2:昼月色の子鹿

 咄嗟に、女の子の手首を取る。華奢で少し力を込めたら折れてしまいそうなほど細い。


「大丈夫だから、信じて下さい」


 こんなに大きな蜘蛛に向かっていくのは怖いだろう。安心出来るかわからないけれど、女の子にそう声をかけて私は彼女の手首から手を離さないまま蜘蛛へ向かって走った。

 大きな蜘蛛は、私の身幅よりも僅かに広い程度の通路では簡単に方向転換できないはず。

 予想通り、蜘蛛は身体を僅かに傾けたけれど、関節が通路の壁を削る。そのお陰で蜘蛛は、私たちをすぐには追いかけてこれないみたいだった。大きな身体を蠢かせて、狭い通路の中で反転しようとしている蜘蛛を肩越しに見て、私は再び前を向いた。

 女の子は、頬を上気させながら懸命な顔で走っている。後ろをチラチラと確かめながらも、悲鳴一つあげない。

 もう息が上がっている。そういえば……私も半分妖精になるこうなる前は、身体を動かすことが苦手だったな……と思い出しながら彼女の様子を確かめる。

 後ろから、何かが追いかけてくるかも知れないというのは、戦いになれていない子供なら、とても怖い。


「私が、足止めしますね」


 安心させるために、なるべくゆっくりとした口調で女の子に話しかけて、足を止めずに壁へ手を当てる。

 妖精は見当たらないけれど、魔素があるのならいつも通り念じれば大丈夫なはず。頭の中で道を塞ぐイメージをしながら魔力を壁に放つと、鈍い音と共に石畳を捲り上げて茨のツルが生えてきた。

 無事に通路を塞いでくれたツルで出来た盾の奥からは鈍い衝撃音が聞こえる。後方からバキバキと生木を囓るような音が聞こえてくる中で、私たちは細くて長い通路をひたすら走る。


「ど、どちらへ行けば……」


 二股の分かれ道に辿り着いて立ち止まる。女の子は、上がった息を整えてから、眉尻を下げた困り顔で私の顔を見上げた。

 胸に手を当てて、深呼吸を繰り返す彼女の額には汗が粒になって浮かび、綺麗な髪の毛が張り付いている。

 どうしよう……。左右の道を見ても似たような道があるだけだ。危険な気配もない……と思った瞬間に、右通路の先に黒いモヤモヤが見えた。モヤモヤはあっと言う間に蜘蛛の形になっていく。

 左へ進もう……と言おうとして、女の子の手を取る。それを見計らったように、左通路の奥にも黒いモヤモヤが現れた。


「……もう」


 思わず弱気な言葉が漏れる。左右を挟み撃ちにされていることに気が付いた女の子の手を僅かに引いた。彼女の手は、微かに震えている。

 咄嗟に両方の通路をツルで封じて、「大丈夫」と言ったけれど、その言葉は枝を一気に数本まとめて折った時のような音がかき消した。背後から蜘蛛の足音が近付いてくるのが聞こえて、私も女の子も顔を見合わせる。さっき私が作ったツルの壁がこんなに早く破られるなんて。

