2巻 第12話 試飲会
その日、珍しく三人は外で待ち合わせをしていた。
嘉穂、貴美、美月の三人が示し合わせて会うことは稀である。たいていはふらりといつもの居酒屋に行き、たまたまいたから一緒に飲む、という仲だ。一度女子会のようなものをやったこともあったが、あのときが唯一の例外のようなものだった。
しかも、まだ日も高い時間帯である。
いや、より正確な言い方をするなら、三人で、ではない。
三人が揃っているところにやって来たのは、姫宮やよいだった。一度、三人がいつものように飲んでいるところで遭遇した、嘉穂の同業者である。
「あら、みなさん、お早いのね」
すでに集合していた三人を見て、時計を確認しつつ、やよいは呟いた。
「一〇分前に全員が揃っているなんて、もはや感動すら覚えるわ」
「それが普通なのでは」
怪訝な顔をした貴美に、嘉穂が苦笑を漏らした。
「私たちの業界だと、待ち合わせるとたいていは遅刻する人が出るのよ。誰かしら〆切直前で徹夜してたとか、予定のために帳尻を合わせて無茶をして生活のリズムがずれちゃったりとか、そういう人がいるから」
「大変なお仕事ねぇ」
しみじみと、美月が言った。
「姫宮先生、今日は誘って頂いてありがとう」
嘉穂がそう言って会釈をすると、やよいは「別に」とそっぽを向いた。
「塩辛程度でもライバルに奢ってもらいっぱなしなのは性に合わないだけよ。それと、先生はやめてくださる? せっかくの試飲会で堅苦しいのもなんですし、私も片菊さんと呼ばせて頂きますから」
「そうね。つい無難かなってよく知らない同業の人には先生を付けちゃうけど、正直、私も堅苦しくてあんまり好きじゃないのよね。こうして一緒に出かける仲にはなったわけだし、そう言ってもらえると助かるわ、姫宮さん」
嘉穂の言葉に、やよいは一瞬言葉に詰まり、つんとそっぽを向くように視線を逸らした。
「べ、別に、感謝されるほどのことでもありませんわよ。一緒に行くはずだった人たちに急用ができてチケットが余ってしまっただけ」
果たして三人も一度に急用ができる偶然などあるのだろうか、と嘉穂は内心首を傾げたが、大きな日本酒の試飲イベントに飲み仲間二人もご一緒にいかが? などと誘われたら断る理由などありはしない。
「でも、みなさんがきちんと時間を守ってくれる人たちで助かりましたわ。今回、東北エリアは十四代が出品されているから、激戦区になりそうなの。早く並べるに越したことはないでしょう?」
十四代は言わずと知れた、山形の超有名な日本酒の銘である。その美味しさには定評があり、ネットで探してもだいたいプレミア価格ばかりという大人気の酒だ。
「本当に? それは楽しみね」
「十四代、美味しいですよね! 私、大好きです!」
「貴美さんみたいに好きな人が多いから、きっとみんな飲みたがるのよねぇ」
「それじゃ、移動しましょう。まだ開場前だけれど、もう並んでいる人もたくさんいましてよ、きっと」
体育館のような広い会場に無数の長机が並べられ、その上には日本酒がずらりと並んでいる。
北海道、東北、関東、北陸、東海、近畿、中国、四国、九州にそれぞれ区分され、各地域ごとに行列を作って飲みたい酒を試していくシステムである。
「これ、どう使うんですか?」
受付で受け取ったお猪口とスポイトを手に、貴美が首を傾げた。
「そのスポイトでお猪口にお酒を取って飲むのよね、確か」
「ええ。片菊さんもこういうイベントには何度か来ていらっしゃる?」
「いいえ、知ってはいるけど、来るのは初めてよ。なかなか機会がなくて。姫宮さんはずいぶん慣れているわね」
「ええ、まあ……」
「それにしても、すごいわねえ。こんなにたくさんの日本酒が世の中にはあるのねえ」
会場内を見回して、美月が感嘆のため息を漏らした。
「はい、同感です。これで全部じゃないんですよね、日本の酒造って」
貴美もうなずいた。
今日、会場に陳列されているだけでも、全部一口ずつでさえ、回りきることはできないだろう。おそらく、一生かけても、日本酒だけに絞ったとしても、すべての酒を味わうのは無理に違いない。
やよいの事前リサーチにより、真っ先に東北エリアに並んだのは大正解で、嘉穂たちが並んだときにはかなりの列ができていたが、その後ろには瞬く間に前の人数の倍を超える数の人間が列を伸ばしていった。明らかに他のエリアより列が倍以上長くなっている。
並ぶこと一〇分ほどで、嘉穂たちも日本酒が並ぶ机の目の前にまでやってきた。各銘柄の瓶がラベルを誇るように並び、その前には湯飲みサイズの白い器が置いてある。
やよいと嘉穂が、そこに注がれている酒をスポイトで自分のお猪口に取り、飲んで見せた。それに倣って、美月と貴美もこれの銘柄は何、こっちは何、と確認しながらスポイトで日本酒をお猪口に移し、味わっていく。
「十四代は特に美味しかったけど、山形のお酒はどれも美味しいわねぇ」
美月の言葉に、嘉穂もうなずいた。
「最近では南の方でも盛んに日本酒が造られていて、意欲的で良い酒造さんが増えたけど、やっぱり昔から酒どころとされる北の底力はすごいわよね」
「平均点が高い、というのはあると思いますわ」
やよいが言う。
「新興の地域にも素晴らしいところはあるけれど、やはりそういう酒造は周囲より飛び抜けているという印象が強い気がしますわ」
「確かに。……あ」
うなずきながらとなりの日本酒を飲んで、嘉穂は思わず感嘆の声を漏らした。さらに次の日本酒の味を見て確信する。
「ここから明確に味の方向性が変わったわ。なんていうか、味に力強さが出てきたみたい」
「銘をご覧なさいな。ここから福島県でしょう」
「え、県が変わると味も変わったりするものなんですか?」
「もちろん。酒造の環境が風土に影響されるのは当然ありますし、好まれる味覚にも県民性のようなものがあるでしょう?」
やよいの説明に、三人が納得した顔でうなずいた。
「こうして並べて飲み比べないとわからないことって、結構あるものね」
「ねえ、ところで嘉穂さん。ずっと気になってたんだけど、あれ、何?」
美月が指さす方を見やれば、ちょうど見知らぬ客がバケツに何かを吐き出しているところだった。
「ああ、あれは日本酒を飲まずに吐き出しているのよ」
「ええ……もったいない」
貴美が呟く。美月も、同じことを思っている顔をしていた。
「仕方ありませんわよ。これだけの種類が並んでいたら、一口ずつでもすぐに酔っ払ってしまいますでしょう? ここには飲食店の経営者や業界関係者も味を見にきていますもの、酔わずに味を見て回るにはああするしかないんですのよ」
「私たちは純粋に楽しみに来てるだけだから、真似をする必要はないわ。東北エリアを回り終わったら、次は新潟辺りを押さえつつ、南下してみましょ」
「北海道を先に回る手もありますわよ。男山、上川大雪、二世古、国稀……。今は北海道も日本酒造りが盛んで、良い銘柄もたくさんありますから」
「確かに、律儀に全部飲んでいたら回り切れないわねえ」
「ホントですね。ああ、それにしても──」
万感の想いを込めるように、貴美は、
「肴が欲しいです」
と言った。
全員が深くうなずく。
食べ物の持ち込みが禁止である以上、どうしようもないのだが、美味い酒と美味い肴は切り離せない、と嘉穂たちは強く再確認したのだった。
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