愛は嘘に隠れて
SIN
第1話
「……別れよう、冬花」
突然の言葉に耳を疑う。
「え?」
「お前といるの、疲れたんだ」
冬花はただ、黙っていることしかできなかった。
「お前の、子供っぽいところとか、いたずら好きなところとか、俺にやたらとかまってくるところとか。お前のそういうところが……もう嫌なんだ」
「……今までそんな風に思ってたんだね……。ごめんね、私馬鹿だから気付けなくて……」
そういう冬花の声が次第に小さくなっていき、涙声に変わっていった。そんな冬花を見て氷空はその場から逃げるように立ち去る。ドアノブに手をかけ、彼女のか細い声を最後に、一人だけの未来に足を踏み入れた。
時は流れ、それから半年ほどたった頃。
「うっ、……ぐっ……!……はぁ、はぁ……」
息ができない。揺らぐ視界に邪魔をされ、上手く歩けない。そしてガタンッという音と共に、テレビのリモコンが床に落ちた。その反動でテレビがつく。次の瞬間、氷空は目を疑った。床に倒れた氷空の目には、テレビに映された彼女の名前。
「冬花が……死んだ……?」
口からこぼれたその言葉に、機械は答えてはくれない。どうか見間違いであってほしい。自分の視界が、涙で歪んでいるせいだと。そう願って目を閉じる。
だって死ぬのは、自分なのだから。
あれからどのくらいの時間がたったのだろうか。そっと目を開けると、そこには何もない。ただ光だけが、溢れていた。
「どこだ、ここ……」
辺りを見回しても、同じ景色が広がっているだけで。
すると突然、後ろで声がした。
氷空は驚いて振り返る。さっきはいなかったはずなのに。いったいどこから現れたのだろうか。
「どこから現れたのか、聞きたそうな顔ですね」
男はそう言った。
「誰だ、お前」
「私はここの案内人です。ここは仮想世界。あなたはまだ、死んだわけではありません」
「……どういうことだ」
「簡単に言えば、あなたには未練がある。それを果たすために、あなたはここに導かれたのです。いや、正確に言えば、自ら来た、でしょうか」
「未練……」
「期限は一年です。一年で、あなたは死ぬ。それでもいいのなら、未練を果たすチャンスを差し上げましょう」
「……」
「どうしますか。チャンスを掴みますか?」
「……もう一度、冬花とやり直したい」
「……ふっ、あなたに似たような方がもう一人いましたよ。いいですか、期限は一年です」
「ああ。わかってる」
「では、幸運を」
その瞬間、眩しいほどの光に包まれ、氷空は堅く目を閉じた。
―――――――……。
だんだんと聞こえてくる音に、ゆっくりと目を開ける。目の前にはあの懐かしい場所が広がっていた。心の奥底にしまい込んだはずの、あの場所。
「ここって……」
氷空と冬花が初めて出会った場所。そう、あの日もちょうどこんな風に、雪が舞う冷えた夜。星一つない、雪空の下。
もしもあの日と同じなのなら、確かここで……。そう、あの人みたいに、あそこに座っているはず。確か冬花はあの日、一人で泣いていたんだ。
「あの」
氷空は無意識に話しかけていた。顔を上げたその人と目が合う。ああ、やっぱり。
「はい……」
彼女は涙声で、そう返事をした。懐かしいその声を聞いた瞬間、氷空は彼女を、どうしようもなく愛おしく感じた。一度忘れたはずの彼女を、心から、抱きしめたいと思った。
「どうしたんだ、こんなところで。なんで泣いてんの」
「……別に、泣いてなんか」
「俺でよければ、話聞く」
「……同棲していた彼氏に、浮気されたんです。浮気されて、追い出されて。……帰る家が、無いんです」
「……じゃあ、俺の家に来るか?まあ、そんなにいい家ではねぇけどな」
それが氷空たちの、最初の出会い。それから少しずつ、二人の距離が縮まって。恋に恋をしていた二人が、少しずつ、自分の感情に気付き始めていた。
そんなある日。
「ねえ氷空、水族館行こう!」
「また?この前行ったばかりだろ」
「いいじゃん。好きなんだもん」
「ふっ、しょうがねぇな」
「やった!ありがと、氷空」
自分が出かけるときには必ずと言っていいほど氷空を誘う。そんな冬花が、氷空は大好きだった。
二人で桜が舞う道の上を歩いて、水族館へと足を進める。
手は繋がない。まだ、そういう関係ではないから。
「桜、きれいだね」
「ああ。そうだな」
「もう、そればっかりでつまんない」
「お前もだろ。ずっと桜がきれいだ、しか言わない」
「だって、氷空がずっと同じことしか言わないんだもん」
