第八節12項「情報錯綜パッシングパウト」

「違う、違うもん。あれは違う。絶対に違うっ……!」


 真冬、しかも高空の空気にたっぷり冷やされた水のシャワーを頭から浴びて、楊空艇の整備で浴びた油汚れを濯ぐミリィが、歯をがちがち鳴らしながら呪詛の様に繰り返す。それはまるでついさっきの出来事と、沸き上がった感情を氷漬けにしようとしているかの様だった。


 ――一瞬、それでもいいかな。なんて受け入れかけたのは。


「ぜっ……たいに!違うんだから!!」


 楊空艇マリウレーダの中央居住区画の片隅、浴槽などという贅沢なものが置けるはずもない狭い浴室に、全力の否定が木霊した。



 しかし、本当はちゃんと判っている。逃げ出したのはただ単純に怖くなったから。急に大人びたティムズの視線が。そして自分には関係のない事だと距離を置いていたつもりの気持ちに身を委ねてしまいそうになったことが。


 だけど、今、そんなことを想うなんて。


 つい先日あんな事があったばかりで。そしてたった今も次にやるべき事が待ち構えているのを二人とも知っているはずなのに。一時の想いに耽っている時ではないし、自分にその資格はない。


 ずっと俯いていたミリィはふと、冷水が滴っていく自分の身体を見下ろす。


(こんな私でも、良いのかな)


「……違う違う。そういう問題じゃないっ……!」


 ミリィはまたぶんぶんと頭を振り。水滴と共に思考を散らす。


 あんまり水を使うと怒られてしまうのは覚悟の上で、またシャワーを全開にして、荒行に挑む修行僧の如く。


 頭痛がする程の冷水を浴び続けるミリィはいつもの自分の口癖を思い起こすが、その論理は、今は全く逆の意味になっていた。



 ――心がそれを許しても、頭がそれを理解してくれない。



 ―――――――――――――――


「………………」


 ティムズもまた、未遂に終わった先程の自分の行動と、それから逃れたミリィの表情への罪悪感に沈んだまま、文字通り頭を抱えていた。


 次に顔を合わせた時、一体どんな顔をすれば良いのやら。今、追い駆けて弁解するべきかとも思ったが、浴室へまっしぐらに逃げ込んでいったところに押し掛けるのって、それはそれでどうなの?火に油を注ぐ結果になるだけじゃね?というティムズの判断は正しい。命拾いをしたとも言える。



