第七節19項「望みの彼方 前編」

 現在のアラウスベリアにおいては、いわゆる『霊』そのものを信じているものは少ない。人がこれまで『霊』と認識してきた現象は、昨今、急速に発展を続けている法術理論によってその殆どを解明されていると考えられていた。


 人の思念の残滓が、ある種の術式に変換されて留まり、その記憶や影を再構築したもの。その霊葉ことば読見聞よみききする事で、人は本来、現世に実存しない物を知覚してしまう……それが、人々が呼ぶ『幽霊』や『魂』の本質であるという認知は、この数十年の間に進んでおり、アトリア教への信仰の揺らぎと、衰退の一因でもあった。



 という事もあり、今夜、北部基地の主体である古城で勃発した『心霊現象』もその範疇であり、あくまでも理屈と理論に基づくもの……のはずだった。


 城内のあちらこちらで『人影を見た』とか『声が聞こえた』という報告が一斉に上がり、騒ぎになり始めたのが、およそ一時間程前。


 ティムズが大浴場で感じた違和感と悪寒について、アルハに相談するべく、その姿を探すと、彼女は、応接室でサリッサ以下四名の女性を捕らえてぐるぐる巻きにした前で、仁王立ちでぷんすか怒っていた。

 どうやらサリッサ達『も』何かを企み、アルハの実力行使で阻止されたらしい。


「何してんのきみたち……」ティムズが本気で呆れた所で、古城の一部区画で迷宮化メイズドナイズが発生したという報を持ったオルテッドが、応接室に駆け込んできた。


「ティムズ!緊急事態だっ!……って、サリッサ……お前……も?」


 局所的な迷宮化メイズドナイズの一部、と思われた一連の現象は、然して次第に影響範囲と深度を増していき、遂に、本来の『迷宮』としても現出したのである。


 ―――――――――――――――



 うつ伏せのままベッドで眠っていたミリィは、何者かが扉を軽く叩く音で目覚めた。


 びくっ、と跳ね起き、また例の音かと恐る恐る様子を伺っていると。

『ミリィ?俺だけど。様子を見に来た』

 良く知っている、声がした。


 まだ熱っぽくぼうっとしていたミリィの顔が少し明るくなり。

 そして、上衣うわいを脱ぎかけていた事に気付き、いそいそと直す。

「ちょ、ちょっと待って……。どうしたの?急に」


『大分怖がってたからさ。一人じゃ不安だろうと思って』

 その声は優しく。今、一番聞きたい声だった。


「……うん」

 嬉しかった。心細かった。傍に来てくれた。嬉しい。

 独りではこの夜を耐え抜けそうになかった。本当は一緒に居たかった。


「ごめん、もう大丈夫。入っていいよ」

 少しどぎまぎしながら、入室を促す。

 どれくらい眠っていたかは判らないが、もう深夜だろう。

 眠りに落ちた時よりもずっと寒かった。

 そんな夜に、部屋で二人きり?


 しかし、それから応答はなかった。

「……ティムズ?」

 不思議に思ったミリィは、扉に歩み寄り、開く。


「……え?」


 誰も居なかった。

 暗く冷たい廊下には、光という光を飲み尽くした闇が広がっていた。


「っ……!」

 扉を勢いよく閉め、今起きた事が頭の中に巡る。 


 幻聴や幻覚ではないという確信はあった。

 あの廊下の闇は、迷宮化メイズドナイズの影響下にある事を示していた。


 しかし、それだけではない。聞こえた声は凶兆の訪れだった。

 囚われた未知の現象に、再び身体が震え出す。

 

 それに呼応するように、部屋を僅かに満たしていた術灯が点滅を始めた。

 やがて消え、部屋は真っ暗になった。


 ボッ、と炎が燃え上がる音がして、部屋に再び影が現れ、揺らめいた。

 パチパチと、薪が爆ぜる小さな音と、すすり泣く声がした。

 

 振り返る。

 灯りが消える前には無かったはずの、暗闇に浮かぶ暖炉を前にして、年端も行かない小さな身体を震わせ、必死に嗚咽をこらえる、少女の姿があった。


『ごめんなさい、おかあさま。ごめんなさい。ごめんなさい』

『痛いのはもういや。もう叩かないで』

『おなかがすいたの。ごはんを食べさせて』

『わたしのともだちを、本を、燃やさないで』

『わたし、ちゃんと、おかあさまの、むすめになりますから』



 ――――――――――――――――――



「どうなってるんだ、スロアバート。これも不具合なのか?実害は無いと言っていただろう」

「そのはずなのだが、私にもよく判らない。これ程に活性化するのは初めての事なんだ。今、原因を調べさせているが、何にせよ夜間にのみ機能するもの。朝になれば解除され、治まると思う」