「じゃあ、違うこと言うか。ベタだけどな」
「?」
「桜よりもお前の方が、ずっときれいだ」
「……え?」
冬花が驚いて氷空を見上げる。二人の視線が交じり合い、自然と足取りもゆっくりになって。すると突然春風が、冬花の黒くて長い髪を靡かせた。
「ふ、不意打ちはずるい……」
そう呟きながら冬花が顔を赤らめて俯く。
「冬花が違うこと言えって言ったんだろ」
「実際には言ってない」
「でもそういう意味だろ」
何も言い返せず頬を膨らませた冬花が、堪らなく可愛く、そして、愛おしかった。
水族館に着くと、そこからはいつも通り。
「氷空見て!この子可愛い!あっ、この子も!」
「ああ、そうだな」
「あっ、こっちの子は氷空に似てる!」
「ふっ、どこが。あ、こいつ冬花に似てる」
「えー、そうかな~?どこが似てる?」
「可愛いとこ」
冬花の頬が少し赤くなった。
「もう!ここではそういうのなし!」
照れた顔でそう言う彼女が、最高に可愛かった。
「氷空、そろそろイルカショー始まるよ!行こう!」
「走るな、危ないから。イルカは逃げねぇから大丈夫だ」
そう言って冬花の手を握ろうとした手は、ひとりでに歩いていく。少し骨ばった、色白の大きな手。冬花がふと顔を上げると、銀色のピアスが彼の耳元で揺れていた。
会場につけば、そこは賑やかな声で溢れていた。席について始まりを待つ。しばらくすると、始まりを合図する音楽が流れ始め、イルカショーが幕を開けた。
閉館のアナウンスとともに水族館をあとにする。
二人で桜色の帰り道を歩いていた。
「氷空、今日はありがと。楽しかったよ」
「ああ、俺も。ありがとな」
そう言って二人で笑い合う。冬花の歩幅に合わせるのは、どうやら癖になっていたらしい。そんなことに今更気づく。
すると突然冬花が立ち止まった。
「どうした?冬花」
「……ここで終わりだね」
そう言って指をさすのは、大きな桜の木。それは、桜並木の最後の木だった。そして冬花が静かに口を開く。
「ねえ氷空……。私が氷空のこと好きって言ったら、どうする?」
冬花がゆっくりと氷空を見上げる。冬花の動かない瞳を見つめ、氷空が口を動かした。
答えなんて、一つしかない。
「……別にどうもしねぇ。だって、俺の方が好きだから」
「……え?」
「お前が好きだ。……まさか、お前に先に言われるなんてな」
情けねぇと言って照れくさそうに笑う氷空。そんな彼に、冬花がすっと背を伸ばす。そしてそっと、触れるだけのキスをした。驚いて固まる彼を見て、冬花は思わず笑ってしまう。だって、耳が赤かったから。
「不意打ちはずるい」
「さっきのお返し」
ふっと笑い合う。すると春風が、二人に向かってゆったりと吹いた。やわらかい、桜色の風。二人を隠すように花びらが舞う。それに導かれるように、二人の影が重なった。そのキスは、二人だけが知る、秘密の味。
「帰ろうか」
「うん」
そう言って二人は歩き出す。
「……手、繋いでもいいか?」
「……うん」
ゆっくりと手を重ね、そっと指を絡ませる。そしてもう一度、触れるだけのキスをした。
「これは?」
「似合う」
「じゃあこれは?」
「似合う」
「もう!似合うしか言わないじゃん!」
「だってほんとのことだろ」
「……そう言ってくれるのはうれしいけど、全然決まらないよ……」
「全部買えばいい」
「もう……!」
ここはこのあたりで一番大きなショッピングモール。今日は二人で服を買いに来ていた。これから近づいて来る暑い季節に備えてワンピースを買いに来たのに、一向に決まらない。
「どうしよう……」
そう言って冬花が手にしたのは、白くて少し大人っぽいもの。冬花がずっと悩んでいたものだった。
「これ……気に入ったけど、高いんだよね……」
そう呟く冬花が手にするそのワンピースを、氷空が横から奪い取った。どこに行くのかと思い目で追うと、その先にはレジしかない。まさか……。そう思った時にはもう遅く、それは店員によってきれいにたたまれ、袋に入れられた。
「ありがとうございましたー」
そう言われて店を出る氷空の後を追う。
「氷空、いいの?それ買っちゃって」
「これ欲しかったんだろ」
「うん。でも値段……」
「そんなこと気にすんな。これ着たお前、可愛かったしな」
ふっと笑って氷空は冬花の頭をそっと撫でた。そのやさしさに、冬花はすっと目を細める。
「ありがとう、氷空」
時は流れ、オレンジ色が目立つ季節になって来た。
「もう秋だね」