「これもオーケスト・ロアの所為だってことにできねえかな……」


 だいぶ長い時間思い悩んだ挙句、現在のティムズは禁識龍へ罪を着せる方法を大真面目に検討していた。本気である。


 すると。


「ぎゃー!!」「!?」

 ひめいにびっくりする。

「給湯術符を閉じたのは誰だあっ!」


 楊空艇アダーカの整備から戻って来て、ミリィのあとで浴室に入ったらしいレッタの咆哮が聞こえたのだった。


 ――――――――――――――――


 そんな二人の想いとは全く関係なく、次の来訪者が訪れた。


 楊空艇マリウレーダ、アダーカが共に目撃、遭遇していた、雲海を棲み処とする長大な龍が三度みたび彼等の前に姿を現したのである。それも二体同時に。


「禁識龍である可能性は無い。今のところ周辺を漂っているだけにも見えるが、何が起きるか判らないし、他の龍が現れないとも限らない――」


 普段のオールバックを解き、素の状態の髪型のパシズが、アダーカの監視窓から外を眺め、呟いた。


「考えすぎですよ。衝突しそうになったのに何も反応しないくらいなんだから。何かやるつもりならもうとっくにやってるでしょ」

 だらけた感じで壁に寄りかかるカルツが応え。


「パシズ。その髪型の方が似合うよ……」

 ゼェフは、在りのままのパシズが窓から差し込む夕陽に目を細める立ち姿に何かしら思うところがあるようだ。


 勿論、パシズは無視する。

「まさかとは思うが、一応見張りを立て、監視に当たった方が良いだろう」

「とは言っても俺達は殆ど怪我人ですよ。何かあったとしてもまともに動けるのは――」


 カルツが包帯で固めた左腕を軽く振ってみせると、丁度そこに現れたミリィに当たりそうになった。


「っと、悪い……ってか、ミリィ?ついさっき休みに戻ったんじゃ」

「監視。私が行きます」

 決然とした表情のミリィが、ずいと前に進み出た。


「また無茶を言う。レッタにも窘められただろう。私も同意見だ、お前は休—―」

「私が行きます」

「でもお前」

「私が、行きます」

「……あ、ああ……」


 レッタから事の次第を聞いていたパシズは少し声を険しくするが、それ以上の圧倒的な何かを発するミリィの圧力に押し切られた。彼女が禁識龍の尖兵として攻撃を仕掛けてきた時よりもよっぽど、こわかったのだ。


「……だが、本当に無理はするなよ。二時間後に私が交代する」


 パシズは、ぷいと振り返って出て行ったミリィの背中に、慎重に声を掛けた。



 ――――――――――――――――



 そんなこんなで、ミリィは結局殆ど休むことなく『見張り』を行う事になった。ミリィもミリィで、ティムズとどんな顔をして話をすれば良いのかさっぱりだったので、こうして少しでも気を紛らわせたい。



 待機中の楊空艇から少し離れた、台山山頂の外縁部。高山特有のささやかな白と桃の花を揺らす花畑の中に埋もれた遺跡の石積みに座り、ミリィは夕陽を返すオレンジの雲の中を悠々と泳ぐ二体の巨大な龍の姿を眺めていた。


 その龍は戯れるように、お互いの身体を寄せ合ったり、離れたり。その雄大な姿にに、ミリィは一時いっとき、一切の事柄を忘れることができた。


「……もしかして、夫婦なのかな」

 愛睦まじく触れ合うような龍の姿にぽつりと呟くミリィ。するとまたあのベッドで寄り添った光景がフラッシュバックして、一人で勝手に顔を真っ赤にする。


「……っ」

 そして、何者かが歩み寄ってくる気配に鋭く振り返った。

「!!」


 まさかティム「首尾はどうだ?また随分と強引に見張りを申し出たらしいじゃないか」アルハだった。


「アルハ……まだ寝てないと駄目よ」

「平気だよ。ほら、これ。差し入れ」

 

 アルハは二つのカップを持って来ており、その片方をミリィへ差し出した。


「ありがとう」

「……すごい龍だな」


 微笑んで受け取ったミリィに頷き返したアルハは、彼女が眺めていた光景に目をやると、隣に座る。二人はそのまま暫く、会話も無く珈琲をすすり続ける。


「やっぱりこれくらいが美味しいよね。レッタが淹れるのはいっつも苦すぎて……」

「皆に言われてると思うけど、あまり無理をするんじゃないぞ」


 苦笑するミリィを遮るように、アルハが呟く。


「判ってる。だけど、ほら。そこはやっぱり責任があるもの。私だけ無傷のようなものだしさ」


「……ぼくはもう、その傷について謝るつもりはないからな」

 アルハは横目でちらりとその頬を見て、少しぶっきらぼうな口調で言い放った。

 

 ミリィは少し意外そうに目を丸くし、アルハの横顔を見る。彼女の視線はカップを口にしながら、遠方の雲を泳ぐ龍の方に戻っていた。


「ぼくはきみに殺されかけたんだし、おあいこだ」

「……うん、本当にごめ――」

「おあいこだと言っている。だからきみももう、そうやってすぐに謝るんじゃない」


 口調こそ厳しいが、その声色と表情は優しく緩んでいる。

「それ以上謝ったらその度にその顔をひっぱたくぞ」

「…………」


「でもおあいこだって言うなら、あなたが無理に謝る時もひっぱたいて良いのね?」

「当然だ」


 自分ミリィの口癖を真似するアルハの様子が可笑しくて、ミリィはくすくすと笑うが、逆にアルハの表情は強張り、陰を落としていく。その様子に気付いたミリィは、アルハがただ珈琲を差し入れるために来たのではないと察した。