「何を悠長なことを言っている。それでも責任者か」


 唐突に始まってしまった騒ぎに頭を抱えるキブが、スロアバートに詰め寄る。


 事態発生を知った一部の高官たちが再び大食堂に集まり、各所から上がる報告を受けつつ、状況の推移を監視していたが、原因や解決の糸口を何一つ見つけられないまま、時刻は深夜に及んでいた。


 幸い、人的被害が出たという話はまだない。しかし制御不能の迷宮化メイズドナイズが今後どの様な変化を起こすかを予測出来ない以上、対応できる態勢を整えておく必要はある。


「初めての事であるなら、楽観は禁物だろう。現に領域は今も広がっている。何でもいい、この城の迷宮化メイズドナイズについて知っている事を話せ」

「且つての城主が自ら施したもの、という事しか判っていない。それも、基地化した時にはほぼ全ての術式が朽ち、機能するものではなかった。それから現在に至るまで一度も発現したこともない……」


 記憶を手繰り寄せるスロアバートに、キブが頭を掻きむしって、思わず苦笑した。

「まさかその城主の霊とやら本当に居て、悪さをしているとでも?」

「それならそれで、犯人そいつを排除するだけで解決するのだがな」


 とにかく、今は巻き込まれて所在が不明になっている者の捜索、救出が最優先。


 迷宮化メイズドナイズの発生した区画の確認と、それを構築する術式の解析、そして解除を目指して、古城の各地には法術の心得を持つ者たちが散り、更にエスカレートした怪奇現象と戦いながら奮戦している。


 長い夜は、まだまだ始まったばかりだ。



 ――――――――――――――――――――



 複雑化した廊下は入り組み、長く、曲がり、どこまでも壁が続き。扉や窓を始めとした、空間を出入りするはずの物は、その全てを遮断されている。


 光爆術符で迷宮化を構築する術式を吹き飛ばしてしまうのが一番手っ取り早いのだが、術式は建物そのものが内包するものでもあるので、そんな事をしたら城が丸ごと崩れ去るという可能性もあり、流石にそれは最期の手段である。この時点ではまだ所在が判っていない者も居るし。



「ティムズ。きみもさっきから様子がおかしいぞ。一旦離脱して休んだ方がいい」

「…………」


 アルハが、なんとか突破口を見出そうと、長く引き伸ばされた廊下を駆けるティムズの背中に声を掛けるが、ティムズは応えない。


 ミリィが居るはずの部屋も巻き込まれている事も知ったティムズは、自らの不調も顧みず、何度も区画への侵入を試みていたが、それは叶わずにいた。


 ティムズにはアルハの言葉の音は聞こえていても、声の意味は届いていなかった。


 不安と焦燥が募り、とにかく走り続けなければいけないという強迫観念に囚われている。それは走れば走るほど、時間が経てば経つほど、迷宮の奥に近付けば近づくほど、更に強まっている。