 こんな時、カティーアならきっとあんな蜘蛛なんてやっつけてくれるのに。下唇を軽く噛んで悔しく思う。

 せめて出来ることをしよう。女の子を自分の背後に隠す。こいつを倒して道を引き返そう。

 でも、この子はあんな距離を走っただけで息切れをするような普通の子だ。逃げ続けるというのは難しい。


「こちらへ来たまえ」


 ふいに、柔らかい響きの声で男性がどこからか話しかけてきた。

 女の子の目線辺りの位置に、拳大の橙色をした光が浮かんでいる。

 橙色の光は、仔犬くらいの大きさまで膨らむと短い角の生えた子鹿の形になった。


「付いておいで」


 子鹿はそう言うと、私たちの背後へ移動して、行き止まりの壁に軽く頭突きをする。

 壁に水面みたいな波紋が浮かんだかと思うと、壁が消えて、私たちがやっと通れる程の細い通路が現れた。

 通路の少し先まで進んだ子鹿が、こちらを見て立ち止まっている。


「……行ってみましょうか」


 ここで消耗戦をするよりはマシだと信じて、私は女の子の細い手首をそっと掴んだ。

 緊張した面持ちで女の子が頷いたのを確認して、私は子鹿を追うために前へ進む。

 静かな空間で、私たちが走る足音だけが響く。

 少し先の行き止まりで、子鹿は足を止めると、さっきみたいに壁に向かって頭突きをした。

 縦長の楕円状に空間が歪む。壁に出来た波紋は澄んだ青空と色とりどりの小さな花が咲き乱れる草原を映し出した。


「ここは、わたしが作った結界だ。入り口は長く保たない。早く入っておいで」


 女の子が私の手を少し強く握り返す。

 上目遣いでこちらを見てくる女の子に、微笑んでから深呼吸をして前を向く。


「何かあったら、ちゃんと私が守りますから」


 そう言いながら私が前に一歩踏み出すと、隣にいた女の子も緊張した面持ちで小さく一歩進む。

 息を止めて、壁の中へ足を踏み入れる。

 次の瞬間、足裏に柔らかな土と草の感触がした。

 後ろを見ると、確かにあったはずの楕円状の空間は消えていた。そこには真っ青な空しかない。

 花の香りと小鳥のさえずり……それに少し遠くには小さな川が流れている。これが結界だなんて、言われなければ気がつけない。

 

 するりと手を離した女の子が辺りを見回して、眼をキラキラと輝かせた。

 それから、ハッとしたように背筋を伸ばしたかと思うと、自分の頭をぺたぺたとさわりはじめた。


「どうかしましたか?」


「え、いや、あの……大丈夫です」


 ぴゃ! と小さな悲鳴のようなものをあげた女の子は、そう言うと小さく身を竦めた。

 不思議な子。そういえば、なんて呼べばいいんだろう?

 ここがどこなのか知ってるかもしれないし……。


「あ、あそこに建物がありますよ」


 彼女が、指を差した先には白い石造りの東屋ガゼボが建っている。その手前にはさっきの光る子鹿も佇んでいた。

 子鹿は、私たちの視線を感じたのかピョンと小さく飛んで東屋ガゼボへ向かって走って行く。


「あそこで座って話をしましょうか」


 女の子と再び手を繋いで、私たちは花畑の中に建っている白い東屋ガゼボへ足を進めた。

 六本の柱に支えられている円蓋状の屋根の下には、建物と同じ色で揃えられたのであろう白い石のベンチが置いてある。

 こういうベンチや東屋ガゼボは、魔法院や貴族向けの別荘の庭園などにあるのをよく見るので、少しだけ安堵する。

 ずっと気を張りっぱなしで疲れてしまっていたのもあって、休めることにホッとしながら、私はベンチに腰を下ろす。

 女の子も、スカートの裾を整えてゆっくりとした動きで私の隣へ座った。


「黒髪の乙女達、怖かっただろう? 君たちを助けられて、本当によかったと思う」


 光る子鹿は私たちが座ると、そう言って身体をブルルと震わせる。

 彼の身体から光の粒が水滴みたいに飛び散って、薄灰色の毛皮が見える。昼に見る月のような色で綺麗な鹿だけど……妖精なのかな?


「ありがとうございます」


「君たちは……姉妹かと思っていたが、ちがうようだね。とても珍しいことだ」


 私と女の子が同時にお礼を言うと、子鹿は薄い褐色アイボリーの短くて枝分かれのしていない角を見せるようにお辞儀を返してくれた。

 そして、毛皮と同じ色の睫毛に囲まれた月色の瞳で、私たちをしげしげとみつめてから、そう呟く。


「この髪のせいですか?」


 女の子が自分の髪を撫でて聞いてきた。それに対して、子鹿は頭を左右に振って「ちがうよ」と穏やかな口調で否定する。


「ここに引き込まれる魂は黒髪の乙女だけなんだ。だから、髪色のせいではないよ。魂の在り方だとか考え方が少々似ている気がしてね」


「魂……ですか?」


 嫌な予感がして、もう一度聞いてみる。

 肉体がある場所から離れてしまっているのなら、カティーアはここにはこれないのかもしれない。


「そう。君たちは魂だけの存在。難しい話はやめておこう。魂だと言っても君たちは転べばケガもするし、死ぬことだってある」


不思議な国のメルヘンな世界だと思っていたら、一気に深刻な話になってきましたね」


 深くて暗い穴の中に突き落とされたような、悲しい気持ちになっているのを表に出さないように耐えていると、女の子が、年の割に大人びた口調でそう言って、キュッと膝の上に置いていた手を握りしめた。

