SF・ファンタジー・怪異・非日常系
幻覚
とうとうわたしは、おかしくなってしまったらしい。
「よおっす、元気? 俺は元気だよ」
玄関の戸を開けたその先に、ひどく能天気な調子の彼氏が片手をあげて立っていた。
それがなんだと思われるかもしれない。もう二年以上も付き合っていたのだ、お互いに子どもでもない。家にあげ、泊めたことだって幾度もある。無論、愛想をつかされたとか冷めてしまったとかいう事情も存在しない。
いや、この場合、むしろそれが問題なのか。擦りすぎて痛くなってしまった下瞼をおさえながら、ガラガラの声でやっと答える。
「元気なわけ、ないじゃない」
わたしも、そしてあんただって。
「あんた、死んじゃったじゃない!」
わたしの恋人は、四日前に死んだ。もともと病弱だった彼は、なんたらとか言う発作を起こしてあっさり天に召された。通夜やら葬式やらを終え、やっと一息つけたのが昨日。忙しすぎて流す時間のなかった涙が、遅ればせながらおいでなすって、一日雨の中に沈んでいた。
溜め込むと心が壊れてしまうというし、あれだけ泣けばどうにかなるかと、錆びついた心を空回ししていた折に鳴ったインターホン。それに出た結果がこれである。今さら涙も出てこない。
大きな声を出したら疲れてしまって、わたしは彼の形をした幻に背を向け部屋へと戻った。
「え、それだけ? 感動の再会とかは? あと、玄関を開けっぱなしにするのは感心しないなあ」
幻聴がぼやく。次いで戸が閉まりご丁寧に錠がまわる音がした。ああ、どこまでが幻なのだろう。わたしが無意識のうちに鍵を閉めているのだろうか。
妙な自己分析にばかり思考が向かう。
ベッドに横たわるわたしの前に、どすんと彼が腰を下ろした。いや、彼の幻視が。
「出てきなさいよ。ここはわたしの家だ」
「俺の彼女の家さ。それに、言われるまでもなくこうして出てきたじゃないか」
ひゅ~どろろ、ってね。と彼は両手を垂らして揺らす。軽口は死んでも治らなかったらしい。死んでもというか、これは幻なわけだが。もう少しかっこいい彼を妄想しなさいよわたしの頭。
応じなかったわたしに、彼は唇を尖らせた。
「あ、さては信じていないな? よしいいだろう。『わたしの幻覚だあ』と嘆く君に、君が知らない君の秘密を教えてあげよう」
ありがちな展開だ。昔彼にすすめられたマンガに似たような話があった気がする。まったくどうしようもない。たしかあの時の筋書きは、結局、自分でも忘れていただけで知らない事実ではなかった、という救いのないものだった。
出来のいい幻覚だが、やはりそれが限度か。
ともかくも彼(?)は語る。
「実は以前、君が寝ている間に、君のほくろの数を隅々まで数え……」
「なんてことしてんのよ!」
投げた枕は明後日の方向へ飛んで行き、戸棚に当たって派手な音を立てた。
「わお、はずれー」
彼は驚きに首をすくめつつも呑気に言う。
くっそ悔しい。しかし手近にあるもので他に投げられそうなものもなく、苦し紛れにベッドへ顔をうずめて叫ぶ。
「あんたなんか嫌いだ!」
叫んで、すぐに後悔した。その言葉はたとえ幻覚相手にだろうと言ってはいけないものだった。いつもの彼だったらすぐに何か言い返してきそうなものなのに、何の反応もなかったのも怖かった。
顔を上げられぬうちに、ふと彼が立ち上がる気配を感じた。それともわたしがそう思ったから彼が動いたのだろうか。
「……よかった」
上の方からそんな彼の呟きが降ってきた。悲しんでいるようにも、そしてなぜが安堵しているようにも聞こえ、とっさに視線が彼の姿を求める。
彼は枕の当たった戸棚の前に移動していた。倒れてしまった本や小物を並べなおしているようである。
背を向けたまま、彼は言う。
「化けて出てきておいてあれだけど、早く俺のことなんか忘れなよ。今日はまあ、その、忘れ物を取りに来ただけなんだ」
