4:迷宮の魔女

 足首に絡みついていた黒い髪の束はいつの間に消えていた。けれど、どこか知らない場所が足元に見えてきた瞬間に、身体が重さを取り戻す。

 壁も床も黒一色で染められた円形の広間……その真ん中に私たちは落ちたみたいだった。

 スサーナちゃんとお互いに顔を見合わせて、無事であることを確かめる。それから、床に触れている手とお尻に感じる妙な感触に気が付いてうなずき合う。

 二人で小さく「せーの」と声を出して同時に床に目を向けると、なんだかもぞもぞとして、細い何かが蠢いているように見えた。


「「ひ……」」


 ばっと素早く顔を上げたスサーナちゃんが、同じように顔を上げた私ともう一度目を合わせる。蜘蛛に襲われても、泣き顔一つ見せなかった彼女だったけど、今は目にはうっすらと涙が浮かんでいるし、眉尻も可哀想になるくらい下がっている。

 多分、私も同じような顔をしてるはずだ。

 数秒見つめ合った私たちは、もう一度手元に感じた違和感を確かめるために、同時に手元へ視線を落とす。


「ひっ……」


「わ……あ……」


 手を急いで引っ込めて、素早く立ち上がる。

 スサーナちゃんの顔はすっかり青ざめている。それもそうだ。床に敷き詰められて蠢いていたのは誰のものかも分からない髪の毛だった。髪の毛は長く絡み合っていてどこかへ繋がっているみたい。

 蠢いていなくても嫌なものなのに、その髪の毛たちは芋虫のようにゆっくりと動いているのだから、余計に心の中にある「嫌だ」という本能を刺激してくる。


「ここは……」


 なるべく下を向きたくなかったので、下がりそうになる視線を上に維持しながら部屋を見回した。

 円形の広間は全てが黒く塗りつぶされている。壁にも何かが蠢いているのが見えて、スッと目を逸らす。

 天井へ目を向けると、紫色の炎が揺らめくシャンデリアがぶら下がっていた。


「Blant,ewch i mewn i'm croth」


 敵意と憎悪に満ちた声は同じ言葉を、癇癪を起こした子供のような勢いで乱暴にぶつけてくる。花畑の結界や、落ちている途中で聞いた声と同じ人物のものだろうか?

 身体を強ばらせるスサーナちゃんを咄嗟に抱き寄せて、声のした方向を見ると、壁際の天井すれすれの高さに、二つの紫色の光が灯った。

 紫色の光に照らされて、広間にいる何かの輪郭が浮き上がってくる。

 灰の上に落としたパンのような乾いた肌の顔、所々に深いひび割れが入っている上半身……そして、振り乱された長い髪の毛を巻き付けて補強してある左右の腕。

 歪なほど大きな左右の腕、その先端から伸びている指は、髪がぐるぐると巻き付いて鋭利な槍みたいに鋭く尖っている。


「Ewch,ewch i mewn i'm croth」


 目の前に立っている大きくて歪な女性は、耳まで裂けた口を歪めて笑った。


「これが……永遠に苦悶する魔女ヴァニタス


「ぴゃ」


 背筋を凍った手で撫でられたような悪寒が私を襲った。咄嗟にスサーナちゃんの胴を持ち上げて、脇に抱える形になる。そのまま後ろへ飛び退いて距離を取った。

 驚かせてしまったことに謝りながら、周りを見渡す。


「ジュジちゃん……あれ……」


 出口はどこにも見当たらない。

 スサーナちゃんのしおしおとした元気の無い声で、悪い報せだということを察しながら、彼女が指差した壁を見る。


「わあ……」


 悲鳴でも無ければ溜息でも無い何かが口から漏れる。

 壁には無数の蜘蛛が蠢いていた。迷宮の通路で出会ったものよりは大きくない。それでも狼ほどの大きさはある蜘蛛たちが、一斉に襲ってきたらひとたまりもない。それに、ここは魔女の支配する迷宮の中だ。きっと、どの蜘蛛もさっきみたいに倒してもすぐに蘇ってしまうはず。

 炎の魔法で全部焼き払えたら、少しはどうにかなるかもしれないのに……。大量の敵をなぎ倒す術のない自分を恨めしく思いながら考えを巡らせる。


「ジュジちゃん」


 スサーナちゃんの声で思考を切り替える。素早く目の前から飛んでくる黒い影から咄嗟に身体を反らす。

 鼻先を掠めていったのは、槍の様なものだった。危なかった……。スサーナちゃんが声をかけてくれなかったら、どうなっていたんだろう。嫌な汗が背中を撫でるように落ちていく。

 癇癪を起こした赤ちゃんみたいな叫び越えが聞こえて、目の前から更に二、三本の槍が私たちを目がけて飛んできた。


「防ぎます……!」


 スサーナちゃんを床に下ろして、背中側に庇う。

 それと同時に、自由になった両手を前に翳した。人の頭ほどはある薔薇の花が空中に浮かんで、黒い槍を受け止める。

 カティーアの障壁みたいにうまくいかない……。

 槍の一撃を受けて、ふわりと消えていく花弁を見て自分の力不足を感じながら、次々と襲ってくる黒い槍を薔薇の花で受け止め続ける。

 この槍は床を蠢いている髪の毛の一部を操っているみたい。それでも、床の髪が私たちの手足を巻き取る気配はない。

 床に敷き詰められている髪の毛全てを動かすことは出来ないのかもしれない。罠かも知れないから……と足元に注意しながら、私はスサーナちゃんをヴァニタスの猛攻からなんとか守ろうと全方位を警戒しながら薔薇の盾を出し続ける。


