2巻 第7話 縁日の焼きそば
ある程度人口が多い都市で一人暮らしをしていると、なかなかご近所付き合いなどは生まれないものである。
回覧板などが届くこともない。
しかし、その日は少しだけ違っていた。
『延期になっていた夏祭りのお知らせ』
そんなチラシを配りに、二人組のお婆さんが嘉穂の部屋を訪ねてきたのである。
「ほら、ちょうど夏祭りの日に台風が直撃しちゃったでしょう?」
正直、あまり近所の小さな祭りなどに興味がなかった嘉穂としては、元々の日程が中止になっていたこともよく知らなかったので、適当に「はあ」と相づちを打つしかなかった。
──縁日か……。
そういえば、この部屋に越してきてからそこそこの年数が経つのに、まだ地域のお祭りには行ったことはなかった。
一回くらい、行ってみるのもいいかもしれない。
そう思ったのは、気まぐれというよりは、何か仕事の役に立つかもしれない、という打算のためかもしれなかった。
縁日が催されている場所に行く途中で、嘉穂はまず何本かの缶ビールを買った。日本酒党であり、家飲みより居酒屋飲みを愛する嘉穂としては、缶ビールを買ったのはかなり久しぶりのことだった。
縁日といえば、食べ物もたくさん売っているものだ。冷静に考えると美味しいかどうかは疑問なメニューも多い気がするが、独特の雰囲気はB級料理の味わいを大きく変えてしまうものだ。
縁日に足を踏み入れてみたら、華やかな浴衣姿の女性や粋に甚平を着こなした男性の姿も多く目に付き、嘉穂が思っていた以上に賑わっていた。
と、居並ぶ露店の中に見知った顔を見つけて、嘉穂は歩み寄った。
「二ノ宮さん、どうしてこんなところで焼きそばを売ってるんです?」
馴染みの居酒屋『竜の泉』で接客を取り仕切っている店員の睦美だった。
「あ、片菊さん、お一つどうです?」
「じゃあ、一つ」
「ありがとうございます。いやね、実はこの縁日、商店街が主導してやってるんですよ。なもんで、『竜の泉』からも駆り出されまして」
「えっ、じゃあ、もしかしてこの焼きそば、『竜の泉』のレシピで作ってるんですか?」
だとしたら、思わぬ幸運である。焼きそばといえども、当然、信頼できるプロによる調理なら味は大きく変わってくる。
「いや、まあ、まったく同じじゃないですよ。材料的にも、いくらかコストダウンしないとこの値段じゃ売れませんし」
使い捨ての容器に詰め込まれた焼きそばと割り箸を差し出しながらそう笑った睦美に、嘉穂も、
「あー、それはそうですよね」
と笑って言いながらピッタリの金額の小銭を渡した。
「そういえば、沙也香ちゃんが遊びに来てるはずですよ。もしかしたら、その辺で会えるかも。あと、もう少し先に行くとベンチとかも設置されてたはずなんで、空いてたら落ち着いて食べられるかも」
「ありがとうございます、行ってみます」
確かに、焼きそばは歩きながら食べるのには向いていない。
さて、話に聞いたベンチはどこだろう、と出店を冷やかしながら歩いていくと、
「あ、片菊さん!」
という声が耳に届いた。
声の方に顔を向ければ、ベンチに座り、自分に向かって手を振る浴衣の美人がいた。一瞬誰だろうか、と本気で考えてしまう。
それが沙也香であることに気がつくために、嘉穂は五秒ほど要してしまった。
「座ります?」
嘉穂が近づくと、そう言って浴衣姿の沙也香は少し詰めてベンチにスペースを作ってくれた。
「ありがとう、お邪魔するわ。それにしても、素敵な浴衣ね。どこのモデルさんだろう、ってちょっと考えちゃったわ」
「やめてくださいよ、もう!」
拗ねたようでいて、ちょっとまんざらでもないようなナチュラルな表情には、良い意味での若さが満ちている。
「一本どう?」
嘉穂はコンビニで買ってきたビールを一缶、沙也香に差し出した。
「いえ、その……」
遠慮がちに、沙也香が掌を嘉穂に向けて「結構です」という意思表示をした。
「あれ、まだ未成年だったっけ?」
「そうじゃないんですけど、甘くないお酒って苦手で」
「そうなの? まあ、最近はお酒も無理に勧めればハラスメントって言われちゃうから無理強いはしないけど」
そのビールの缶をプシュッと開けて、一口。そろそろ晩夏だが、まだ暑い中を少し歩いただけでもビールが美味しく感じる。喉を駆け抜けていくシュワシュワ感がたまらない。
「あ、もしかして待ち合わせだった? っていうか、そうじゃなきゃそんな素敵な浴衣をビシッと着てこないわよね」
「い、いえ、違いますよ!? 確かに待ち合わせしてますけど、大学の同級生で、女友達ですから!」
「そんな必死に否定しなくても。あ、二ノ宮さんのところで焼きそば買ってきたんだけど、食べる?」
訊きながら、嘉穂はビールの缶をベンチに置き、輪ゴムで止められただけの焼きそばを取り出した。
「いえ……。その、片菊さんって、すごく大人って感じですよね。すごく憧れるっていうか、すごいなって思います」
「へ?」
平日の午後、お祭りの縁日にラフすぎる雑な服装で繰り出してきて、缶ビール片手に焼きそばを食べようとしている自分自身を顧みて、むしろダメ人間にしか見えないのではないか、と思ってしまい、嘉穂は首を傾げた。
「お酒を飲める女性ってカッコいいじゃないですか。でも、ビールとか日本酒とかウイスキーとか、全然美味しいって思えなくて。カクテルとかは結構好きですけど」
「あー、そういう……」
嘉穂は学生だった頃の自分を思い返して、苦笑いを浮かべた。嘉穂自身が酒を飲み始めたのも、幼い憧れからだった。好きだった物語の女主人公が酒を飲むシーンが、当時は妙に大人っぽく見えたのだ。その真似事が、おそらくは最初である。
「お酒なんか無理して飲むものじゃないわよ。かっこつけたいから無理して飲んでみる、ってのも否定はしないけど、美味しいと思うお酒があるならそっちを飲めばいいんじゃないかしら」
言いながら、青のりと紅ショウガたっぷりの焼きそばを割り箸でほぐして、一口。
豚肉、キャベツ、もやし、ニンジン、『竜の泉』の焼きそばならここにイカゲソなども入っているが、さすがにそこはコストカットされてしまったらしい。それでも、充分に具だくさんで嬉しい焼きそばだ。
「でも、飲めるのがカクテルだけって子どもっぽくないですか?」
「全然。カクテルだって幅広いし、きっとまだ沙也香ちゃんが知らないカクテルだってたくさんあるはずよ。まずはそっちから広げてみたら? 無理して好きじゃないお酒を飲むより、カクテルに詳しい女性の方がカッコいいんじゃないかしら」
そう言って、焼きそばの味を洗い流すように、ビールを飲む。
この苦さを美味しいと感じるようになったのはいつからだっただろうか。最初は、嘉穂も「何これ、苦っ! 不味っ!」と思ったものだった。
「そうでしょうか……?」
「うん。私はそう思うけどね」
やがて、沙也香は待ち合わせの相手を人ごみに見つけて、嘉穂に「失礼します」と声をかけて行ってしまった。
「……苦いなあ」
まばゆくて、瑞々しくて、だからこそ苦い。そんな若さを目の当たりにして飲むビールは、いつも以上に嘉穂の舌を刺激したのだった。
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