「ティムズ……わっ!」

 突然立ち止まったティムズの背中にぶつかるアルハ。

「本当に、どうし、たんだっ……」


「……じいさん……?何であんたが……」


 息を切らして肩を落とすアルハの存在を忘れたように、呆然と呟くティムズ。その視線の先の、廊下の奥に、その闇よりもずっと黒い、影が蠢いていた。


「……!ティムズ、見るなッ!!見てはいけない!」


 ティムズの視線の先にあるものを見てしまったアルハの表情も青褪め、ティムズの肩に手を掛けてぐいと引っ張り、叫ぶ。

 だが、絶対に在り得ない人物の姿に意識を奪われたティムズは、留めようとするアルハを振り切って、暗影に誘われるように、ふらふらと一歩を踏み出した。


「……っ!」

 アルハは、ティムズの頭に素早く手を伸ばして思いっきり引き下ろすと、躊躇なく唇を重ねた。


「……。ん……?んぐっ……!?」

 ティムズの目に光が戻り、見開かれる。そして状況を理解し。

 突然の行動に、慌ててアルハを押し剥がす。


 目撃した物もだが、たった今された事の方が余程の衝撃だった。

 ”あの夜”に比べて余りにも強引である。

「い、今のは一体……?」


「す、すまない……何か、強いショックで相殺しようと思って……」

 口元に手をやり、頬を染めたアルハが、それを弁解する。


「ああ……ええと、ありがとう」

 ティムズは応えながらも、その目を廊下の奥で漂う黒影に向ける。

 影は、墨を薄めるように、空間に滲み、溶け消えていった。


 アルハもその様子を認めると、鋭く辺りに目を走らせる。


「……ともかく、一旦、領域ここから離れよう。この迷宮化メイズドナイズの正体が判ったかもしれない」


 

 ―――――――――――――――


「……………」


 ミリィは、抱えた膝に頭を埋めて座っていた。

 闇の中に浮かぶ、故郷の邸宅の一室で、うずくまって震える幼女を救う術はなかった。


 目の前で服を暴かれ、素肌に木杖を打ち付けられ、泣き叫ぶ幼女を助けようと身を乗り出す度に、その光景は遠のき、手が届く事はなかった。


 初めて出逢った龍の死。

 過酷な訓練の日々。

 密猟者たちの横暴。

 エヴィタ=ステッチの犠牲になった仲間たち。

 

 エクリヴーズに撃墜された、嵐の夜。

 ラテルホーンに胸を刺され、斃れた緑象龍の最期の姿。

 狂暴化し、殺戮の限りを尽くしたリビスメット。

 アドルタ=エヴィトが曝け出した悍ましい本能。

 仲間を奪ったリャスナの嘲るような笑顔。

 

 不俱戴天の仇龍あだりゅう、ロロ・アロロ。

 そして、傷ついて横たわる青飛龍。


 様々な心象風景の追体験を繰り返す、たび。

 少女は打ちのめされ、泣き崩れる。



 それでも、ミリィはじっと耐え続けた。

 それを全て乗り越えてきたから、今の自分が居る。

 

 ――そう信じてきた。だからもう、思い出させないで。

 

 ―――――――――――――――――――



「――これも迷宮現化メイズドナイズの延長にあるものだ。空間だけじゃなく、人の脳にも影響を与えて、認知能力を歪めるように書き変えられたもの。活性化した事で精神干渉系の術式が開いたんだと思う」

「つまり、俺達がさっき見たのは」

「ぼくたちが、最も見たくないと願うものだ」


 お互い、何を目にしたのかは語らなかった。

 

 ティムズ達は、キブとスロアバートが現状への対応を指揮する食堂へと向かっていた。現象の詳細を皆に伝えれば、事態を解決する手が導き出せるはずだ。


 それも、出来るだけ早く。


 現時点では視覚や聴覚だけで済んでいるが、進行すれば五感をどんどん浸食していくだろう。ミリィが何を観るとしても、それは阻止しなければならない。


「ミリィは今、たった一人で戦ってる。急ごう」

「ああ」


 ――――――――――――――――――



「――成る程、それなら合点が行く。ここを造った者は、本当に趣味が悪いな……」


 二人が食堂に飛び込むなり、一気呵成に伝えた内容を受けたキブが、また頭を抱える。


 且つての城主である奴隷商が施した迷宮化メイズドナイズ亜種、”精神干渉型”の本来の用途は、侵入する者の同士討ちや精神破壊による行動不能を狙うものだ。

 ところが、奴隷商は、猟奇的な趣味嗜好を存分に発揮し、城に棲む者全てを狂わせる為にこれを用いた。人の最悪の記憶を暴き、歪め、奥底に眠る本性を曝け出す。

 

 その狂宴の果てに起きた結末は、口にするのも憚られるものばかり。

 

 今夜、北部基地を襲っている現象の数々は、ある意味では、且つての住人たちの怨念が、時を経て復活したものだとも言えた。


 但し、その効力はまだ完全に発揮されずに、最低限のまま留まっていた。古く劣化した術式であり、破壊こそ無理ではあるものの、その正体を把握さえすれば、術士達による書き変え、もしくは無効化は可能だろう。



