嫉妬

 私の彼は、誠実とか真面目とか、そういう形容がよく似合う人格の持ち主である。

 付き合って一年、悲喜交々に清濁併せ呑み、長所短所を様々見つめてきたけれどその印象が大幅に変わることはなく、つまるところ下方修正はともかく上方修正もさしてなされぬまま、今に至っている。

 長所はさておき、取り立てて短所も思い浮かばぬ彼ではあるけれど、一つ、その特徴として、やや情に流され易くあることはあげねばなるまい。状況に応じてそれが善悪どちらに転ぶか、分からないことが悩みどころな特徴だ。

 そういうわけで。

「ごめんなさい」

 とある冬の日曜日、お勉強会などという建前のもと、体よくわたしの自室でおうちデートをするべく部屋に入ると、開口一番に彼はそう言った。

 開口一番というか、入室一番、わたしが渡そうとしたクッションを受け取るよりも早く、唐突に頭を下げたのである。そうしてそのまま上げようとしない。

 わたしが何を言った訳では無い。彼が何か、わたしにとって、あるいはわたしたちにとって、都合の悪い行いをしたのであろうことは先の一言で察するにあまりあるけれど、しかし、心当たりなど何一つなく、態度に出るわけも無かったはずだ。

 彼は、誠実で真面目な人間であるのだから。そうそうに不義理はおかさない。謝るのなら、彼ではなくわたしが謝った方が、まだしも場の収まりがよいくらいである。

 金曜日は何事もなく、わたしの家の前で別れた。つまりはその日の夜か昨日、土曜日に何かがあったのか。

 その故を問うべきか問わぬべきか。わたしは彼のことを、ほぼ全面にわたって信頼している。別れ話さえも、するなら迂遠な言葉など用いぬだろうと思うほどに。

 そうであるのだから、わざわざ、ともすればわたしの心に荒波立ちかねないことを問いただすことなどせず、文字通り不問に処すのが最適解なのではないかと思える。徒に自身を傷つけるような、そんな趣味は持ち合わせていない。

 とはいえそれはわたしにとっての最適解であって、わたしたちにとっても、ましてや彼にとってもそうであるわけがない。あくまでわたしがわたし中心に考えた末の答えである。

 彼の立場からすれば、わたしへの贖罪を果たしたいと思ってくれてもいるのだろうが、罪の告白をして心の重荷を取り去りたいと、そんな思いがないでもないだろう。

 だからここは、わたしがぐっと堪えて聞いてやるのが彼にとっての最良というもの。聞いたあとで喧嘩をするやもしれぬことを含めて、それが彼にとっての最適解だ。

 ではその折衷案とは。

「と、とりあえず座れば?」

 思いつかなかったから、答えを出すのは先延ばしに。不問にせず、されど告白するでもなく、それも一つの折衷案ではと内心詭弁をならべつつ、クッションを彼におしつける。

 若干の躊躇を挟んでからようやくそれを受け取り、彼はそのまま土下座をした。いや、座れば、ってそういう意味ではないのだが。クッションの上に座ることで相対的に頭をさらに低くできるではないか、とか意地の悪い発想をわたしがしてしまったような展開の運びはやめていただきたい。

「ちょっと、やめてよ」

 いやもう、ほんとうに。どうして額を床に擦りつけているのか。それは否定の意? それともただの土下座では足りないとでも思っているの?

 どちらにせよどちらでもないにせよ、その真意をこちらが理解できぬまま状況が進んでゆくのは、彼とわたしと、双方にとって益がない。というよりもはや損しか生み出さない。彼がその姿勢を崩さぬというのなら、ここはやはり、わたしが折れる他ないのだろうか。

「やめて、分かったから。なにがあったの。話してほしいから頭を上げて」

 他人と話すときは相手の目を見るべきだ。そんなお小言は彼の口癖とさえ言えよう。普段わたしがよく言われてしまうそれを逆手にとれば、それでも何か、重いものでも背負っているかのようにぎしぎしと、軋みが聞こえてきそうな遅さでようやく顔を上げた。

 上げたと言っても、いつものそれと比べればまだ下を向いているようで、ぎりぎり目が合う程度。わたしが下から覗き込むと、珍しいことに僅かに目を泳がせていた。

 いったい何が、彼をここまで追い詰めているのか。聞こうと決めた直後ではあるけれど、その決意が鈍る。鬼が出るか蛇が出るか、そんなふうに身構える。

 しかし根本に立ち返ってみれば、そうは言っても彼の行いである。品行方正が常の彼なのだから、ほんの些細な出来事であっても過剰に捉えている可能性の方が大きいのではないか。

 なるほどそれはあり得る。思い返してみれば、以前にも一度同じようなことがなかっただろうか。あのときの拍子抜けした安堵と言ったら、一周回って怒りさえ湧いたほどであった。

 まあ、あのときも、ここまで頑なな態度ではなかったはずだが。

 わたしが一応の納得をしたところで、彼はようやく、僅かに口を開いた。律儀にも待ってくれていたらしい。

 そうして彼が言うことには。

「他の女の子を抱きました」

「……は?」

 なんだって?

