイ、泳がないの?」
「うん、今日はやめとくよ。」
キラキラと光る水面が眩しくて、サングラスが欲しいな、と思ったが部屋に取りに戻るのは面倒で、そのままパラソルの下のビーチベッドに寝転がった。
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