小説家として

「それは愚問である」

 淡々と、飄々と、そして丹念にすり潰すように、彼は言った。

「確かに『人嫌い』だとは言われるさ。その上で、人嫌いが人の娯楽である小説などというモノを書くのはおかしな話だ。君のその質問もごもっともだと、僕もそう思うね」

 彼はニコリともしない。だがその目の奥に侮蔑なども見えない。至って穏やかに、まるで教養無き者を教化するような丁寧な口調で語らいかけてくる。

「僕は人が嫌いではない。ではなぜ『人嫌い』などと称されているのか、などと聞かれても、僕は『世俗が僕の人格をそう分類し、そう名付けたから』だとしか言いようがない。分かりやすいキャラを付けたがる昨今の風潮に、出版社やらなんやらが飛び乗った結果だろう。別にそれに関してどうこう言うつもりはさっぱりないがね。……まあ『好きではないが嫌いではない』、と言えばわかりやすいかな。ともかく、人間自体にあまり興味は湧かないというわけだね」

 ちょっと待ってくれ、と私は口を挟んだ。人間に興味がないのならば、尚更君が小説を書くことにはならないじゃないか。そのようなことを口走った。

 彼は私の方をちらと見た。ような気がした。時間の割に閑散とした喫茶店には、静寂が粛然と横たわっている。よく見知った関係である店主は、淡々とグラスを片付けている。かちゃん、という音が静寂の中を横断し、やがて消えていく。張り詰めた空気だが、そこに不思議と緊張感はない。彼が再び口を開く。

「勘違いだ。僕が興味を持たないのは人間自体だと、そう言っただろう」

 彼の語り口に気力なんて欠片もなく、彼の表情に情熱なんて欠片も感じないのに、それでも何故か、彼の言葉は微かな熱を帯びているように、そう感じる。

「僕はあくまでも『人の遺す物語』が好きなんだ。もちろん遺すといっても死に際だけじゃない。数十億を超える人間は常に多くの物語を編み上げることで人生を形作る。悲劇、喜劇、そんな生半可な言葉じゃ言い表せない一篇の物語。それが人生だと、僕は思う。そして当然、人生という物語において登場人物は一人ではない。モノドラマのような人生は絶対に有り得ないからな。他者と関わり、常識に打ちひしがれ、時に偏見に心を痛める。他者と関わることで得るものもあるし、失うものもある。そもそも常識や偏見、対立なんて他者と関わるから起こるんだ。それに気づいた人は時折、争いたくないから自分の世界に引き篭ろう、と思ったりもする。でもそれは出来ない。人間として、いや、その前に生物として生まれたが故に、常に他の何かと関わることになる。たとえそれが捕食関係であったとしてもね」

 そこまで語った彼は、コーヒーを一つ頼んだ。店主がいつものように付けた火は、小さくゆらゆらと揺れている。

「……だから、僕は人間の生活を追い続けている。没個性的な教育やらが問題視される現代社会ですら、全く同じ人生は一つとして存在しない。まあ、全く同じような経験しかしない人生がいくつかあったとしても、それはそれで興味深いんだがな」

 こちらをちらと見る。今度は確実に。左目にかかっていた髪を風が取り払う。深く、深く黒い、けれど光を僅かに宿すその瞳は、二十五の若者が持っていいような代物ではない。彼の四半世紀の生の中で、様々な人生を彼は見てきたのだろう。数多くの人生を視てきたにも関わらず、彼は人生というものを達観も悲観もせず、かといって楽観することもなく、ただ淡々と目の前の人生を「記録」してきたのだ。そりゃあ人間のことは好きでも嫌いでもないだろう。そのような感情を抱くよりも先に、それはまずそこに在るからだ。魚が水を、我々が空気を好きだ嫌いだなどとは言わない(まあ例外こそあるだろうが)のと同じである。我々は空気そのものではなく、その中にある他の何かを感じて初めて感想を持つ。「空気が悪い」と感じるのは、空気に不純物が混ざっているからだ。たぶんそういうものなんだろう。たぶん。

 少し考えてから、私はふと気になった。

「どうして先生は小説を書くんです?」

「ほう?」

「いや、だって、確かに『人の遺す物語』が好きだー、って話ですけど。それをわざわざフィクションに反映する必要ってあるんですか?

ほら、『記録に残したい』ってだけだったら、ノンフィクションで事足りるのでは?」

 彼がこちらを見つめる。見つめて、顔を逸らして、溜息をついた。その横顔は、何故だか分からないが笑っているように思えた。

「なるほど。普段から『名声に興味はない』だとか『人間はあまり好きじゃない 』だとか言っている人間が、わざわざ世間一般様のために小説を書くのは、些か不可思議なものであると、そう言いたいのだろう?」

