転生した王妹殿下は人生を諦めている

梅之木うめこ

第1話



 転生したら数多の物語のように、ハッピーエンドを迎えられるのだと思っていた。




 生まれたときから他人の記憶があった。

 わたしであり、私ではない見知らぬ世界の記憶。それが精霊の川床でうっかり記憶を拭い忘れた産物であると受け入れて、十五年の年月が経つ。



 見渡す限りの木と、草原と、ときどき野生の動物。

 記憶の中にあるイギリスの、平坦でのどかな田舎のようなちいさな領地。その小高い丘に聳えるこじんまりとした屋敷が私の住処だ。

 ここには両手で足りるほどのメイドと、謹厳な老執事と下男を兼ねた庭師がひとりだけが暮らしている。

 老執事以外は一年ごとに人員が入れ替えられ、とても義務的な関係だった。だからと言って老執事と親しいかといえばそうでもなく、矍鑠として怜悧なブルーアイはいつも私を見定めているのを知っていた。

 彼らは滅多に口を開かないし、仕草や態度からしてひどくしめやかだった。なのでこの館はいつも静謐として、まるで誰もいないかのように物悲しい。

 それが私にとっては当たり前で、きっとこの世界の貴族というものはそういう存在なのだろうと思い込んでいたほどだった。



 そうではないと知ったのは、両親が亡き後人目をはばかるような簡素さで二人を見送った日に訪れた貴族たち故だ。

 中央から兄の使いで来たという二人の青年は、かつての記憶をひっくり返しても見当たらないほど麗しい人たちだった。金の髪にアイスブルー瞳の青年と、赤銅色の髪にエメラルドの瞳を持った青年。彼らはこんなド田舎には見られない上質で品の良い衣装と、洗練された立ち居振る舞いで丁寧にお悔やみを告げた。

 喪主として彼らの言葉を粛々と受け取り、ささやかな歓待を催した。

 差配したのは老執事だったし、ほとんど置物として彼らの会話に相槌を打つ程度のことしかできなかったけれど。

 二人は明朗で立派な青年貴族だった。話題が豊富で、私の知らない都会の様子や食べ物や流行のファッションなどで、まだ十三歳の子供であった私を楽しませてくれた。

 久しぶりに声を出して笑ったと思う。

 ほとんど人が来ず、母が病に臥せってからは親子としての会話すら途絶えがちだったから、彼らの存在はありがたいものだった。



 二人はあったこともない兄の側近らしい。

 驚く事に私は現国王陛下の妹であり、先王陛下として君臨していた母の子供なのだとか。つまり王女殿下で王妹殿下。色々あって母は王位を廃され兄が即位したのだ。両親は中央を追われて、こんな辺境のド田舎で一生を幽閉されて過ごすことになっていたのだ。

 こういう事情ゆえに兄自身が弔問に訪れることはできず、代わりに側近二人が遣わされたらしい。

 彼らの話すこと全てが事実かどうかは判断できないけれど、今の境遇に納得できはしたので疑義をはさむ事はしなかった。



 粛々と明かされる話を受け入れる私を、二対の眼がじっと見おろしていたことすら気づけなかった程度に愚鈍な子供なのだ私は。

 彼らは三日ほど滞在すると颯爽と兄の下に帰っていく。ほんとうは、もう少し話をしたかったけれど、仕事があるのだから仕方ない。けれど兄に言付かってそれなりの頻度顔を見に来るようになったから、霊廟のようなこの館もすこし活気が戻った気がする。