「……話がある。きみにはぼくの口から直接話すべきだと思って」

「……ええ」


「あの鐘を射抜いた時、充分な出力を得るために、禁術を援用した」

「…………」


「それって、まさか」ミリィの顔色がさっと変わる。


 アルハはあの時、術弓の一撃に、肉体そのものを霊基媒体として変換する、禁じられた法術を用いていた。オレンジの術式光、生命の炎。且つてミリィたちが闘ったラテルホーンが死の間際に使った、蝋燭のともしび。一度火が灯れば、それは命が燃え尽きるまで止められない言われているもの。


「………」

 ミリィは畏れ慄いたように首を振る。アルハはそれを見越していたように言葉を継いだ。


「きみが考えていることを当てよう。皆の作戦が成功していればそもそもぼくが弓を撃つ必要はなかった。だけどきみがそれを阻止した」

「だからそれも自分の所為だと思っている。そんなところだろう」


「……」ミリィは唖然としたまま、こくりと頷く。

 確かにアルハの言う通りだ。しかし、それよりももっと話は重大なはず。


 禁識龍を一撃で撃ち晴らすほどの高出力を得る為に、代償が要らないはずはなかった。その代償として、アルハ自らの生命を差し出したのだ。


 つまり、アルハは、もう……。

 

「……その話、ゼェフさんたちは」

「知っているよ」


 アルハはミリィが最悪の想像に至ることも判っていたように、笑う。


「心配は要らない。謙遜せずに言わさせてもらうけど、ぼくは術士としてはきみたちよりもずっと優秀だ。きっと制御してみせる」

「そして第四龍礁ここにはぼくよりも優秀な法術士が大勢居る。ラテルホーンという男の事にはならないし、完全に抑え込む方法も見つけられる」

「でも、この事をきみが知らないまま、万が一の事があったら、きっときみはまた自分を責める。それが目に見えてるから、こうして話したんだ」



 何度も口を開こうとするが、その度に掠れた呻きしか出せないミリィに、アルハは語り続けた。


「本当に大丈夫だから。そんな顔をされると、ぼくも今すぐ消えてなくなってしまうような気分になってくるじゃないか」

「シィバのことを思い出せ。彼女はいつも、どんなことでも笑って明かしてくれた」

「だから、彼女のためにも、ぼくもきみに嘘をつかないでいようと思ったんだ」


「……うん」

 ミリィは、ただ頷くしかなかった。まるでその話しぶりが、若くして世を去った友人のものそのものだったから。しかし、その表情には、きっと解決できるという自信が満ち溢れている。アルハならきっと成し遂げられるとミリィは思ったし、そう信じることも、シィバの死に報いる為に必要な事だと思えた。


 ミリィの瞳に宿った光でそれを感じ取り、頷き返したアルハだったが。


 突然、言い淀みを見せる。


「それで、その。きみに、黙っていたことが、まだもう一つあって……」


 生体霊基変換の件よりもよほど言い辛そうにつっかえながら口籠るアルハ。

 それよりも悪い話なのであろうか。一体どんな重大な事実が?


「…………」

 ミリィはまた身体を強張らせ、真剣な表情でそれを待った。


「ぼ、ぼ、ぼくは。その、ティムズと……」

「キスを、した」


「え」


「彼が本当に好きなのはきみだと判っていながら。その、だから……すまないと思っている。だから……ええと、ごめん」


「あ、うん。そう。そうなの……」


 唐突な告白に目が点になったミリィから顔を背けて俯くアルハが、言い訳の様に言葉を紡ぐ。髪色とは真逆の真っ赤なかおで。


 結局なんだかんだで謝ってしまったアルハをひっぱたける訳もなく、ミリィはそれ以上の詳しいことは聞けずじまいだった。


 アルハは致命的なミスを犯した。


 肝心の、いつ、どこで、どうやって、どういう状況で、という基本的な要素を全て伝え損ねたのだ。


 ―――――――――――――――――


「だからよ。俺は常々言ってる訳よ。情報ってのはディティールの集合体だ。重要な情報は、重要であればあるほど、徹底的に細かく伝える努力を怠ると台無しになる。それが例えどんなにくだらねえ話であってもだ」