 それから、彼女は私の顔を、宵闇色に染まった綺麗な瞳で覗き込んでくる。


「あの……先ほどは助けて下さってありがとうございました。失礼では無いのならお聞きしたいことがあるのですが……」


 女の子は、少し口ごもった後に、背筋をピンと真っ直ぐに伸ばしながらそう前置きをする。

 胸元に手を当てて、息を深く吸ってから、彼女は再び口を開いた。

 魔法について聞かれるのかな……。本当のことをどこまで話して良いんだろう……。自分の表情から笑みが消えないように気をつけながら、あれでもないこれでもないと言い訳が頭の中をぐるぐると巡る。


「お姉さんは、鳥の民なんですか?」


「とり……?」


 真剣に聞いてくれた女の子の口から出たのは全く知らない言葉だった。拍子抜けした私は、思わずその言葉を繰り返す。


「あ、違うんですね! ごめんなさい。その……こちらでは魔法を使うといえば、鳥の民みたいなところがありまして……ええと」


 わたわたとして、手足をパタパタと動かした彼女は頭を思い切り下げた。

 彼女的には何か失礼なことを言ったみたいだということだけはわかる。


「ええと、自己紹介をしましょう。私はジュジ。鳥の民というものではないけれど、魔法を少しだけ使えるの」


 さっき蜘蛛の前にあった蒼い光……あれは彼女の気配と非常に近かった気がするのだけど……。

 手から薔薇の花を一本出して、彼女へ手渡す。

 ピンク色の薔薇を手に乗せられた彼女は「わあ」と年相応の笑顔を浮かべてから、ハッとした表情になって姿勢を正した。

 その様子が可愛らしくて、思わず頬がほころんでしまう。


「私は、スサーナと言います」


 ぺこりと頭を下げてお辞儀をしてくれた彼女の耳に、さっき魔法で作った薔薇を付けてあげる。さらさらとした手触りの髪は絹みたいに細くて艶がある。


「スサーナちゃん、よろしくお願いします。あなたは、鳥の民だったりするのですか?」


「あ……その、私は混血で、魔法もあの……使えないです」


 目を伏せたスサーナちゃんの頬に影が落ちる。

 しゅんとしてしまった彼女の表情は、嘘を吐いているようには見えない。言いにくい事情のようなものはありそうだけど……それはこちらも同じだ。

 あの蒼い光は、彼女が無意識に出したものなのかもしれない。そう結論付けをして、私はしょんぼりしてしまったスサーナちゃんの手をそっと取った。

 顔を上げた彼女に、なるべく優しく微笑んで手を胸の前へ持っていく。


「私も、魔法を使えると言っても、まだまだ修行中で、こういうことくらいしか出来ないのですけど」


 両手で水を掬う時のような形にして、スサーナちゃんが差し出した手の上に乗せる。彼女は気になるものを見せられた仔猫みたいに、そろそろと手の中を覗き込んだ。


「わ……すごい」


 手から溢れさせたのは、胡桃くらい小さい薔薇の花。黄色、橙、赤、白と色とりどりの小さな花たち。スサーナちゃんの両手から零れ落ちた花たちは、彼女のスカートの上に音も無く落ちていく。

 きらきらとする薔薇色の光を放ちながらゆっくりと消えていく薔薇の花を、目をキラキラさせて見ているスサーナちゃんの髪を撫でながら、静かにこちらを眺めて佇んでいる子鹿に話しかけた。


「ここは、どこなんですか?」


 私たちが魂だというのなら、多分ここは私がいた世界ではないはずだ。

 子鹿は、昼の月みたいな毛皮を震わせてから、毛皮と同じ昼の月みたいに薄い色をした瞳で私たちをまっすぐ見据えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る