2巻 第23話 海鮮おでん
その日は、嘉穂も貴美も居酒屋『竜の泉』に来ていなかった。
そういう日も珍しくはない。そして、今日は二人とも来ない気がする。そんな予感に従って、美月はメニューを見つつ一人で飲むプランを考え始めた。
少し肌寒くなり始めたこの時期、ビールやハイボールというのも何か違う。となると、最近呑む機会が増えた日本酒だろうか。
そして、日本酒に合わせる肴、となると、定番は刺身や珍味だが──、
ふと、目に付いたメニューに美月は相好を崩した。
海鮮おでん。
詳細はよくわからないが、もうその響きだけで美味しそうな気がする。
おでんで海鮮といえば、タコやツブ貝だろうか。それ以外には何が入るのだろう。わざわざ海鮮と名前に付いているからには、他にもいろいろ入っているのではないだろうか。
「すみません、いつもの〆張鶴と、海鮮おでんをください」
その声を聞いてか、たまたまタイミングがかち合ってしまったのか、となりの席で静かに梅酒を飲んでいたお婆さんが大きなため息をついた。
──どうしよう。
あまりにも大きなため息に、無視をするのもさすがに悪いかな、と思い、
「あのぅ、何かあったんですか? あたしでよければお話、聞きますけど」
そう声をかけた。
「ああ、ごめんなさいね。となりでこんな辛気くさいため息をつかれたら、楽しく飲めないわよねえ」
「いえいえ、気にしないでください。あたしだって、落ち込んで飲みに来ることもたくさんありますから。その度に飲み仲間には愚痴を聞いてもらっちゃってぇ」
考えてみれば、ただここで出会って意気投合しただけの嘉穂と貴美には、失恋したり変な男に関わってしまう度に愚痴や泣き言を聞いてもらっている。
改めて自分の行動を振り返ってみると、二人の優しさに甘えまくっているなあ、と反省することしきりである。
「実はね、私、駅向こうでおでん屋をやっていたのよ。おでんメインの居酒屋ね」
静かに、お婆さんは言った。
「自分で言うのもなんですけどね、結構繁盛していたんですよ。小さい店でしたけど、贔屓にしてくれる常連さんも多くてね」
おでん屋さんなんてこの辺にあったのか、というのが美月の本音だった。駅の周辺なら美月もそれなりに知っているはずなのだが、まるで心当たりがない。もしかしたら、嘉穂なら知っているのかもしれないが、彼女がいない今日は確認のしようもない。
「ごめんなさい、そのお店は知らないわ」
「それはそうよ。常連さんはもちろん、他のお客さんもみんな年配の方だったもの。若くても三〇代くらいで、貴女みたいな若い人が来るようなお店じゃなかったわ」
お婆さんが浮かべた静かな笑みは、自負と自嘲が入り混じったような、複雑な表情だった。
「まあ、若い人が入りたくなるようなオシャレなお店じゃなかったわねぇ。古くさくて、それこそ中に入ったら昭和が残っているような、おでんとお酒しかないお店よ」
「やっていた、って過去形ですよね。もうやめちゃったんですか?」
ええ、とお婆さんはうなずいた。
「ああ、でも、お店はまだあるんですよ。息子に跡を継いでもらって、私は引退したんですよ」
「あ、なるほど」
そんなところに、海鮮おでんが運ばれてきた。
まず目を引くのは、赤が鮮やかな大振りな海老だった。まるでお正月気分の、立派なおせち料理に入っているような、殻も頭も付いたままの海老である。
そのとなりには、肉厚なハマグリ。そしておでんの王道、大根。他には海老しんじょのような練り物と、青と緑の中間のような色合いのワカメがひとかたまり。
おでんといえば美月が想像するのは油味の茶色いつゆだが、このおでんのつゆは少し白っぽい程度で、澄んだ色合いをしていた。
「すごぉい! あたしが知ってるおでんと違ーう!」
美月はつい、大きな声を出してはしゃいでしまった。
「あ、ごめんなさい、お話の途中だったのに」
「いいのよ、だってここはお料理を食べてお酒を飲むところだもの。確かに美味しそうな創作おでんよね。やっぱり、若い人には古くさい昔ながらのおでんなんて魅力がないのかしらねえ……」
お婆さんはまた、ため息をついた。
「そんなことはないと思いますけど……。時期になればどこのコンビニでも売られるくらいにはみんな大好きだと思います」
言いながら、海鮮おでんの大根を箸で切り、四分の一ほどを口に入れた。
熱々で、柔らかく、魚介の出汁と塩味が中心部までしっかり染みたその味は、紛れもなくおでんのそれだった。一風変わっているようで、おでんの基本はしっかりと守っている。そんな印象のおでんである。
「でもねえ、跡を継がせた途端に、息子は『もっと若い人に来てもらえる店にしなきゃ未来はない』って言って内装から何から全部変えちゃったのよ」
「あー、そういう……」
自分が守ってきた店に手を加えられるというのは、引退したとはいえ複雑な心境なのだろう。あるいは、自分の人生の否定、という解釈さえできてしまうかもしれない。
「息子の言うこともね、わかるのよ。でもねえ、おでん屋って、カウンターのおでん鍋を眺めながら飲むのが昔ながらのスタイルでしょう? なのに、おでん鍋まで取っ払っちゃって、なんだかずっと贔屓にしてくれた常連さんたちにも申し訳なくて」
美月は少し考えて、海鮮おでんの皿をお婆さんの方へと押しやった。
「お一つ、食べてみませんか。いつもと違うおでんも、自分の舌で味わってみないとわからないじゃないですか」
「あら、いいの?」
「ええ、まあ、一口くらいでしたら」
「ごめんなさいね。あとで私もお刺身でも頼むから、一緒につまんでちょうだいね」
「あ、お気遣いなく」
「……上品で、美味しいわねえ」
大根を少しつまんで、お婆さんはしみじみと言った。
「やっぱり、老人の感傷なのかしらね……」
そういう面は確かにあるのだろう。
申し訳ないと思いつつも、それが美月の偽らざる本心だった。
店を継ぐ、という時点で、とても親孝行なのではないか、と思うのだ。その上で、時代に合わせて店がより繁盛するように工夫したり努力したりするのは、商売人としては至極当たり前の話だ。もちろん、それが上手くいくかどうかは別の話としても。
このお婆さんも、それを自覚し不満を感じながらも、口を出さずに跡継ぎに任せているのだから、かなり分別がある方だとは思う。
「少し、様子を見てみたらどうですか。いろいろ工夫するのはいいことですし、結果が出るまでには時間がかかると思いますし」
「そうね。この海鮮おでんだって、私に言わせれば邪道だけど、食べてみたら美味しかったものね。あの子のやってることだって、食わず嫌いしちゃだめよねえ」
そうですよ、と答えながら、美月は海老の殻を剥き始めた。
きっと、この立派な海老を半分でも食べてもらえば、少しはお婆さんの気持ちも晴れるだろう、と信じて。
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