名もなき風の行く末

椎名めぐみ

名もなき風の行く末


どうも私は、新海誠や住野よるや麻枝准が描いている愛と情緒の世界と、三秋縋や入間人間や西村悠が描いている不健康で形而上的な表現とには、根本的な違いがあると感じられる。今やこれらすべてが「新海誠っぽい」という呼称のもと統合されてしまっているなか、私はこの二派に明確に断絶線を引きたい。




かつて堀辰雄という作家がいた。『風立ちぬ』の原作(?)を書いた、サナトリウムで余命幾ばくの美少女とあれこれするというようないかにもまさしく「新海誠っぽい」という言葉が的確な感傷的な作家だ。ここまで「新海誠っぽい」作家が100年も前から居たということへの驚きはとりあえずさておき、この作家に対して三島由紀夫が書いたとても興味深い批判がある。厳密には、三島由紀夫が師である川端康成に向けて出した手紙というのがあり、そこで三島は川端康成をベタ褒めするために堀辰雄を比較対象として出しているのだ。そこには現代の新海誠と三秋縋の根源的な違いにも繋がる、面白い示唆がある。三島はこのように書いている。


『単なる詩と感覚なら堀辰雄氏にもそれがあります。しかし貴下を、堀辰雄氏より遥かに高いところに我々が仰いでおります所以のものは、肉体と感覚と精神と本能と、すべて霊的なるもの肉体的なるものとが、青空とそこを染める雲のように、微妙な黙契を見せているからです。その触媒としては日本人のあのささやくような「悲しみ」の秘密がありましょう。しかしそれにしても単なる「身についた詩」「身についた感覚」などという言葉では言い現わせない、「身」の悲しみ「身」の美しさ、その中に宿る神の肉体に触れえた人の、類ない文学だと信じております。』


現代となってはちょっとこそばゆいようなこの大げさな文章だが、堀辰雄への辛口はともかくそこで明確に川端康成との違いを指摘した点に関しては大変に価値のある文章になっている。これはそのまま新海誠と三秋縋の違いに適応出来ると見える。確かに新海誠には新海誠的としか言えない情緒、「身についた感傷」がある。新海誠には、神社もスナックも新宿御苑もファミリーマートも大成建設も、全てまとめて独自の風情のうちに叩きこむ作家性がある。比べて三秋縋を読んでいるときには、それほど強烈な統合は感じない。むしろ作家性などなく、そこら辺で執り行われているどうでもいい物語だという感じがするが、その単調さの底流には、何か未だ把握されていない『黙契』があるように感じられるのだ。そういうふうによくよく考えると、入間人間や西村悠にも、それそのものとしか言いようがないというような作家性はない。だが何か『黙契』と言いたくなるような、生きて居ることそのものへの不信感のようなものの漂いを感じることができる。そして反対に住野よるや麻枝准には、身についた独自の作家性が明らかにある。だがここに『黙契』はない。


今一緒くたにされてしまっている「新海誠っぽい」というまとまりへと断絶を与える、重要な差異がここにある。




私は堀辰雄よりも川端康成が好きだ。RADWIMPSがジャンジャカ音楽をかき鳴らしている間にも、私はどうしてもその『黙契』の作家達の美しさを思い出し気が散る。なにか根本的に忘れているんじゃないか、もっと肝心なものがあったはずじゃないかと不満になる。この世の何処かで、『黙契』の作家達が何かを書き続けているはずなのだ。だがその主張のない悲しみは、正体や実態を捉えることが非常に難しい。重要な作家はいる。例えば感傷マゾの同人誌を編んでいるwak氏などは、感傷的な作品そのものではなくそこから取り残されたまま下らない人生を歩んでいると感じる読者のマゾヒズムの方に重点を置いているという点で重要だし、ネットで小説を載せているレミィ氏などは『黙契』に対する抽象さと高い純度を誇っているという点で貴重だし、現在は書かれていないので名前を挙げて申し訳ないがセれンてぃア氏の小説は『黙契』とある種の前向きさを両立しているという点で特異な表現だった。だがこの方々は、各々が全くの孤軍奮闘でしかないという無念さがある。なにより問題なのは、おそらく『黙契』の看板作家だと言っていい三秋縋、入間人間、西村悠の三名が、揃って職業作家としての専門性のうちに安住しようとしている点だ。『黙契』だなんだと言ったって、三秋縋はあくまで恋愛小説家で、入間人間はあくまでライトノベル作家で、西村悠はあくまで乙女ゲームライターだ、ということで、それで話が終わってしまう。この専門性への才能のズラしに、なにか詐欺じみたものを感じる。岡本太郎がゴッホの芸術に対して、「絵ではない何ものかに成って欲しかった」と書いているのに近い。『黙契』の才能にはどうにか、単にジャンルに落とし込まれた娯楽としてではなく、なにかもっと甚大なモノに成り果てて欲しいのだ。


『黙契』の作家の源流であると言っていいフランツ・カフカは死の間際に、未発表である自身の作品を全て破棄するように友人に言ってあった。カフカを読めるのはその友人の裏切りによってだ。『黙契』の表現には、そのような書かれていることそのものが失敗であるというような困った性質がある。では、初めから何も書かれない方が良かったのだろうか? もちろんそんなワケはない。『黙契』の才能には、生半可な落とし所にとどまらず、なんとかこのジレンマと戦って欲しいのだ。全く新しい表現の未来がまさにここにある。『黙契』の表現を如何にして現代に蘇生させるか。困難で、おそらくは満足のあり得ない問題がここにある。




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