「trafferthus」


 三本の槍が少し離れた床から突き出してきて、こちらへ向かってくる。スサーナちゃんは私の背後にいる……抱きかかえようとしたけれど、盾を槍が向かってくる方向へ出すので手一杯だ。

 シャンデリアの光が遮られて、私たちの上に影が落ちる。何かと思って視線を向けると、私たちの上に、ヴァニタスの巨大な左腕が伸びていた。


「しまった」


 ゆっくりと下ろされる左手を防ぐ術がない……そう思ったとき、私の前に小さな影が躍り出た。


「スサーナちゃん?」


 私の前に出たのはスサーナちゃんだった。薔薇の花が槍を受けて散る。それと同時に急いで私の前に出たスサーナちゃんに手を伸ばすと、彼女は私の手を取って思い切り引っ張った。

 前につんのめって転んだ私の目の前で、バチバチと音がする。それと同時に青い閃光が辺りを照らして球状の空間を作った。甲高い悲鳴と共に、ヴァニタスが仰け反ったのがスサーナちゃんの背中越しに見えた。


「すごい……」


 青い閃光に弾かれたヴァニタスの左腕は、黒煙をあげながら引き下がっていった。

 スサーナちゃんは、自分の手首をさすりながら「護符で防げて良かった……」と小さな声で呟く。そして、床に転がっている私にぺこりと頭を下げた。


「転ばせちゃって、ごめんなさい」


「だ、大丈夫です。私こそ、あまりカッコいいところが見せられなくてごめんなさい」


「いえ、すごいです! 私のは……その、いただきものの護符を使っただけなので」


 チラリと服の袖から見えたのは、銀の台に乗せられたオパールに似た宝石。左右に小さな輝石が飾られている。大切そうにスサーナちゃんはそれを撫でると、にこりと微笑んでくれた。

 走るのも苦手そうだし、戦うことにも慣れていないと思う。でも、悲鳴を上げたり泣き出したりしないところは妙に肝が据わっているというか、トラブルになれているというか……。

 もしかして、小さい子供だと思ったけど、実は年上だったりするかな? 耳長族のみなさんは生後三十年はヒト族よりも成長が遅いって聞くし、そういう種族がいても……。

 ぐるぐると考え事をしそうになるのを、響いてきたヴァニタスの声が現実へ引き戻してくれた。

 言葉として成立しているのかわからないけれど、怒っていることだけは分かる。それはスサーナちゃんも感じたようで、顔を見合わせてうなずき合った。


「poenus! ffwl」


 ヴァニタスが、両腕を大きく動かして床へ叩き付ける。

 部屋が地震みたいに揺れて、よろけて転びそうになるのを床から出したツルを足に絡めて防ぐ。今度は、あの大きな両手が振り下ろされても、同時に何本槍が来ても絶対になんとかしてみせる。そう思いながら、スサーナちゃんの肩を抱き寄せた。

 すすすという布で床を撫でるような音が聞こえてくる。足元を見てみると、髪の毛たちが一斉に正面の壁に引き寄せられていくのが見えた。


「わ! つなみ!」


 スサーナちゃんが聞き慣れない言葉を使って小さく叫ぶ。その横で、私は言葉も出せないまま、こちらに迫ってくる髪の壁に目を奪われていた。

 一度だけ見たことがある。海嘯みたい。髪の海嘯だ。

 さっきスサーナちゃんが使っていた青い閃光に頼った方がいいのかな? でも、積極的に使わないということは、何か欠点や問題があるのかもしれない。頼りすぎるのは多分よくないはず。

 でも、花の盾では防げそうもない。迫り来る圧倒的な質量を目の当たりにして、頭の芯も手足の先端も冷えていくような感覚に襲われていた。

 とにかく、あの閃光が発動しなくても大丈夫なように、なんとかしなきゃ……。

 スサーナちゃんに覆い被さるようにしながら、自分の身体に障壁を纏わせる。


「見て下さい。……光が」


 ぎゅうと抱きしめていると、スサーナちゃんが囁いた。

 私も、視線だけ上を向ける。音も立てずに白く輝く光がどこからか飛んで来るのが見えた。

 三日月みたいな形をした光が、私たちの頭上を幾つも通り過ぎていく。

 光は、クルクルと弧を描くように回りながら、髪の壁をズタズタに切り裂いてしまった。


「すごい」


 青い閃光で左手が焼かれたときと同じように、ヴァニタスが悲鳴を上げて、それから聞き取れない声で何かをブツブツ呟いている。

 もしかして……。そう思って後ろを振り返る。

 そこにいたのは、見慣れない人だった。血のように赤いローブを身に纏ったとても綺麗で背の高い男の人。

 カティーアではない……と思っていると、スサーナちゃんは、私の横をすり抜けてその人に向かって駆けだしていた。

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