ロックダウンの痕

 もうしばらく前のことになるけど、フランスでは五月の上旬から少しずつロックダウンが解除され始めた。とはいえ、パリはまだ危険区域に入っていたので、今までの生活とはほとんど変わりなく、食料品以外の店も営業を再開する、なんてニュースを、半ば他人事のように眺めていた。


 約二カ月間の外出制限措置。そのあいだの僕の生活といえば、減っていく仕事や先の不安に見て見ぬふりをし、僕とは反対に仕事が倍になってしまった同居人の顔色を窺い、愚痴の聞き役になり、ただ目の前にあることをこなすだけの日々だった。

 大したことではない。いつか終わる。

 そう思って毎日をごまかしていた。


 同居人との生活は気詰まりだった。相手に劣等感を感じた。仕事がある方が偉い、なんて、誰が決めたのだろう。褒めてももらえない家事全般を引き受けながら、自分を卑下していくもう一人の自分がいる。仕事の愚痴を聞かされると胸がぎゅっと痛んだ。僕から話すことなど、何もない。 

 こんな状況で誰かが一緒にいることは救いだなんて言いながら、本当は「頼むから独りにしてくれ」と心の隅で叫んでいる自分がいる。パートナーがいることの有難みさえ、感じない。


 眠りが浅くなり、食事の量が減った。突然涙が湧き出して止まらなくなった。こっそり台所に隠れてひとしきり泣くのが日課のようになった。


 いったい僕はどうしてしまったのか。

 何かが削られてゆく感覚が怖かった。嫌味なぐらいに晴れの日が続く窓の外をよそに、真っ黒な雲が僕のココロを浸食し、脅かしていく。

 

 幽閉生活、というのは、精神の奥の方に作用してしまうらしい。

 ロックダウンが緩和されて、これからは家から1km以上外出しても構わない、と言われているのに、もう外に出たくない。コロナが怖いからではない。出ようという気持ち自体がなくなってしまっているのだ。もうこのままでいい。何も興味ない。何も見たくない、聞きたくない。そんな気持ち。



 どんな理由だったかは忘れたが、ある日メトロに乗って中心部へ行った。メトロに乗る時は緊張した。許可証を持っているかと尋問されるのではないかと思った。

 

 人通りのめっきり減った目抜き通りからはずれ、セーヌ河まで歩いた。とても天気の良い日で、ヨーロッパらしい、乾いた暖かさだった。


 河岸には「社会的距離」を取った人たちがポツポツと座っていた。洋服屋には閑古鳥が鳴いているのに、ここには散歩したり、走ったり、ただ日向ぼっこしたり、大通りよりもよっぽど人が多い。

 みんな同じものを求めているのだと思った。それは水であり、緑であり、目の前を遮るもののない風景。

 

 僕にとって、それは何年も見ていない風景に思えた。空は真っ青で、セーヌ河は緑色で、舗道に並ぶプラタナスの葉が透けるように光っていた。細身のプラタナスの肌は真っ白で、それが太陽の光と相まって、とても眩しかった。いや、風景そのものが、僕にはとても、とても眩しかった。


 この光景を見たからといって自分の中で何かが大きく変わったわけじゃない。感傷に浸って涙したわけでもない。ただぼんやりと、自分の頭の中だけが白黒写真のようだと、そう思っただけだ。


 ただ……この街にいてよかったと、なんとなく、そう思った。

 このちっぽけな感情を匿い、絡まったものを解きほぐすこともなく、ただそのまま包み込むように、この街は僕を風景のひとつにしてくれている。

 それが、なんだか有り難く感じたのだ。

 


 色んなものが全て解除になったのは、六月の中旬だった。

 街はゆっくりとリハビリをしているように見えた。ようやく公園が開き、花屋の店頭には彩りが戻った。飲食店は遠慮がちに持ち帰りの飲み物を販売しはじめた。ガラガラだったメトロにも、少しずつ乗る人が増えてきた。


 そんな街の様子を見ることが、なんだか嬉しかった。だから、意識して外に出るようにした。

 この街と一緒に、僕もリハビリをしたいと思った。

 どんなに大きな痕が残っていても、きっと生き直せる。ちょっとずつ手や足を動かし始めた街を見て、僕も、ちょっとずつココロを動かしてみようと、そういう気持ちになれたのだ。


 パリのリハビリは一進一退を繰り返しながらまだ続いている。僕の生活もすっかり元に戻ったわけじゃない。

 リハビリは痛みを伴う。差し込むような感傷が走ることもある。だけどいずれこのココロもちゃんと動けるようになると、そう信じている。


 そうして、いつかまたマスクを取ってこの街を歩ける日が来るよう、願っている。



 


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