 二人はとても親切で、素敵な方々だった。女性を楽しませる話術を持つ金の青年と、寡黙だけれど実直で誠実な赤銅の青年はたちまち幼い私の心を満たしていった。

 会話の仕方すら忘れていた私を辛抱強く待って、ゆっくりと導いてくれた人たち。



 彼らへの憧憬が恋へと変わるのは必然だった。



 初めて親しく言葉を交わした年の比較的近い美しい男性。無知で夢見がちな小娘が陥落するのも無理ないことだった。

 私は彼らの訪れを指折り数えて、以前のわたしが読んだ小説のように波乱万丈で幸せな終わりを迎えることが出来るのだと愚かにも信じていたのだ。

 それが幻でしかないと知ったのは、彼らが訪れて季節が一巡した日のこと。

 二人を驚かせようと納屋で潜みながら準備をしていた時、かすかな声が薄い板の壁越しに聞こえた。聞き間違えることなく彼らの声だった。よせばいいのにその時は好奇心から壁に耳を押し付けて盗み聞きをしてしまったのだ。



「そろそろこの任務も終わるな」

「ああ、存外長引いた」

「陛下は慎重でおられる。選定に時間がかかったのだろう」

「分かっているさ。だが、そのおかげでブリジットとの婚姻が延長されたのはつらい」

「だがその分祝儀は弾んでくれるそうじゃないか」

「フン、だからなんだ。既婚者はいいよな、ここから帰れば奥方が出迎えてくれるのだろう? 私は一人寂しく庁舎の男たちの顔を見なければならないのだぞ、どんな拷問だ。ああ、はやく彼女と祝言を挙げたい」



 心からの言葉がどこか遠くで響いているかのよう。

 私は本当に物を知らない娘だった。

 魯鈍な娘だった。

 かつての記憶にある小説にもあったじゃないか。有望で優れた青年貴族にはおおよそ婚約者がいるものだ、と。

 それでも彼が婚約をよく思っていないならば可能性はあった。けれど、現実は無情で、希望などありはしない。

 私の幼く愚かで憐れな恋は、こうして人知れず朽ちていったのだ。




 以降彼らが私の屋敷に訪れることはなく、再びの静寂が戻ってきた。

 火の消えたような空虚さを、代わり映えしない図書に耽溺することで覆い隠し、老執事から課せられる淑女教育をこなすことで取り繕った。

 さんざん現実を突きつけられていたのに、それでもまだ私は物語のようにいつの日かこの冷たくも強固な牢獄から救い出してくれる素敵なヒーローが現れると信じていたのだ。

 いつの日か、見たことのない兄が訪れてくれる事を。

 いつの日か、初恋の君より優れた王子さまが跪いて愛をこうてくれる事を。

 いつの日か、国一番の騎士が囚われの姫を救い出してくれる事を。

 夢物語の世界がきっと自分にも現実になってくれることを。



 残酷なほど、信じていたのだ。真っ直ぐに。



 きっかけは、おそらく初潮がきたことだろう。

 突然の事でパニックになった私を年嵩のメイドが宥め、事の次第はすぐに老執事にも知られた。

 たとえ記憶があっても私には何もかもが初めての事態で、戸惑い怯える小娘を置きざりに周囲の大人たちは機械的に迅速にあらゆる手配をし始めていた。



 その一つとして亡き母と同年代の女医がやって来て、私にあらゆる知識を授けてくれた。

 今の状態が子供を産むために必要な女性特有の症状である事、その対処法、気をつけなくてはならないこと、病気ではないけれどそれに伴うあらゆる不調の話。

 彼女はともすれば同情的なほど親身に事のしだいを教授してくれた。

 まだ子供の私に訪れた大人へのステップ。ほんの少し恥ずかしいけれど、たしかに嬉しい変化だったのだ。きっといつか、そんな夢に近づいたような気がしていたから。

 でもそれは、夢の世界にいる少女を現実へと突き落とすトリガーだったのだけれど。



「ご結婚の日取りが決まりました」



 一部の隙なく謹厳に告げる老執事を、呆然と見上げた。



 彼の言葉の意味が分からなくて固まる少女に、同じ言葉が突きつけられる。

 私はつい先日初潮を迎えたばかりの十四の子供だ。それはかつての記憶でも今生の記憶でも同じ認識である。

 婚約なら分かる。成人を迎えるか、デビュタントを迎えれば祝言をあげようという約束なので、未成年でも子供でも取り交わす事はよくあることだ。特に王侯貴族は婚約を経て夫婦になるのが通例だった。