「だから、俺が、他のお……」

「いや、いい。言わなくてもいい」

 ふむ、これは予想の遥か上を行くセリフだぞ。彼に限ってそんな悪質な冗談を言ったりはしないと、そう信じられてしまうのがかえって空しい。

 冗談でなければわたしの深読みなのではないかと、現実逃避のような思考もめぐるが、いくら彼でも、ただ誰かを抱きしめただけでここまで重苦しく謝罪を言ったりすまい。

 だから、つまり、そういうことなのだろう。それならば確かに、彼のこの態度も大いに納得できた。そんな罪の告白をするとなれば、誰だってこれくらいのことはしそうなものである。

 尤も、それほどのことがあった事実を恋人に告げようなどと思う者がどれだけいるのか、それは分からないが。というより普通は言わないのではないか?

 浮気、だろうか。わたしでは物足りなかった? それで他の子に手を出して、具合が悪かったから、あるいは一時の感情と思い直したから、わたしに戻ってきた?

 どうにもそれはピンとこない。この一年で見てきた彼の人間像と重ならない。彼の愚直なまでの真面目さは、甲斐性とは対極にあるものだ。そんな彼に、それほどのことができる器用さも、酷いことを言えば度胸だってなかろう。

 しかし同時に、彼はとても、情に流され易いのだった。それを思うと彼の裏切り行為とも呼ばれかねない行いが、どのようにして起こってしまったのか見えてくるようだ。彼には男女境なく友人が多い。むしろ今までよく起らなかったものだと、おかしな感動さえ覚えるほどである。

「……相手は?」

 その問いに対する答えは、彼の幼馴染。軽い女だなんて影で囁かれるほど恋人をとっかえひっかえしている、彼の元恋人でもある名前だった。

 その実、単に男を見る目が無いだけの、根はむしろ善良な人間であることを彼経由で聞いていたからそれほどの嫌悪感を覚えることはないが、なるほど、あの子が相手か。

 彼とはもうとっくに別れているあの子であるが、かといって二人が疎遠であるかといえばそうでもなく、幼馴染ゆえに頻繁に顔を合わせているらしい。男を見る目の無いあの子が、偶然にも引き当てた当たりくじは、既に手放されている。今さら返却せねばならない理由はないが、わずかばかりの情で貸与えているわけだ。

 相手があの子なのであれば、なおのこと、どうしてこのような結果になったのか予想がつきやすい。

 言い訳はしないつもりなのか、それ以上の言葉を続けず断罪を待つ面持ちの彼に、意識して軽く言ってみせた。

「どうせ、寂しいって泣きつかれたんでしょ?」

 言い方に険がこもってしまったが、そこは許してほしい。

 あの子が相手だというのなら、また失敗して酷い目に合ったことを彼に泣きながら相談して、その流れで事に及んだことなど容易に想像できる。彼はもとより向こうだってわたしの存在を認識しているが、それでも止められぬものがあったのだろう。

 わたしの言葉に、彼は演技なく驚いたようで目を丸くした。そのまま何かを言いかけたが、片手を上げてそれを制する。

 どうして分かったのかなどと、聞いてくれるな。わたしは彼のことを、世界の誰よりも好きでいるつもりだし、彼もまた、わたしのことをそう思ってくれていると信じている。

 だから、それで今は十分だ。それだけ確認できればその上を求めようなどと思わない。

 彼へ向けていた手を、さらに伸ばして彼の首の後ろへ回した。強引に引き寄せて、唇を奪う。

 そして、突然のことに身を固まらせている彼をそのまま押し倒した。

 一見男女の逆転した構図は、しかしわたちたちの間ではあまり珍しくもないこと。だいたい、彼はわたしに対して奥手すぎるのである。よもや誰が自らの恋人であるのか、忘れているわけではあるまいな?

 せっかくのおうちデート、のっけからこのようなことになるとは思いもよらぬことであったし、正直不本意でさえあるのだが、仕方があるまい。あぁ、仕方があるまいよ。他の楽しみは後回しにさせてもらおう。

 わたしがいつもいつも冷静であるなどとは、思わないことだ。寂しいものは、寂しいのだから。

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