第17話 牛肉と日本酒
「今日はぁ、自棄食いがしたいんです!」
店に入ってくるなり、カウンターですでに飲み始めていた嘉穂と貴美に向かって、美月がそんなことを言った。
──さては、また失恋でもしたのかしら。
嘉穂は真っ先にそう思ったし、見合わせた貴美の顔にもそう考えていることがありありと書いてあるようだった。
「自棄食いといえばお肉ですよね」
美月にそう詰めよられて、一概にそうとも言えないのでは、と思いつつも、嘉穂と貴美はうなずくしかなかった。
とはいえ、嘉穂と貴美はすでに日本酒を飲み始めている。
「いっそ、日本酒とお肉の相性でも試してみます?」
貴美の提案に、
「そうね……」
と嘉穂は思案した。
肉にもいろいろあるが、果たして美月が言っているのはどの系統だろうか。焼き鳥なら合わせやすいが、自棄食いという単語から少し焼き鳥は遠い気がする。
どちらかといえば、連想されるのは焼肉。
つまり、牛か。
すき焼きなど、和食にも牛肉を使う料理はあるし、それに合わせる日本酒のセオリーもあるが、残念ながらこの店『竜の泉』にすき焼きというメニューはない。
「……もしよろしければ、いくつか肉を使った料理をご提案いたしましょうか?」
厳つい店主が、カウンター越しに話しかけてくる。
「あー、お任せってのも通っぽいかしら」
冗談めかして言った嘉穂だったが、いっそ本当に任せてしまった方がいいかもしれない、と本気で思い始めていた。
そうでもしておかないと、自棄食いを宣言している美月が何をどれだけ頼み出すかが想像するだに怖すぎる。
「じゃあ、何品かお願いします。三人分。いいですよね?」
嘉穂と同じ思考に至ったのか、単純に店主がオススメしてくれる料理に興味があったのか、貴美が率先して注文を決めてしまった。
「お酒はどうします? 今飲んでるお酒はともかくとして、次からは肴に合わせたお酒がいいですよね?」
伝票を持って、店員の睦美が話しかけてきた。
「前に酒造の人に聞いたんですけど、肉に合わせるならお酒の温度も重要なんじゃないか、って言ってまして」
「へえ、温度ですか……。って、なんで私を見るんです?」
貴美が首を傾げる。
「いえいえ、別に」
何かを誤魔化すように、睦美は視線を逸らした。
「温度っていうと、ぬる燗とか熱燗とかってことですか?」
嘉穂の質問に睦美は真面目な顔に戻って、
「さあ、必ずしも熱い必要はないと思いますけど、肉と合わせるにはキンキンに冷えた日本酒はあんまりよくないんじゃないか、って言ってましたね」
と答えた。
「ふーん。……あ、もしかしてぇ、脂の溶ける温度と関係あるのかも?」
美月の呟きに、嘉穂はなるほど、とうなずいた。
睦美も、
「確かに、魚より肉の方が脂が溶ける温度が高いって言いますからねえ。お酒が冷たすぎると口の中で固まっちゃうとかあるのかしら」
と首を傾げた。
「でも、それだと脂っこい料理にはビールとかハイボールってセオリーも否定されちゃいませんか?」
貴美の言葉に、また各人が腕組みをして考えこむ。
「それはもしかしたら、洗い流すのか味わうのか、の差かもしれないわね。あくまで推測だけど」
嘉穂の発言に、「あー」と一同がうなずいた。
「とりあえず、今日は少し温度を変えてみます? 常温でもお出しできますよ」
常温とはいっても、日本酒は冷蔵保管が基本だ。常温で出すからと室温で放置しているわけではなく、一手間かかる温度である。
「じゃあ、今日は冷やでお願いするわ」
「はい」
嘉穂の注文にニヤリと笑って、睦美は三人の席から離れていった。
「あれ、常温にするって話だったのに、冷酒なんですか?」
貴美が訊いた。
「冷酒と冷やは違うのよ。冷やっていうのは、燗に対する言葉なの。冷蔵技術がない時代には、常温か温めるかしかないでしょう? 冷酒は冷やして飲む日本酒全般を指すわね」
「あ、なるほど」
「ねぇ、嘉穂さん。全般って、冷やし方にも種類があるの?」
「ええ。五度刻みくらいで名前があるわ。常温が冷や、これが二〇度ぐらいかしら。そこから下がるごとに『涼冷え』『花冷え』『雪冷え』、上がるごとに『日向燗』『人肌燗』『ぬる燗』『上燗』『熱燗』『飛びきり燗』、だったかしら」
「熱燗って温めたら全部熱燗だと思ってたわぁ」
「熱燗って言葉は、そういう使い方をすることもあるみたいだけどね」
「普段私たちが飲んでるのは『花冷え』くらいですかね? そういえば、私、燗したお酒って飲んだことないです」
「銘柄によって適した温度が違っていたりして面白いけど、こと地酒に関しては、冷やして飲む前提で造っているところが多いみたいだし、自然とそうなるんじゃないかしら」
「なんか、温めちゃうのもったいない、って気がするよねぇ」