 なのに、そういった慣習をすっ飛ばしての結婚。そういった例もないではないけれど、それはおおよそ人目を憚る理由が大きい。たとえば落ちぶれたご令嬢が高位貴族の側室になるだとか愛妾になるだとか。もしくは老貴族の後妻となるか、平民が貴族の妻の一人にされるとか。そういう、好ましからざる場合なのだ。



 私は信じていた。いつの日かきっと、素敵な男性と素敵な結婚をすることを。いつの日か、愛する人の子を産み育て幸福な家庭を築くことを。

 信じて、いたのだ。



 老執事は言った。すべては兄君の御心のままに、と。

 会ったこともない兄。顔も知らない兄。声も知らない兄。名も知らない兄。

 知っているのは血の繋がった両親を同じくする実兄であること、国王陛下であること、ここに押し込めたのが兄の指示である事。

 そしてきっと、兄は私のあらゆることを知っているという事。



 目の前の老執事は兄につかわされた人で、屋敷の住人たちも兄の差配によるもので、与えられる知識も、代わり映えしない図書の蔵書の種類も何もかもが兄にとって都合の良いように整えられているものだった。

 兄は私の自由をよしとしない。兄は私の成長をよしとしない。兄は私の死をよしとしない。兄は私の幸福をよしとしない。

 あるがままに、兄の人形であればいい。

 寂寞として冷然とした檻でしか生きたことのない私に逃げることなどできなくて、嫌だと主張する事さえも私は方法を知らなかった。

 かといって自ら命を終わらせられるほどの勇気はなく、気高さもなく、途方にくれながらうろたえるばかり。



 ――ああ、なるほど。



 零れ落ちるように、理解した。

 兄はそういう風に私を育てたのだ、と。



 世間知らずで、地位ばかり高くそれに伴う責務も課せられない代わりに権力を最大限に削り取る。向上心もなく、かといって欲望を持ちにくい道徳感を植え付けられている、誰かの指示がなければ何もできない小娘。

 庇護者がいなければ歩く事すらできない羽を切り取られたひなどり。

 なんて兄にとって都合が良い存在だろうか。

 そんなことをしなければならないほどに、兄のいる場所は恐い場所なのだろう。

 兄はお妃様がいるのだろうか、子供はいるのだろうか、恐い人は何人近くにいるのだろう、どれくらいの敵が潜んでいるのか。私は何も知らなかったし、知ろうともしなかった、そして教えてくれる人も誰もいない。




 私が呆けている間にも、嫁入りの準備は滞りなく続けられていく。

 誰の元に嫁ぐのか、どういう立場になるのか、そういった説明も一切なく人形のように全身くまなく採寸されて布をあてがわれる。宝飾品も、家具も、何もかも素晴らしい品々だ。テーブルクロス一つとて庶民の半月分の給金に値するのだから。

 けれど、それらは王族として使うには格が足りない。まごうことなき現国王の妹王女として考えれば首を振られるレベル。だからおそらく嫁ぐ先は王族ではないのだろう。そして王妹として降嫁する事情を鑑みても少しばかり戸惑う。

 素晴らしい品々であることは確か、それでも侯爵か伯爵のご令嬢が嫁ぐ際の持参金としてならばという具合だ。

 もしかしたら、王妹として嫁ぐわけではないのかもしれない。どこか知らぬ貴族の養女として名を与えられての嫁入り。その場合、王族としては扱われないから子供に継承権は与えられないし、王族としての特権など与えられもしない。

 王族の女を娶る貴族というのは、だいたいに置いてそれらを求めていることが多い。なのに目的のものを何一つ持っていない初潮を迎えたばかりの子供を妻としなければならないなんて、どれほどの不満があるだろう。それとも受けざるを得ないほどの事情があるのか。



