あるホームレスの死

 アパートのすぐ近所に五十代ぐらいのホームレスの男が住んでいた。

 男のいる通りはそこだけ建物に出っ張りがあって、屋根のような役目をしていたので、吹きさらしでも少しは雨が凌げたのだろう。

 男はいつも寝袋に入って横たわっていた。そばにはどこかで拾ってきたようなたくさんの古い衣服がごちゃごちゃとまとめられていて、夏場でも暑苦しく着ぶくれしていた。

 彼が自分のテリトリーから動くことはめったになかった。上半身だけ起き上がってじっとしていることもあったし、誰かからもらったバゲットをちぎっては、路上に群がるハトに向かって放っていることもあった。

 そうやって彼は何年も前からずっとそこにいた。ロックダウンの最中でも変わらず同じ場所にいた。


 僕は男の声を聞いたことがない。彼は石のように黙ってただそこにいるだけの人だった。誰かが通っても声を荒げることもなければ物乞いをすることもない。この場所はときおり他の浮浪者たちがやってきて酒盛りを始め、通行人に野次を飛ばしたりするのだが、彼はそういうことにはいっさい関わらず、少し離れたところでひとり寝転がっていた。

 通りがかりに一度だけ目が合ったことがある。眼光がするどく厳しい目をしていて、どきりとした。あとから考えれば目が合っていても僕を見ていなかったかもしれない。彼はそこにいながら別のところにいるようでもあった。

 

 正直その道を通るのは好きではなかった。男のテリトリーは酒やら他の液体やら(想像にお任せする)でそこだけ石畳の色が変わるほど汚れていて、歩くと靴の裏がベトベトするのを感じた。たまに市の清掃員が洗剤つきの清掃車で道を洗っていたが、焼け石に水だ。近くの植え込みにはドブネズミが住んでいて、ふいに足元に飛び出すこともあった。


 何度か市の福祉課の職員に取り囲まれているのを見たこともある。そのあと彼はしばらくいなくなったが、また帰ってきた。保護施設に行けば食事も寝るところも与えてもらえるだろうに、なぜまた戻ってくるのか僕には分からなかった。もしかしたら施設が定員オーバーだったのかもしれないが、少なくとも僕には彼が自主的に戻ってきているように見えた。

 この界隈は決して裕福な層が暮らしているわけではない。どちらかというとお金のない移民の多い界隈だ。他人に施せるほどの余裕がある人は少ない。だから、彼は施し目あてではなく、ただ単にそこにいたかったのだと思う。そんな彼を住民は特に気に留めず、邪険にするでもなく、まるでいつもそこにあるオブジェのようにとらえていた。


 先日、この男が死んだ。

 ある朝、男が息をしていないのを誰かが見つけたらしい。遺体はおそらく市が引き取ったのだろう。いつからいなくなったのか、僕は気づきもしなかった。

 彼の死が分かったのは、いつもいた場所に花とろうそくが供えてあったからだ。

 それを目にした時、胸がぐっと詰まった。気の毒だとか、悲しいとかとは違う、ものすごく空虚な気持ちになった。なぜだろう、口をきいたこともないのに、知りもしないのに、心の奥にズシンと来る。

 そばにはホームレスの死亡を管理している団体からの貼り紙があり、彼に関して何か知っていることがあったら連絡してくれと書いてあった。そしてその紙の横には誰かの手書きで男の名前だけが記してあった。

 どこから来たのか、何歳だったのか、妻子はいたのか、いつからこういう暮らしをするようになったのか、誰も知らない。だけど、この男にも確かに名前があった。僕はそんな当たり前のことを忘れてひとりのホームレスとしか見ていなかった。


 男のいた場所には毎晩、ガラスの容器に入ったろうそくの明かりがいくつもチラチラとゆらめいている。どこかの心ある人が供えるのだろう。ふとその場所に目をやれば、いつものように男が寝ているのではないかと錯覚する。居たときよりも、居なくなってからの方が存在の重みを感じる。だけど、すべて今さらの話だ。ふいに景色の中からいなくなった男にこんな虚無感を与えられるとは。


 彼は生きたかったのか。それともここで死ぬのを待っていたのか。ある日なにもかも失くす時が来たら、自分はどうするだろうか。分からない。でも、少なくとも押し黙ったまま、たったひとり路上で死ぬのを待つ強さは自分にはない。


 世間がクリスマスのお祭りムードで賑わう中、道端でひっそりと命を落とす者もいる。彼の人生は知る由もないが、自分の好きな場所で永遠の眠りにつくことができたと考えれば、せめてもの救いになるのかもしれない。

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