 アダーカの操舵術式の復旧に見通しが付き、大分余裕の出て来たタファールが、アダーカのクルー達に持論をぶちまけている。


「まーた始まったよ……」ネフト。

「……ぼそ(その話は聞き飽きたっての、ハゲ)」ナココ。


「だからハゲは止めろっつってんだろこの毒舌根暗ブス!!よりにもよってそこだけイジるな!!」


 その騒ぎを、ブリッジ後方で珈琲を嗜みながら見物しているレッタとピアスン。

「……タファールをキレさせるなんて大したもんですねあの娘」


「船長が船長だからな。影響されたんだろう。彼女も相当な……キレ者だから」


「聞こえてるし、誤魔化そうとしてんのがバレバレなんだよガリ痩せヒゲ親父!」


「な?」

「なっとくしました」


 一番遠くにいたリタエラがピアスンに噛み付き、レッタはなっとくした。


「……あ、ミリィ。おかえり」

 その脇を、監視から帰って来たミリィが、無言で、つかつかと通り過ぎていった。


「……?」

 その緊張感を感じ取り、不思議に思ったレッタとピアスンは顔を見合わせて。


 同じことを同時に思ったのだった。


 ――なんか、キレてない?


 ―――――――――――――――


 ミリィはブリッジの中を行ったり来たりして、何かを調べるようなフリをしているが、その胸中は穏やかでない。


 冷静に。冷静になろうと努める。

 今こそパシズの教えに従う時だ。冷静沈着に考えるのだ。

 目を瞑り、パシズのトレーニング中の様子を思い浮かべる。

 パシズの腹筋が一回。パシズの腹筋が二回。パシズの腹筋が三回……。


 落ち着いた。


 ――事実を整理しよう。


 あの男、アルハにも手を出してた。


 ――以上。

 

 また腹が立ってきた。


 これまでも色々とあったが。今回の怒りはF/III++級だ。しかし、アルハの事を考えると、それも仕方ないという気持ちも湧いてくる。 


 ――アルハなら当然な気もする。だって私なんかよりよっぽど女の子らしくて、可愛いもん。それに、アルハの方が、私よりもずっとあいつの事を好きななんだから……。


 でも、だからこそ。


 ――そのアルハを裏切って、あんな事する!?信じらんない!!


 男って皆そうなの?所詮—―

「な、なんだよミリィ……何睨んでんだ」

 ――このバカキノコと同類か。


 またむかむかしてきた。


 

 しかし、今はまた状況が変わった。術弓の為に使ってしまった禁術の副作用に、今後アルハはずっと苦しむことになるかもしれない。もしそうだとするなら、ティムズには彼女の支えになってあげてほしいとも思える。


 アルハは最後に、この件はティムズには教えないでほしいと言っていた。余計な心配を掛けたくないから、と。

 教えたら、単純なあいつの事だから、本当に心配するだろう。そしたら私の事なんて気にしなくなるんじゃないかな。ほんと単純だから、あいつは。


 ――でも、それを想うと、胸が苦しい。

 ――いいや、関係ない!それで良いんだ。それが一番丸く収まるの!

 

 ミリィは何時の間にかブリッジの真ん中で立ち尽くし、ぶつぶつ言っていた。


「…………」

 オーケスト・ロアの咆哮の後遺症か何かだと思った面々はちょっと警戒しつつ、その様子を伺っていた。



 そして、そんな微妙な雰囲気を打ち崩す様な。 


 ――ズシーン………。


 という地鳴りと震動に、その場の全員が飛び上がる。

 

「新手の龍か……?」帽子を直し直し、ピアスンが立ち上がると、パチンという伝信術符が開く音。そしてパシズの、落ち着き払った声が聴こえてきた。 

 

『皆、ちょっと厄介な事態になった。危険だと断定する事はまだ出来ないが……』 


『例の等級不明の龍が、大喧嘩を始めた。この調子で暴れ続けたらこの台山は崩れ落ちるぞ。脱出の用意をした方が良さそうだ』

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