寒梅雨

絶匣

寒梅雨

季節の変わり目とはいえど、生暖かいとも言い難い、まだほのかに寒さが残る春の雨のような。


雫の一つ一つが梅雨前の空気を冷やし、やや肌寒く感じる。


しとしとと降り注ぐ雨粒が舗装されたばかりのアスファルトに打ち付けると、それが何とは形容しがたいが、懐かしい匂いが優しく鼻を撫でる。


何度も繰り返し踏みつぶされる轍は楽しそうに飛び跳ねているが、バスは一向に来る気配がない。


その寒さは重ねた上着さえも貫く。


かの匂いは未だ辺りに充満しているが、私自身の時間へとは干渉しないようだ。


雨宿り、取り急ぎ隣人となった老人は何やら息苦しそうに咳払いをしている。


老いた咳に耳を傾けつつ携帯電話を手に取ると、電源を入れる暇もなくバスは定刻を過ぎて我々を迎えに来た。


今になって私は実感した。かの匂いはこの時間をほんの少しだけ短くしてくれたような気がしたのだ。


周囲の事ばかりに夢中になって、自分がどういう状況に置かれているかをスッカリと忘れていた。


数日の間、まともな食事は一切取らず、せいぜいスナック菓子とタバコで空腹を紛らわせていた自分が恥ずかしく思える。


思い付きで雨の中へと飛び出したはいいのだが、頭が回らない。


窓の外を見上げると、薄い夏雲の間から夕暮れ間際の黄色がかった空がのぞいている。この空気と空の表情が妙にミスマッチだ。


「日が伸びた。」と「雨が止んだ。」の思考が同時に頭を駆け巡った。


なんだ、まだ頭は回ってるじゃないか。


ガラスに取り残された水滴たちが風に流される様子に見とれていると、気づいた時には既に目的地の手前まできているようだ。


意識すると、赤信号というものはとても長く感じる。


ここまでの道のりよりはるか長く。


未だに軋む音を鳴らしながら動き続けているワイパーがそうさせているのかもしれないが。


程なくしてバスは終着駅へ停まった。


ほんの数十分前までとは打って変わって晴れてしまった空とは裏腹に、空気はまだ足枷をはめられたように重く感じる。


ああ、久しぶりの旅はここで終わりか。


そう考えると私は、馴染みの店へと足を運ぶのだった。


寒い寒い、梅雨空の下で。

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寒梅雨 絶匣 @Zetsubako

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