 キブとスロアバートが下した判断は、影響下にある区画から全員を退避させ、外側から迷宮化メイズドナイズの術式の解除と解体に集中すること。


 そして、ただ一人、進行する迷宮化メイズドナイズの渦中に取り残されているミリィの救出は、禁じられた。


「なっ……!?」

 呆気に取られてキブの顔を凝視したティムズの眼問まどいに、すぐに答えが返って来る。


「いつまた変化を起こすか判らないし、その性質上、多人数で留まる方が危険だ。それに、ミリィくんは立派な戦士……龍礁監視隊員レンジャー。私達よりもずっと強く、逞しい。解除までの間、きっと耐えきってみせるだろう」


 ティムズは歯噛みする。


 ――違う。それだけじゃないんだ。確かにミリィは強い。密猟者や龍と渡り合う姿を知る者は、そう信じている。でも、ミリィは、今夜みたいに、怯えて震えたりもする、普通の女の子なんだ。ただ少し、人よりも、龍の事が好きなだけの……。



 ―――――――――――――――――――



 自らの記憶の奔流が紡ぐ歌劇は、遂に終わった。

 ミリィはたった一人の観客として耐え抜いた。

 主役だった且つての自分が、幕の様に降りてきた闇に覆われ。

 再び、今の自分だけが、黒闇の中に取り残される。


「だから言ったでしょ。私はもう、そんなに弱くはない」

「だって、今は、もう一人じゃないもの――」


 ぼんやりと笑うミリィ。

 すると、光が戻る。の様子。

 異変は全て消え去ったようだった。



  そして、再び扉を叩く音と、彼の声がした。

『ミリィ!大丈夫か!?』


 ――ほら、やっぱり来てくれた。今までもずっとそうだったもんね。


  ミリィはよろめきながら立ち上がり、扉を開く。

『遅くなって悪い。色々とあって……。っ!』


  今度こそ、その場に立っていた彼に、思わず抱き着いた。

  アドルタ=エヴィトを仕留めた時の様に、身体を預けて。

  沸き上がる気持ちそのままに、胸に頬を埋めて。

  必死に走ってきてくれたのだろうか、彼の胸に収まる心臓の鼓動は激しく。

  それに呼応するように、自らの奥底に秘められていた律動も高まっていく。

 

『………』

  彼は、無言でそっと頭を撫でてくれた。

  張り詰めていた緊張の糸の最期の一本が、弾けた。

  一気に溢れ出した想いと共に、身体から力が抜けた。

  足元がふらつき、崩れ落ちそうになったのを、支えてくれた。

 

 ――ごめん。まだ少し頭がくらくらして……凄く怖い事があったの。話を聞いてくれる?

『そうしたいけど、だいぶ具合が悪そうだ。とりあえず休んだほうが良い』

 ――うん、そうだね……。


 おぼつかない足取りを支えられながら辿り着いたベッドの傍らで、足がもつれた。

 彼にしがみついたまま、勢い余って、二人で倒れ込んでしまう。


 彼は大慌てで身を起こし、『わ、悪い……』と赤面する。いつも通りで、判り易い反応にミリィは笑ってしまった。しかし、それもまた彼らしさの現れ。


 ――ごめん。わざとじゃないの。でもそんなに照れなくても良いじゃない。少しは堂々としてほしいな。そしたら、私も……。


 ミリィはベッドに横たわったまま、彼を見上げて、微笑んでみせた。

 

 彼は何かを耐えるように辛そうな表情を浮かべ、やがて深呼吸のあと、ミリィの傍に身体を寄せる。

 二人分の体重が、少しベッドを軋ませ。そして彼は『あのとき』みたいに、優しい低い声と、僅かな決意を込めた微笑みで、囁いた。


『……もう一つ、きみとの思い出を増やしたい。今夜、ここで』


 少しだけ、ためらって。

 ミリィは小さく頷いた。



 ――――――――――――




 深度を増し、激化しつつあった心の迷宮を破る為に、壁の一部から一杯に開いた術式を書き変える術士達。


 その中に交じるオルテッドが、術式の変容を知り、困惑する。

「……?妙だな、式が全部反転してる……」



 精神干渉型の迷宮化メイズドナイズは、次の段階に進んでいた。

 それは、『最も見たくないもの』だけではなく、『最も望んでいるもの』が、心を壊しに来るものだという事を、誰も知る由は無かった。


 人の心を蝕むのは、最悪の過去だけではない。

 最良の思い出と、未来を穢される事が、本物の絶望に変わりうるのだ。

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