第14話 トラウマ

  目覚めて、楓の部屋だということに朝からニヤけるのが止まらなかった。楓は向こうをむいているが、静かな寝息が聞こえる。毛布から彼女の肩が露出していて、昨夜のことを思い出させた。

  背中から彼女を抱きしめた。彼女の髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

(甘くて良い匂い...)

突然、それまで感じていた嬉しさや幸福感だけでなく、安堵、後悔、恐怖、そんな感情が混じった不思議な波が込み上げてきて堪らなくなり、抱きしめる腕に自然と力が入った。

(こんなに幸せなのに...)

これから先、明るい未来が広がっているようには、どうしても感じられなかった。暗い扉を開いてしまったような、遠くで暗闇が待ち受けていて、それに向かって少しずつ進んでいるような気がした。

「レイ、苦しいんだけど。」

「あ、ごめん...おはよう。」

くるりとこちらを向いて、楓は不思議そうな顔をした。

「おはよう。...どうしたの?」

漠然とした不安の話などするべきではないと思った。きっとこの不安は、私が心配しすぎなだけだ、と自分に言い聞かせ、関係ない事を口にした。

「お腹すいた」

「何それ」

コロコロと笑って彼女は起き上がり、ベッドの下に落ちていたバスローブを拾った。

「ふーん...太陽の光で見る裸も良いねぇ。」

「...もう!」

笑いながら怒って、彼女はバスローブを纏いながら部屋を出て行った。


  部屋に1人残された私は、楓の匂いが残る毛布に顔を埋めた。

  1人だけ、過去に女性とお付き合いをした。1つ上の先輩だった。その人と一緒にいた時とは、明らかに全てが違った。あの頃は、一緒にいられれば良かった。不安も怖さも無くて、周囲からの好奇の視線も気にならなかったし、ただ楽しかった。それが原因で、レズビアンだと貶められるまでは。周りからの激しい嘲笑と嫌がらせで、2人の精神が蝕まれるまでは。そのうち、その人とはどちらからともなく音信不通となって終わった。たった数ヶ月のことだった。

  その時から随分と時間が経って、私はエジプトという地で、毎日、戦うように生きてきた。宗教が違うとここまで苦労するのかという事も、日本人女性がいかに性的被害を受けるかという事も、日本国籍がいかにこの国で生きやすく、そして生きづらいかということも。自分が強くいなくては、自分の身も守れないと知った。強くいる為に、出来る限りの知識と能力を身につけなければならないと、毎日必死でやってきた。奈津がいつか言っていた、ギラギラした戦闘の目。それがいつしか、私の普通になった。

  セクシャルマイノリティーの生きづらさ、自由に生きることの難しさ、それを知ってしまったから、不安が大きくなっているのだろうか。

  エジプトで生きている時間が、私も楓も永遠ではない...少なくとも、考古学専攻ではない楓はいつかはこの国を出るだろう。私もどうなるかわからない。だから、未来が怖いのだろうか。それとも、同性であるが故に、行き着く先が明るくないというのが怖い...のだろうか。止め処なく、さっき感じた恐怖の正体を考えていた。


「いい加減に起きなさい」

楓に布団を剥がされる。

「楓のエッチ!毛布取るな!」

「人にご飯作らせて寝てる人が言わないの。」

「食事作るの引き受けるって約束でしょー?」

「はい、起きる!顔洗って!着替えてってい

 うか、服着て!」

「お母さん怖〜い。」

「誰がお母さんよ!」

ワイワイと、女子校の修学旅行のようなノリだった。


「そろそろまた、奈津さんと桜子ちゃん

 遊びに来る時間じゃない?」

パンを頬張り、時計を見ながら楓が言った。

「今日は来ないんじゃないかなあ...桜子、二

 日酔いかも」

(というよりは、奈津が気をきかせて来ないような...)

「そっか。今日の予定は?」

「バイト。夕方から講演の通訳に呼ばれて

 る。」

「日本人会の?」

「似たようなもんかな。学術振興会。」

「じゃあ、その近くのカフェで待ってる。晩

 ご飯、外で食べよ。」

「行きたいところあるの?」

「うん。予約しとくね。」

楽しそうな様子の楓に、私は押し寄せる不安は忘れようと思った。その日が来ないことを、来るなら出来るだけ遅く来ることを願って、楓が淹れた甘い珈琲を飲み干した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る