「ああ、そうだな」
「あ、氷空の頭に葉っぱついてるよ」
「え、取って」
「えー、どうしようかな……」
「なんで迷うんだよ」
「だって、ただ取るだけじゃつまんないもん」
「……じゃあ、ご褒美やる」
「もう、しょうがないなあ」
そう言ってふふっと笑うと、冬花は氷空の頭に手を伸ばした。
「はい、取れたよ」
「ん、よくできました」
そう言って氷空が、冬花の額に触れるだけのキスをした。そっと唇を離すと、冬花が氷空の目を見つめる。
「……もっと……」
「……あんまり可愛いこと言うなよ。止まらなくなる」
そう言って氷空は、冬花の頬にキスを落とす。
「これ以上は無理。心臓が持たない」
「しょうがないなあ。好きだよ、氷空」
そう言って微笑む冬花は、氷空の唇に、そっと自分のを押し当てた。耳を真っ赤にさせた氷空は誤魔化すように足早に歩き出した。
慣れない寒さに目を覚ます。カーテンを開けると、そこには真っ白な雪で覆われた景色が広がっていた。冬花と二回目の、冬。これが冬花と見る、最後の季節。
「冬花、外見てみ」
「んー……」
まだおぼつかない足取りで、冬花が目をこすりながら歩いてくる。外の景色を見た途端、子供のように目を輝かせた。
「氷空!雪が降ってる!」
そう言って窓を勢いよく開け、雪で何かを作り始めた。
「氷空見て、雪だるま!氷空も作ろうよ!」
そう言われて真っ白な雪に手を伸ばす。冬花との思い出が、また一つ増えた。うれしいはずなのに、悲しい。複雑な感情が、氷空の中を駆け巡っていた。
「氷空、どうかした?」
「いや、何でもない」
いけない。冬花に気付かれては。冬花の前では笑顔でいなきゃ。それが今氷空にできる、精一杯の、声にならない“愛してる”。
その日まで、あと三日。
天気予報が嘘をついた。外は今日も雪。昨日の雪だるまが溶けないのは、なんだか少し、うれしかった。
「雪だるま、まだ残ってるね」
「ああ、雪だからな。溶けてなくなる日が一日延びたな」
この時どうして気付かなかったのか。そんな日なんか、永遠に来なければいいと、そう願わなかった自分に、ひどく後悔することになる。
久しぶりの太陽の光に、思わず気分が軽くなる。降り積もった雪が次第に溶け、町が色を取り戻しつつあった。冬花と一緒にいられる時間が、刻一刻と、短くなる。あと一日。その日まで、黙っていよう。冬花に余計な心配をかけたくない。今はこの時間を大切にしたい。
そう思っていた時だった。バタンッという大きな音に振り向くと、そこには冬花が倒れていた。
「冬花!」
そう叫んで駆け寄る。が、様子がおかしい。声をかけても返事がない。心を蝕む焦りに必死に抗い、冬花をそっと抱き上げる。そしてゆっくりと、ベッドに下ろした。
その体は、二日降り続いた雪のように、氷空の体温を奪っていた。
太陽が放つオレンジ色の眩しい光が消えようとしていた時、冬花がゆっくりと目を開けた。
「冬花!気が付いたのか……!」
氷空が駆け寄り、そっと手を握る。
「ごめんね、心配かけて……」
「いい、気にするな。体は大丈夫なのか?」
氷空が焦った表情を見せる。こんな氷空を見るのは初めてだった。最後に氷空の、こんな姿を知るなんて。
少し経って冬花が口を開く。それは氷空の質問への答えではなかった。
「……あのね、氷空……。実は私、氷空に黙っていたことがあるの……。氷空、私ね……」
冬花の言葉に、氷空は耳を傾ける。しかし、彼女の口から紡がれたそれは、氷空の呼吸を奪うのには、十分過ぎた。
「死ぬの……。今日……」
どれくらいの時間がたっただろうか。目を見開き呆然としていた氷空が、ゆっくりと口を開いた。うまく動かないその口で、やっとの思いで言葉を綴る。
「今、なんて……。死ぬって、どういう……」
「私本当は、本当はね、一度死んだの。一年前に」
冬花が静かに語りだした。それはちょうど、氷空が冬花を振った日。あの日から、冬花の運命の歯車が少しずつ、狂い始めていった。
氷空と別れてからの冬花は、生きる気力を失い部屋に閉じこもるようになっていた。外に出て氷空を探そう。そう思うけれど、体が思うように動かない。溢れて止まらなかった涙も、もうすでに、乾ききっていた。そんなある日。窓を眺めていた冬花が、体を起こし外に飛び出た。窓の外から見えた、彼の姿を追いかけて。
でも、走っても走っても追いつかない。気付けばそんな姿など、どこにもなかった。無我夢中で走っていた自分が、馬鹿みたいだ。あれは幻覚だったのかもしれない。