 整えられていく仕度を見るたびに、どうしようもない不安がこみ上げる。



 逃げる事が精神的にも物理的にもできない自分は、結局の所彼らの望むまま嫁ぐだろう。見知らぬ男性の妻となる。どんな扱いになるのか、どのように思われているのか、それを考えるだけでも寄る辺ないのに、寝室を共にするかもしれないと思えば憂鬱にもなる。


 わたしの記憶では色んな情報が溢れていて、その中に性に関するものもしっかり含まれていた。経験こそなかったけれど、どのようなことが行われるかはしっていたらしい。

 でもそれは所詮異世界の知識に過ぎなくて、この世界では違う形かもしれない。違う意味になるのかもしれない、そう思うとどうしようもなく途方にくれてしまう。

 私を着飾る財貨ばかりが積み上げられながらも、私に対して嫁入りとはどういう意味なのかどんなことをするのか、それを教えてくれはしなかった。そういった書物も図書には含まれておらず、かといって忙しないメイドや執事に問う事は憚られた。

 きっと、嫁入り直前には教えてくれる。胸の中に立ち込める霧をそっと抑えながら、窓の外を見つめ続けることしかできなかった。


 一年という準備期間を経た十五歳の今日、私は長く暮らした屋敷を離れた。

 はじめての外出、はじめての風景、初めての馬車。

 見るもの感じるものがすべて新鮮で、淑女らしからぬほどにはしゃいでしまった。無口無表情の老執事がいかめしい顔を驚きに変化させているほどだったので、興奮が落ち着いてからは酷く羞恥に苛まれ顔を上げられなかった。


 嫁ぎ先はどうやらかなり離れた領地らしく、執事曰く六つほど他領を通過していく。私が暮らしていた領地のお隣は森に囲まれた美しい領地だった。その次に通ったのは雄大な湖と川によって交易の中継地となっている領地。その次は農業が盛んな領地。商業が盛んな領地。有名な魔術師の出身らしき領地。武に栄える領地。何もかもが珍しくて、最初の羞恥心すら忘れて執事に領地の話をねだった。


 その熱心さはともすれば迫り来る現実からの逃避だったのかもしれない。



 とうとうお相手の領地に入ったと知ったとき、知らず両手を握り締めていた。

 この時になっても誰一人として嫁ぎ先の事を教えてはくれなかったし、どのような方なのか、どれくらいの年齢なのか分からなかった。

 不安は募り、怯えすらあったかもしれない。

 あの屋敷にいた老執事と庭師、そして父と弔問に訪れた二人の青年貴族しか男性と会ったことがないから。

 なにより私はまだ幼い。デビュタントもしていない未成年の少女で、身体も心も未成熟だった。そんな自分が妻となる。その役目の如何も知らないのに?

 分からない事は怖い。でも、分からないからこそ夢を見られる。幸福な、ハッピーエンドを。



 いつの日か、きっと――……。



 立派なお屋敷だった。

 住んでいた領地の館よりも何倍も大きく、優雅で、美しい。

 繊細で流麗な細工が施される門扉の前には洗練された兵士が直立不動で構えており、通り抜けた先で一部の隙のない雅やかな庭園が出迎えてくれた。

 白亜の城。

 物語でしか知らない存在がそこにはある。

 老執事より幾分か若い執事とメイドたちが玄関ホールで歓迎を示してくれた。執事が儀礼的な挨拶をすると、流れるように迎え入れられる。

 私は一度長く側にいた老執事を振り返った。屋敷の玄関口で見とれるほど流麗に頭を垂れる彼に、どうしてだか心がかき乱される。もう、二度と会えないのだ。それがとてもさびしい。

 後ろ髪引かれる想いをしながらも、私はいわれるがまま城の奥へと歩みを進める。

 落ち着いた臙脂色のカーペットが示す先に、私の旦那さまとなる方がいらっしゃる。


 その方は誰の目にも優れた紳士だった。

 月の光を混ぜ込んだような金の髪に、アイスブルーの瞳。鼻梁は高く整っていて、芸術家によって作られた彫刻もかくやとばかりの容貌。纏う衣服も洗練された格式と威厳に満ち、仕草の一つとて支配者のそれであった。