「いきなりなに言ってんのよ」
「まあまあ、怒らない怒らない」
振り向いた彼は片手に小さな黒い箱を持っていた。上下に開く、アクセサリーケースみたいな箱だ。はて、わたしはそんなものあそこに入れておいただろうか。
「なにそれ」
尋ねなければならない気がした。
しかし彼は素知らぬふりでそれをズボンのポケットにしまう。
「それじゃあ俺は、未練もなくなったので行きますね」
「待ちなさいよ。何を盗むつもり」
「盗むって。まだこれは俺の」
困り顔の彼はしかし、わたしの無言の圧力に根負けして、はあ、と肩を落とした。渋々とポケットに手を入れる。
「実はね。サプライズのつもりで前もって隠してあったんだ。意味なくなっちゃったけど」
言って、箱を開けた。中に入っていたのは一組のペアリングだ。
「俺のこと、嫌ってくれていいから。だから君は、これから幸せになるんだよ」
何も答えられぬうちに、パタン、と箱が閉じられた。彼は踵を返し玄関へ行ってしまう。
追いかけなければ。それが分かっていても体がうまく動かない。
わたしの知らない事実、その何よりの物証はそれじゃないのかと、見当違いの文句が思考を過る。それを真っ先に言えばいいじゃない。いいわ、信じてやる。あんたはまぎれもなくわたしの彼氏だ。幽霊は存在したんだね、わーお。
「……待って!」
やっと声が出た。彼はもう既に玄関へ消えているし、鍵を開ける音も聞こえる。
けれどドアノブの回る音は続かなかった。大丈夫、彼は待ってくれている。足をもつれさせながらも後を追う。
「どうしたの?」
ノブに手を掛けながら、彼は振り返って言った。なんてことなさそうに小さく首を傾げて、「大丈夫?」とかわたしを気遣う言葉まで掛けてくる。
「どこにも、行かないで」
「……」
「ねえ!」
「できないよ」
終始ゆるい表情だった彼の顔が、初めて歪んだ。
「できない」
繰り返すその一言は、わたしに反論を許さないほど重く響く。
枯れたはずの涙がこみ上げてくるのが分かった。唇を噛んで、嗚咽も疑問も我儘も、出ていきそうになるいろんな声を我慢する。彼の顔を見たらそれ以上何も言えるわけがなかった。離れたくないのは、わたしばかりなわけがないのだから。わたしたちは相応の時間を一緒に過ごしてきたのだから。
ふぅ、と彼は息を吐く。それは微かに震えていた。
「本当は、謝りに来たんだ。こうして会ったら怖くて言い出せなかったんだけど、やっぱり言わなくちゃだよね」
ごめん。彼は言った。
「君と一緒にいたかった。ずっと一緒にいるつもりだった。……ごめん」
「そんなこと……!」
たまらなくなって抱きつこうとしたそのとき。
彼が突然ドアを開け放った。西日が真正面から差し込み、あまりの眩しさにわたしは体を反らして目を瞑る。
まぶた越しの輝きの中、彼の気配が急激に薄れてゆくことをほとんど直感で感じ取っていた。慌てて手を伸ばすも、それがむしろ彼を遠ざけるようだった。
幸せに、とその一言だけは聞こえた気がしたが、果たしてそれは本当に聞こえたものだったのか。
次の瞬間、目が明るさに慣れたころにはもうすでに、そこにはどんな人影もありはしなかった。いくら目を擦って涙を拭ってみても、どこにも彼はいなかった。まるで最初からそんなもの存在していなかったみたいだ。
あるいは、本当に、全てが幻覚だったのかもしれない。確かめる術はもう、ない。
力が抜けてしまって、その場に尻をつく。いきなり現れて、いきなりいなくなって。身勝手にもほどがある。
だからわたしは誰にともなく、精一杯の悪態をつくのだった。
「お前なんかいなくったって! 幸せに、なってやるし!」
黄昏時が、音もなく終わる。
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