そう思った、その時だった。
クラクションに似た音を最後に、冬花の歯車が動きを止めた。
「一年前のあの日に死んで、気付いたら知らない男が目の前にいて、名前はわからないけど、一年だけ、未練を果たすチャンスを上げるって……そして今日が……その一年後……」
冬花の声が、段々弱々しくなっていく。
「ごめんね……今まで黙ってて……本当に、ごめん……。氷空のこと、大好きだよ。愛してる……いつか言おうって思ってた。思ってたのに、言い出せなくて……ごめんね……」
そう言う冬花の頬を、きれいな瞳から溢れた涙が伝う。そんな冬花の体が少しずつ、やさしい光に包まれていった。
「冬花!」
氷空の叫びも、空しく部屋に響くだけで。今にも消えてしまいそうな冬花の手を握りしめ、氷空が口を開く。
「冬花、ごめん。俺もまだ、冬花に言わなきゃいけないことが」
そこで氷空の言葉が途切れた。優しい温もりが、氷空の口を塞いでいた。次第にその感覚は薄れていく。氷空は冬花を強く抱きしめ、何度も角度を変えながら、啄むようなキスをした。冬花が消えてしまう、その時まで。かろうじて感じるその体温を、その感触を、忘れたくはなかったから。冬花との最後のキス。それは、涙の味がした。
「ばか……最後まで、言わせろよ……」
まだ腕に残った感触をかみしめて、泣き崩れることしかできなかった。涙で歪んだ視界の端に映るのは、一人でたたずむ、小さな小さな、雪だるま。
朝日が部屋に差し込む。静かすぎる部屋に、一人蹲っていた。耳を澄ませても、何も聞こえない。でも、それでよかった。心の中でこだまするのは、愛しい人の、愛しい声。その声を、ずっと聴いていたかったから。
「ごめん冬花……。俺もお前に、黙ってた……。本当は俺、今日死ぬんだ……」
心の声に、そう話しかける。
「俺、お前にひどいことしようとしてたんだな……。お前だけを残して、勝手に死のうとしていた……ごめんな……」
何の返事も、返っては来ない。そんなことはすでに分かっているのに、目の前にある現実から、逃げようとしている自分がいる。目をそらしてはいけない。わかっている。でもできないんだ。冬花のいない世界なんて、知りたくない。
「……もう一つ、ある……お前に黙っていたこと……。俺はあの日、お前と別れたあの日、お前に初めての、嘘を吐いた」
雪が降っていたあの日。お前と出会ったあの日。お前に出会わなければ、よかったのかもしれない。
余命、二年。そう告げられた俺は、きっと愛に飢えていたんだろう。見ず知らずのお前に、知らないうちに話しかけていた。お前と過ごして、少しずつお前のことを知って。お前に出会えてよかったって思って。お前を好きになって。そしてお前を、愛してしまった。だから俺はあの日、お前に嘘を吐いたんだ。俺を忘れてほしかった。でも、嘘を吐くのって、難しいんだな。浮かぶのは全部、お前の好きなところだけ。
許してくれなんて言わない。言わないから、どうかここに、戻ってきて。
気付けばもう、外は暗くなっていた。この時間なら、この部屋も少しは冷え込むはず。なのに何も感じないのは、きっとその時が近いから。するとそれを表すかのように段々と力が抜けていき、上手く体を動かせなくなっていく。
「そろそろか……」
次第に体が光を帯び始め、それは徐々に眩しくなる。こんな時に考えるのは、やっぱり冬花のことだけ。この一年、冬花と同じ時を過ごしてきた。最後に作った冬花との思い出を見ようと、それに目を向ける。が、一人でたたずんでいたはずのそれはもう、そこにはいない。そこにあるのは、それがあったという証。それは、夜空に光るきれいな月を、静かに、映していた。
氷空はそっと目を閉じる。少しずつ意識が薄れていき、呼吸すらも忘れていた。
「冬花、会いたい……」
心の中で、そう呟く。もう決して、手を離したりなんてしないから。だからもう一度、もう一度だけ。
もしも赤い糸で繋がっているのなら、俺がそれをたどっていくから。お前のもとにまた会いに行くから。だからどうかその糸を、手放してしまわないように。
氷空の体は静かに、そして儚く、淡い光の中へと消えていった。
床に残った一粒の涙は、氷空が生きていた、一つの軌跡。
END
愛は嘘に隠れて SIN @seventeen171122
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