 けれど。ああ、けれど。

 私は言葉を失い、かの方と対峙していた。

 彼は似ていた、似すぎていた。私の初恋の君。私の痛みの思い出。あのうつくしい青年貴族がずっと年を重ねればこの様になるのだろうと思わせる男性。



「お初に御目にかかり申上げまする、王妹殿下」



 深みのある玲瓏とした声音で彼は微笑む。

 夫となるらしい紳士は私をエスコートして用意されたソファーに座らせると、向かい合うようにして正面に移動する。

 そうして語られた事はどれも初めて聞くことばかりだった。



 紳士はこの国有数の大貴族の前当主であり、つい先ごろに引退した元宰相閣下であるらしい。彼には後を任せた息子と嫁いだ娘がいて、彼らにも子がいるため跡継ぎに不安がなかった。

 妻だった女性は十数年も前に病で没しており、独り寂しく余生を過ごすことを嘆いて後妻を探していた所、国王陛下からこの婚姻を打診されたそうだ。

 彼はそれを受けた。

 三十以上も歳の離れた娘を後妻にするのは外聞が少々悪いけれど、その血筋が正真正銘の王族である事、現在の政治情勢、王家の慣習などをふまえ不利にはならないと判断したと言う。



 殿下にはこの様な老人で申し訳ないとは思いますが、悪いようにはいたしませぬゆえ。



 実年齢を知っても少しも損なわれる事のない魅力的なかんばせを笑み形作りながら、氷河のような瞳が拒絶を許しはしない。

 もとより私に拒否権は存在しないのだ。私にできることなんて、その言葉がどうであれただ粛々と頷くことだけ。

 そんな私を満足げに見つめ、一枚の書面を差し出す。それは婚姻を受け入れるための誓約書で、二つある書名の欄の片方は既に美しい手蹟の名前が記されていた。

 促されるまま己の名前を書こうとして、手が止まる。

 不審に目を細める紳士に、ほんの少し申し訳なく思いながらも正直に己の名前を知らないことを伝えた。

 瞬きほど呆気に取られる様に座りの悪い気持ちになりながら、今までの呼称が両親からの「我が愛しの娘ミスティーナ」と「お嬢さまレディ」だけだったため正しい名前が分からないのだ、と。

 なんと書けばよいのでしょう、そう夫となる方に伺わねばならない己の不明が無性に恥ずかしい。


 お手本の教材のように整った文字を見ながら、初めて知った長い名前を綴った。

 見知らぬその羅列が本当に自分の名前なのか実感はない。それでも真実であれ、偽りであれ、その名前の女が目の前の紳士の妻となる。

 完成した誓約書はすぐさま私の手を離れ、出迎えてくれた件の執事が何処かへと運んでいった。

 その後姿をぼんやり見送って、夫となった彼に視線を戻す。


 かの人は私の視線を悠然と受け止めながら共に暮らしていく上での必要事項を語っていく。曰く、この白亜の城は彼が長く君臨していた領地にある別邸の一つで、これからの二人の拠点となるらしい。ゆえに女主人となる己の好きなように差配して構わないし、どのように過ごしてもよい。ただし、外出する時は許可をえること。それだけを守ってくれれば口出しはしない、と。

 はい、とそれ以外の言葉は私には返せない。貞淑で夫に忠実な妻らしく、そう応える事しかできない。



「落ち着いたら息子たちを紹介しましょう。私めには二人の息子と一人の娘がおりまして、どれも伴侶と子がおりますので全員と面通しするのは時間がかかるやも知れませんがね。ああ、そうです、次男の長男は既に殿下はお会いでしたからそれ以外の者を引き合わせましょう」