 首を縦に振る。言っちゃったもんは仕方がない。

「確かに、伝承目的であればノンフィクションの方が向いているだろう。その考えも一理あるな」

「まずいことを聞いちゃいました?」

 いいえ、と彼は答える。

「理由は至ってシンプルなものだが、それでもいいか?」

「もちろん」

 店主が何かを置いた音がした。恐らく砂時計だろう。水が沸騰する音も少し聞こえてくる。彼はもう一度、小さく溜息をついた。

「……小説が好きだからだ」

 それはそれはとてつもなくシンプルな理由である。前置きがなかったら、私は椅子から転げ落ちていただろう。背もたれのない椅子はやはりこういった不安がつきまとう。

「僕は先程『人間の遺す物語が好きだ』と言ったな。それは創作物の類もそうだ。小説。映画。絵本。その他色々、ありとあらゆる創作物。制作する側の熱意を含めて、斯様なものは非常に興味深いものだと感じている。

 少し別の話をしよう。 ”The pen is mightier than the sword.”という言葉を、出版社務めの君ならば知っていることだろう。日本語で言うなら、『ペンは剣よりも強し』という言葉だ」

 彼の口からぼそりと、本来の文脈ならば意味は大きく異なるんだがな、といった若干の補足が付け加えられた。この偏屈な物書きは、しかしながら世間一般の間違った常識を全力で是正しようとするほど偏屈ではないらしい。もっとも、自らの著作で世間一般に擦り寄ったことはないので、そこは本人が考えてバランスを取っているのだろうが。

「僕はそれに全面的に同意だ。暴力による支配が長く続いた例はほとんどない。実際、暴力を用いた圧政は短期的に見れば効果的だが、長期で見ればさほど良い判断とは言えない」

 彼は肩を竦めてそう言う。成人した後から海外を旅することもしばしばあったらしい彼だが、その中で何かあったのだろうか。そんなことを邪推する私を尻目に彼は話を続ける。

「それに比べ、法や文学は人々をより長く、より多く、そしてより静かに縛ることができる。宗教の教典などはそれらの極致だろうさ。生憎、僕は無神論者だがね。

 僕が特に着目しているのはその継続性さ。中東地域では、千年にも及んで単一の宗教が信仰されている。その間にはその信を柱とした国すら興った。他にも、名作と呼ばれる小説は発表から現在に至るまで人々の人格形成に少なからず影響を与えてきた。……おっと、話が逸れてしまったな」

 コーヒーを注ぐ音が聞こえ、その直後に店主がコーヒーを二杯持ってきた。

「僕は一杯だけ頼んだのだが」

「これは隣に座ってセンセイの話をお行儀よく聞いている彼女の分だよ。なぁに、別にお金を取るような真似はしないさ。サービスだ、サービス」

 溜息をつく先生を尻目に、銀髪が似合う店主は優しい笑みを浮かべた。私は頭を下げる。二年前、先生に連れられ初めて訪れた喫茶店だったが、私はその居心地の良さにすっかり虜になってしまった。暗過ぎず明るすぎない店内。その立地故なのかいつも静かで、しかしながらさっぱり張り詰めていない空気感。先生との毎月の打ち合わせでいつもここを使うので、私は店主ともすっかり顔馴染みである。もっとも、先生が私のことを名前で呼んだことはないので、店主は私の名前を知らないのだが。今更自己紹介するのもおかしな話だし、そもそも聞かれもしないのでずっとそのままである。

「……まあ長々と喋ったが、結局は創作が好きだから創作を続けている。昔、現在の思考へと至るよりも前に小説を書いていたからこのような形を取るようになった。その中で、現実の人間の物語が興味の対象だから創作へと落とし込み続けている。書き続ける理由は、現代の人間の生き様を後世の物好きへと遺すためだ。……こんな説明で満足かな?」

 私は首を縦にぶんぶん振る。

「私の興味本意の質問にこんな丁寧に答えていただき、恐縮です」

「礼はいいさ。僕も、初めて受けた質問を前に考えさせられた。君のように、それこそ少女のように純粋な質問をぶつけてくる人間は非常に珍しいものだからな」

 あ、私のこと馬鹿にしてますねー、と文句を垂れる私のことは気にも止めず、彼はコーヒーに口を付けた。


 暫くした後、私は先に喫茶店を後にした。先生はまだもう少し残るらしい。先生の新しい話を聞けた私は、ただの一ファンとして舞い上がっていた。今夜は良い夢が見られそうだな、なんて考えながら電車へと飛び乗った。



「それにしても、あのお嬢ちゃんに対しては態度が柔らかなもんだねぇ」

 扉が閉まるなり、店主はそう言った。

「そうか?まあ、長らく共に仕事をしている仲だからな。気を許している訳ではないが、そうカリカリする理由もないだろうさ」

 店主はにやにやしながら幸徳の方を見る。

「存外お似合いなんじゃねえのかい。とてつもなく面倒臭いお前さんをあそこまで理解してくれる人間なんて、世界中探してもそういねえよ」

「確かに、彼女の生き方はまだ僕の知らない類のものだから、そういう選択も良いかもしれない」

 顔色一つ変えずそんなことを言う彼を、店主は相変わらずにやにやしながら見ている。彼女が先程まで使っていたコーヒーカップは、まだ微かな熱を帯びている。


 店の外へ出た後、空を見上げた。刹那、風が吹き抜ける。心の中すらも吹き抜けていきそうな冷風は、まるで蒸し暑い夏の空気を無視するように、軽やかに、颯爽と彼の前を駆けていった。

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