「ですよね。嘉穂さんなら『燗には燗のよさがある』って言いそうですけど」
「ええ、もちろんそう言うわよ」
嘉穂の即答に、美月と貴美は「ですよね」と笑った。
「……コンビーフを刻みネギとマヨネーズで和えてみました」
店主が出してきたのは、珍味系のように小鉢に盛られたサラダのような一品だった。ほぐされたコンビーフがネギやマヨネーズの白っぽい色に混ざっているので、パッと見にはポテトサラダのようにも見える。
「……肉と呼ぶには少し邪道かもしれませんが」
「まあ、コンビーフって牛肉の塩漬けだものね」
嘉穂が苦笑する。
「そうなんですか。私、缶詰しか知らないっていうか、特定の缶詰の商標なのかなって思ってました」
「コンビーフって変に好きな人、いるよねぇ。一部の人に熱烈に愛されてる、みたいな」
「……そういう方は、たいていお酒と一緒に愛されています」
店主が笑った。その笑い方からして、おそらく店主も愛好家の一人なのだろう。
食べてみると、ネギのシャキシャキ感の中にほぐしたコンビーフの食感が入りこんできて面白い。コンビーフ自体の塩気とマヨネーズの塩気が混ざり合って、ただ塩っぱいだけではない奥行きがある。
「なんだか簡単そうな料理なのに、美味しいですね」
「ね。これなら家で作れそう」
貴美と美月がそんな話をしている。
「ところが、不思議とこういう料理って家で再現しようとすると同じにならないのよね」
この料理よりもっと簡単なはずの『クリームチーズの酒盗和え』さえ、嘉穂はこの店と同じ味を出せたことがない。
「そうなんですか?」
「意外だわぁ」
「素材が違うのか、分量が違うのか、それとも隠し味があるのか……」
そんな嘉穂の言葉を、店主は穏やかな笑顔でスルーする。
「それより」
嘉穂は常温の日本酒が注がれた猪口を手にした。温度を変えたこともあって、今日はグラスではなく一つの徳利を三人でシェアである。
常温の酒を口に含む。
何度か飲んだことのある銘柄だったが、冷酒で飲むよりも甘みやコクをしっかりと感じられる気がした。濃い塩気と肉の味に負けないだけの地力が酒に備わったような、そんな印象がある。
「あぁ、温度が違うとだいぶ変わるねぇ」
「はい、同感です。でもこの肴、たぶん普通に日本酒に合いますよね」
それは嘉穂も同感だった。その点は料理人の腕やセンスを褒めるべきなのだろうが、そもそもの趣旨として少し違う。
「……では、次はもっとガッツリと肉を味わえる料理にしましょう」
店主がカウンターの中で次の料理に取りかかった。
「それはそうと、美月さん、今回は何があったんですか?」
コンビーフのマヨネーズ和えをつまみながら、貴美が訊いた。
「まあ、話したくないなら無理に話せとは言わないけど」
嘉穂も、常温の日本酒の味を何度も確かめながら言う。
「それがねぇ、その彼は昔なじみっていうか、高校の同級生なんだけど、最近ひょんなことから再会してね。ギターとかやってて、文化祭ではバンド組んで演奏したりして、大きい夢に向かって頑張ってる感とか、昔はカッコよかったんだけどなぁ」
はぁ、と美月は杖をついて大きく息を吐いた。
「今はカッコよくなかったんですか?」
貴美の疑問はもっともだった。というか、だったらなぜ付き合ったのか。それとも、付き合う前に美しい思い出が打ち砕かれたことが自棄食いしたくなるほどにショックだったのだろうか。
「うーん、なんていうか……言ってること自体は変わってないっていうか、そのまんまなんだけど……」
美月が考えこむ。
「あー、なんかわかったわ」
嘉穂がそう呟いた瞬間に、店主が、
「……お待たせしました」
と皿をずいっと出してきた。
それは、先ほど店主の言った通り、肉料理の王道だった。
ステーキである。
さすがに専門店ではないので鉄板で供されるわけではないが、皿の上にあるレアに焼けたサーロインと付け合わせのジャガイモとニンジンのグラッセは本格的な存在感を放っている。
すでに一口大にカットされているのは、三人でシェアすることを前提にした心遣いなのだろう。
「……いつもは塩コショウかガーリックバターで食べて頂くのですが、今日は日本酒に合わせるということでワサビ油をベースに味付けしてみました」
そう、この居酒屋、実は和牛ステーキは常設メニューなのである。もちろん、常設メニューの中では他の品々と比べて明らかに一品だけ価格帯が違ったりするのだが。
「気になってたんですよね、ステーキ。これ頼むなら他のが二品頼めるなー、って思ってなかなか頼めなかったんですけど」
マジマジとステーキを見つめて、貴美が言った。
「だよねぇ。大トロ刺しより高いんだもん」
「そういえば、私も頼んだことなかったわ」
日本酒を飲みに来る嘉穂にとっては、縁のない肴である。今回のような趣向にならなければ、間違いなく同じ金額で刺身を頼む方へ傾く。