 やはり、とひとりごちる。

 彼の仕草、声、顔かたち、どれをとっても脳裏に一人の青年が過ぎってしまう。だからきっと、血縁なのだろうとは思っていた。

 しくりと胸の奥が痛む。

 ああ、どうやらまだ、失恋の記憶は褪せてはいないらしい。


 夫となった人は微笑んでいる。洗練されて一部の隙もない、貴族的な微笑。彼は、私のこの愚かな残滓を知っているような気がした。知っていて未だ膿み苛む傷跡をじっと監視している。幼い無知が暴走しないように。その暴走が己が周囲に災厄をもたらさないように。

 私は再び、はい、と頷いた。はい、旦那さまの仰せの通りに。

 その返事は彼を満足させるに足るようだった。重畳とばかりに鷹揚と頷かれ、鮮やかに笑みを刷く。


 私たちはそのまま解散し、メイド達の案内の元用意された自室へと向かう。

 女主人が過ごす部屋はかつて過ごしていた自室よりかなり広く、専用のクロークルームや音楽室などもあった。

 持参した荷物は既に片付けられており、たいへんすわり心地のよいクリーム色のソファーに腰を落ち着けメイドたちの紹介が真っ先に行われる。

 メイド、と内心で読んでいた彼女たちが正しくは家政婦と侍女であると知れたのはこの時だ。メイドと侍女と家政婦は階級も職務範囲も全く違うもので、女主人はそれらを把握していなければならないのだと言う。

 私がデビュタントもしていない十五歳の小娘である事と、今までの生活環境からその無知は咎められることはなくおいおい知識をつければいいと慰めの言葉をもらった。

 彼女たちは祖父ほどの年齢の男性に嫁がざるを得なかった私に同情的で、けれど職分から逸脱するほどの情は持っていないらしい。かわいそうに、でも大旦那さまがお相手というのは好条件だった。そう思っているのが伝わってくる。

 きっと、その通りだろう。かの人はとても貴族的で、紳士だった。悪いようにはしない、そう宣言したとおり実行してくれるだろう。


 けれど。




 夫婦というものが前世と今とでどのような違いがあるのかを私は知らない。だれ一人、夫婦のあり方というものを教えてはくれなかったし教材もなかった。ただ、夫のよきように、それだけが伝えられるのみ。


 身分ある者達のお屋敷には各個人の寝室以外に、夫婦専用の主寝室というものがある。そこで妻は夫の訪れを待つのだとか。

 そういう話を聞かされた直後、侍女たちに有無を言わさず上品だがリボン一つではだけてしまいそうな寝巻きを着せられてベッドに放り込まれた。

 今日は色々ありくたくたに疲れていたから、サッサと寝てしまいたいのが正直な所だ。しかし、私付きとなった年嵩の侍女にきつく夫が来るより前に寝てはいけないと言い含められていたので、必死に睡魔と戦っていた。

 そろそろ我慢の限界に達しそうな頃、ようやく彼はやって来る。

 すんなりとした寝巻きを纏う夫は、昼間見た支配的で高貴な印象をグッと和らげていた。


 ようやく眠れると喜びながらベッドに潜り込もうとする私を夫は制した。

 私は今生において夫婦のあり方も、婚姻の方法も何も知らない。宗教の有無も分からないし、この国の人々がごく当然と思っている慣習も理解できていなかった。

 かの人は私の隣に腰掛けて諭すようにいった。まだ、婚姻は成されていないと。

 この国において婚姻が成立する要素は二つ。昼に署名した誓約書と、破瓜の証明を教会に提出する事。

 夫の手が私の腰を抱えた。

 破瓜の証明、その言葉の意味が身体から熱を奪っていく。


 一般的に、デビュタントをしていない十代の令嬢というものは押しなべて未成年のくくりになる。この未成年という意味は自らの意思で進路決定をできないと言うもので、親から斡旋された婚姻や就職先を拒絶できないという意義をもつ。

