だからときを止めないで

詩一

【前編】迎えたくない朝

 どうやら冷凍庫の中に入れておいた目覚まし時計は7時には鳴るべくして鳴ってしまったようだ。キッチンから駆けてくるズドズドと言う音。母の足音が枕を貫通して少年の鼓膜を揺らした。


「ミノくん! どうしてこんなことするの!?」


 名前を呼ばれて顔を上げた少年の表情は暗かった。あの、いたずらがバレてしまったときの子供特有の恥ずかしさを孕んだものではなかった。悲壮感すら漂うそれに、母の上がっていた眉尻がスッと元の位置に戻った。穏やかでやわらかいたんぽぽのような——本来の顔つきを取り戻す。


「どうしてこんなことをするの?」


 母は語調を弱め、膝を突き、少年——みのりの視線に合わせて問うた。稔は側溝の下に落として取れなくなってしまったビー玉を見るようなまなざしで、自分の掌を見つめた。それからおよそ小学生とは思えないほど重苦しいため息を吐く。空気が流れたあとには諦観さえも滲むほどの。


「時間を止めたかったんだ」


 母はキョトンとした。それから弱々しく息を吐き、稔の頭を撫ぜた。


「時間は凍らないのよ。だから冷凍庫に入れないでね」


 そう言って冷えた目覚まし時計を枕元に置いた。汗をかいた銀色のベルに、稔の顔が歪んで映る。


「わかった?」


 稔はコクンと頷きを返した。




 実はこの行いは今回だけのことではない。冷凍庫に入れてみると言う方法を取ったのは初めてだったが、それまでにもいくつか手段を変えて試していた。


 時計を壁側に向けて一切見えなくしてしまう方法。これは朝になりベルが鳴ってしまったことで、時間が停止していなかったことに気付かされることになった。


「時間は見ていない間にも進み続ける頑張り屋さんなのよ」


 まったく迷惑な頑張り屋さんだと歯噛みした。


 寝る前に時計の針を10時間戻しておく方法。これもベルが鳴ったことで失敗したことを知った。のみならず朝5時にけたたましく鳴り響いたため、隣で寝ていた母が寝不足になると言う事態に陥った。


「時間は巻き戻すことは出来ないのよ」


 なんて冷酷な奴だと鼻息を荒くした。


 電池を抜いてしまう方法。抜いた瞬間に針が止まりついに成功したと思って布団に入ったが、朝にはベルが鳴り、見ると元通りに動いていた。前日に針を弄ったせいで時計の調子が悪いと勘違いした母がそもそも電池を変える気でいたらしい。そしたら電池が抜けていたのでめ直したのだとあとから聞かされた。


「時間は知らない間に追いついて来るのよ」


 騙されたと地団駄を踏んだ。


 こうして稔の数々の実験は、ことごとく失敗に終わって来た。




 落胆しながらトーストをかじっていると、向かいに座った母がみのりの顔を覗き込んできた。


「ミノくん、夏休み終わるのが嫌なの?」

「うん」

「そっか。学校でなにか嫌なことあった?」

「んーん」


 首を振る稔に母は眉を困らせる。


「お母さんに秘密にしたら嫌よ? いじめられたりとかしてたら絶対に教えてね」

「だいじょうぶ」

「そう。なら良かっ——もしかして宿題全然やってないとかじゃあないでしょうね?」

「それはないよ! ちゃんとやってる」


 母はホッと息を吐いて、椀のスープをすすった。


「じゃあ」

「ん?」

「どうして時間を止めようとしたの?」


 稔は牛乳を飲んでトンとテーブルの上に置くと、奥歯を一度だけ噛んでから母から視線を逸らした。沈黙が落ち、換気扇とクーラーの音だけに室内が満たされても、母から口を開くことはなかった。自分の言葉を待ってくれているのだと思い、稔は言葉を落とした。


「おかあさんがしんじゃうのがやだったから」


 母は瞬間顔を強張らせ、それから「ははー」とため息を吐いたあと「まいった」と零した。


 母は1週間後に手術を控えていた。それがちょうど夏休みの終わりに重なる。本当はもう入院しておいた方が良い頃だったが、母はまだ入院していない。それが息子と一緒に居たいがためなのだと言うことは、稔もわかっていた。叔父と母との電話でのやり取りを聞いたから。叔父は母のことも稔のことも心配している様子だった。大人の男性の不安そうな声色は、稔の恐怖心をあおったが、それよりも「大丈夫よ。心配しないで」と言う母ののんきな言葉の方が数倍怖かった。ある日辛そうにしていた母に向けて「だいじょうぶ?」と声を掛けたときも同じ口調で同じ言葉を返してきた。しかしその日の仕事中に母は倒れて病院に担ぎ込まれた。なにが起きたのかさっぱりわからなかったが、叔父から母が病気であることを告げられた。


「そっか。ミノくんはお母さんを助けようとしてくれてたんだね。ありがとう」


 でも、と続ける。


「お母さんは時間が止まっちゃったら嫌だなあ」

「どうして?」

「ミノくんがずっと2年生のままじゃあない? ミノくんが3年生に成れないなんて、嫌だなあ」

「でもおかあさんがしぬよりずっとマシだよ」


 母親が生きることと自分が成長すること。その2つを天秤に掛けたとき掲げられるのは己の成長だ。母が生きてさえいてくれれば自分は子供のままでもいい。これは甘えではないはず。


 母は苦笑いをしていたが、それをどんどん深めて行き、ついには深刻な面持ちになった。


「今までミノくんに嘘吐いてたんだけど、許してくれるかな? それで、本当のことを聞いてくれるかな?」

「なに?」

「お母さん実は今、とっても苦しいの」

「え! そうなの?」

「そう。だからこの苦しい状態がずーっと続くのは嫌だなって思うの」


 稔は深刻な顔で何度も頷く。


「だからときを止めないで。毎日朝を迎えて。夏休みが終わったら学校に行って、友達と遊んで、勉強して、3年生になって」

「でもそしたらおかあさんが」


 不意に手が包まれた。母の細くしなやかな指が、稔のやわらかな手を覆う。やさしいのにそれでいて力強い。


「お母さんは手術をして病気を治すの。そのためにもまずは明日にならなきゃ。明後日にならなきゃ。ときを止めたら手術も出来ないでしょ?」


 稔は視線を返してコクンと頷いた。

 母はそれから稔に『時間のことわり』を滔々とうとうと語った。

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