「そういう意味ではいい機会だったけど、問題は日本酒に合うかどうかよね」
それぞれが一切れずつ箸で取り、口へと運ぶ。
切り口は生っぽい赤さが残っているものの、んでみれば中にまでしっかりと熱は通っている。
肉は軟らかいながらもしっかりと弾力があり、むほどに赤身の味と甘い脂が口の中に溢れ出してくる。そしてそれを引き締めるワサビの香りと油の深み。
肉は美味い。
魚好きの嘉穂に、それを思い出させてくれる味だった。この食べ心地と満足感は、魚のそれとはまるで違うものである。
「うわっ、このステーキ、メチャメチャ美味しいです……!」
「ホント、美味しいねぇ」
貴美も美月も、ステーキを張って幸せそうな笑顔を浮かべている。
だが、問題は──
嘉穂は濃厚な肉の味が残る口に、常温の日本酒を含んだ。
冷酒のときよりしっかりと感じるコクや香り、甘みは肉の存在感に負けることなく、しかしそれを損なうこともなく口の中でしっかりと受け止めていた。
肉も日本酒も、双方の邪魔をしない。いや、それどころか、どちらの美味さも引き立て合っているようにも思えた。
「合う……わね」
「はい。合いますね」
「でもぉ、冷酒だとちょっとお肉に負けちゃったかも」
「私もそう思います。不思議ですよね、ビールやハイボールで美味しく合わせられるのが想像できる味なのに」
「たぶん、温度に差があると口の中での馴染み方も違うんじゃないかしら」
嘉穂の言葉に、貴美も美月も深くうなずいた。
「あ、ところで、さっき嘉穂さんは何がわかったんですか?」
「え?」
「あ、そうそう。あたしも気になってたんだ。お肉とお酒のことじゃなくて、あたしの別れた彼のこと」
あ、やっぱり別れたんだ、と嘉穂は苦笑しつつ、
「そうね……」
と手にしていた猪口を見つめた。
「きっと、温度差なのよ。高校生の頃は、美月さんも彼の語る夢を同じ温度で聞けていたの。でも、今は日々勤めていて、社会を知って、現実ってものがわかってしまって──きっと、ステーキのような熱々で脂の乗った夢に合わせるにはちょっと温度が下がってしまったんじゃないかな、って思ったの」
「確かに、自分の高校生の頃の夢とか、今思うとかなり青臭く思えちゃいますよね」
貴美が苦笑する。
「そうね。でも、その彼氏が悪いわけじゃないと思うの。私はその人を知らないし、だから推測でしかないけれど、同じ夢にずっと情熱を燃やし続けられるのもすごいことだと思うわ。ただ、きっと相性が違ってしまっただけで」
「うん、そんな感じかなぁ。どうしてもね、見通しが甘いんじゃないか、とか思っちゃうんだよねぇ。それで生活できるの? とか」
「美月さん、案外リアリストなんですね」
「それはそうだよぉ。何度も何度も失敗してたら、なるべく堅実に相手を見定めたいって思うじゃない。もう本人だけが信じる将来性とか根拠も実績もない情熱に振り回されるのはこりごりだもん」
「そうは言いつつも、高校の頃の夢見るような情熱に、ついつい触れたくなっちゃったんでしょ? 再会して少しでも付き合ったのなら」
その嘉穂の訊き方は、少し意地悪だったかもしれない。
「うっ。それは、まあ、なんていうかぁ……」
美月が照れ臭そうに言い淀んだ。
「まあ、私はその彼の側の人間だから、弁護したくなるんだけどね。でも、こっち側の人間って、人生をチップにギャンブルやってるようなものだから、本気で添い遂げようとしたら相当な覚悟が要ると思うわよ」
「うん。たぶん、遅かれ早かれついていけなくなるかなぁ、ってあたしの方から見切りをつけちゃった感じなのよね。でも、それって好きとか嫌い以前の打算だなぁ、って思うと自己嫌悪っていうか」
「もしかして、自棄食いしたかったのは失恋より自己嫌悪が原因ですか?」
貴美の問いに、美月は「うん」と素直にうなずいた。
「それが普通だとは思うけど……そうね、じゃあ、せめてもの罪滅ぼしに、その彼のミュージシャンとしての成功を祈って乾杯、ってのはどうかしら?」
そう言って、嘉穂は二人の前に猪口を掲げて見せた。
「乾杯、いいですね」
貴美も猪口を手に取った。
「……うん」
美月もうなずいて、三人は猪口をぶつけ合った。
「肴、足りないよねぇ。よーし、ステーキもう一枚いこっか!今日はつきあってもらったから、あたし奢っちゃう!」
「え、美月さん、ホントですか」
「あ、奢りはもう一枚のステーキだけね。全部じゃないよ?」
「えー」
そんなやりとりを聞き流しつつ、嘉穂は、
──頑張れ、どこの誰なのかは知らないけど。
と、心の中でささやかなエールを送るのだった。
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