 けれど私にとって未成年とは庇護の対象であり、性的な干渉に対してあってはならないと認識されているというものだと思っていた。なにより実際年齢は十五歳になったばかりの未成熟さで、とうてい色事をこなせる体型ではないのだ。

 だからきっと、そういう事はないのだろうと思っていたし、そもそも夫は五十歳という祖父ほどの歳。あるはずが無いと信じ込んでいた。

 なのに。


 無理だと言った。できないと。そんな小娘の悲壮な主張は笑顔でいなされて、熟練した手つきで頼りない鎧を剥ぎ取られていく。

 嫌だと叫び、怖いと泣いた。

 夫は優しかった。優しく丁寧で、けれど決して容赦はしない。

 怯える少女を宥めて、逃げようとする身体を抱きしめて、痛いと、苦しいと、やめてと懇願する涙を吸い取りながら小さな身体を拓いた。


 ――私を孫だと思いなさい。


 壊れた水路のように涙が止まらない私に夫は言った。

 あの人と似た顔で。あの人と似た声で。あの人と似た笑顔で。


 ああ、それはなんて残酷な言葉だろう。


 このまま呼吸が止まればいいのに。そうしてもう二度と誰の事も見ずにいられたら、誰の事も考えずにいられたら。

 夢があった。小さくて、馬鹿げていて、でも心から願った夢が。

 いつの日か、颯爽とヒーローが現れて私に求婚をしてくれる夢。その夢の中で私は愛するヒーローと共に結婚式をして、小さいけれど一家が住むのには十分な家に暮らして、子供を生み育てていく。愛しているとキスをされて、私も愛しているとキスを返す。幸福で、満たされていて、何一つ不安などない、そんな夢を見た。

 夢のように生きてみたかった。全部は無理でも、一部だけででもよかった。


 ああ、旦那さま。私の夫となる人。夢の中よりも年嵩で、お金持ちで、洗練されていて素晴らしい人。でも、私を愛してはくれない人。

 初恋の人の祖父で、それを熟知していて、代替に縋る事をすすめてくる冷徹な政治家。幼い身体をこじ開けた人、私に恐怖を植え付けた人、私の夢を奪った人。

 ただひたすらに現実を突きつけてくるひと。


 何もかもが終わって気絶から目覚めた時、側には誰もいなかった。

 きちんと清められた身体、整えられたベッド。何もなかったような静謐さなのに、強く痛む身体が事実を教えてくれた。

 冷たいシーツに雫が散る。


 転生したらきっとハッピーエンドを迎えられると信じていた。

 こうなってようやく目が覚める。ハッピーエンドなんて所詮は夢物語だったのだ。

 信じるから絶望する。期待するから裏切られる。ならば諦めてしまえばいい。

 私はもうどこにも行けないし、行く意味を見出せない。どうでもいい。どうせあとは消費するだけの惰性のような人生だ、諦めて流されて、そうしていつか来る終わりを待てばいい。


 私の夢は潰え、希望は泥にまみれて朽ち果てた。

 それが転生したわたしの知る私の結末。




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あとがき

王妹殿下

あらゆることに諦めていつか訪れる死を穏やかに待っている。15歳。


元宰相閣下

王妹殿下の夫。王家の慣習に従い幼い後妻を娶る。

物腰は柔らかだが怜悧冷徹な官吏であり、大貴族の頂点。

引退して家は嫡男に、宰相は後継に任せている。悠々自適な第二の人生堪能中。たまに相談役として働くこともある。50歳。


金髪の青年

王妹殿下の初恋の人。婚約者と仲睦まじい。元宰相閣下の孫でもある。

王の側近で王妹殿下の諸事情を把握している。一番祖父に似て怜悧冷徹な官吏。20歳。


赤銅色の髪の青年

王妹殿下の初恋を一から十まで見ていた人。不憫な人だと同情しているが、不穏分子になりそうなら即座に斬り捨てられる。

王の側近で近衛騎士。既婚者。懐が広く、実直。25歳。

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