仮面の騎士

波打 犀

悪魔と、少女と、亡者と

 土砂降りの雨が薄暗い森に降り注いでいる。

 雷を孕んだ分厚く黒い雲が空を覆い、天に在るはずの太陽の光はそのほとんどが地上には届かない。雨粒が地面を激しく打つことで地上は霧がかかったように見通しが悪く、数多の馬車が生んだ轍がはしる土砂の道はぬかるんで、雨音を更に際立たせていた。


 密集した木々の一本に背を預けて腰を下ろし、じっと空を見上げる男がいた。

 目深に被った“ボロ布”のフードが濃い影を落とし、その表情は伺えないが、男の視界に映る景色は黒い雲と雨ばかりではない。男が背を預ける木は、大きく広げた枝に立派な新緑を纏っていた。

 雨が木の葉を打って枝葉を揺らす音。

 雨が木の葉を打つたびに雨粒がはじける音。

 はじけた雨粒が、僅かばかりの太陽光に照らされて、まるで真珠のような輝きと共に男の身体に降り注ぐ。長い時間じっと雨宿りをしていても、男がその光景に飽きるようなことはなかった。見ているうちに、自らが世界から切り離されてしまったような錯覚を覚えても、男にとってはそれが幸福だった。幾つもの“宝石”が生まれ、そして男の身体にあたって儚く壊れていく。

 そのうちの一つが、男の額を打った時、男は耳障りな雨音と稲妻の轟きを思い出して眉間に皺を寄せた。夢から覚めたような気分だった。

 ゴロゴロと鳴る雷の音に男の舌打ちはかき消され、稲光が木々と男のシルエットを浮かび上がらせて、再びどんよりとした暗闇が周辺を隠す。

 長い長い旅路を思わせるボロ布のマントは目深に被ったフードと一体で、男はそのマントで体を包むように蹲っている。胸に抱いた剣を雨から守るようにマントを寄せる。鞘の塗装はとっくの昔に剥がれて、鍔や鞘頭に施された装飾ももはや見る影もない。錆が斑点模様のように浮き上がり、柄の握りが血と汗で黒くなっていても、刀身は全く錆びついていない。男にとっては苦楽を共にしてきた愛剣であり、全ては男の小まめな手入れの賜物であった。

 男は自らを抱くように剣を抱いて目を閉じる。

 雨の音。

 雷。

 枝葉の擦れる音――。

 左側、茂みから物音――。

 雷鳴が轟き、稲光が辺りを照らす。

 剣を抜き、突き出したその先の茂みから、呆然と男を見上げる少女の双眸。不安げに揺れる少女の瞳に映るのは、冷たく光る銀の輝きと、対照的に暗い人影だった。

 少女は自分の身体を濡らす雨も、趣味の悪い演出のような薄暗い森と霧の圧力も、感じる余裕もないほどに恐怖する。そして、自らに向けられたそれが剣であることに気づいた瞬間、反射的にこう叫んでいた。


「――殺さないでっ!」


 絶叫にも似た甲高い声は、激しい雨音を貫くようにして男の鼓膜を震わせた。三秒にも満たない沈黙のあと、男は剣を仕舞うことなく、慎重に少女の方へ歩を進めた。

 少女はすぐにでも踵を返して逃げだしたい気分だったが、男の放つ気迫に圧されて立っているのがやっとだった。恐怖で震える顎を必死で抑えようとしたが、それは無駄な試みだった。鋭く冷たい銀の輝きが、その切っ先が、目と鼻の先に来る頃になってようやく、少女は自分を見下ろす人影の正体を見た。


「ぁ、あ――」


(……悪魔……!?)


 少女はすんでのところで口にしかけた言葉を飲み込んだ。

 到底この世の物とも思えない、凄まじい形相が、少女を見下ろしていた。激しい憎悪に任せるように剥かれた唇と、そこから覗く恐ろしい牙。顔中に刻まれた深く幾重にも重なる皺と、闇の如き暗闇に沈んだ眼孔。


 男もまた、突如として現れた少女をじっと観察する。

 さして珍しくもない癖のある栗色の長い髪と、平凡な少女らしい顔立ち。こんな薄暗い森の中に一人でいることを除けば、どこにでもいるような娘だと、男は思った。

 いや――、と男は少女のその姿を見て考えを改める。

 雨に濡れたその姿は、暗がりでよく見えないが、ひどくみすぼらしい。と言うよりも、一般的な服装ではあるのだが、胸元から縦に切り裂かれたような痕跡があった。顔立ちは幼く見えたが、大きく引き裂かれた胸元から覗く女性的な膨らみは、少女を少し大人びて魅せた。

 少女は男の視線から身を守るように、胸元を隠す。

 剣先を伝って滴り落ちる水滴が、少女の胸の谷間に流れ込んでいく光景から、男は目を逸らした。

 突き付ける剣を静かに少女の顔から遠ざける。

 少女が身を捩るようにして半歩下がる。

 次の瞬間――


「――危ないっ!」


 男は後ずさる少女の腕を素早く引いて、強引に少女の身体を抱き寄せた。

 抵抗する間もなく軽々引き寄せられた少女の細い体は、男のマントの内側にすっぽりと納まって、抱き留められる。ほんの数秒前まで少女の身体があった空間を貫いた物体は、そのまま直進して男の頭に衝突した。

 金属音――。


(金属音?)


 少女は嫌にゆっくりとした時間の流れの中で、のけぞる男の頭を見た。

 雨粒が弾けて、飛沫を成す。真珠のきらめきは一粒一粒が“世界”を閉じ込めたようにも見える。その一粒に、少女自身が映っていた。


 少女を狙って放たれた木の矢は、想像よりも大分若い男の声と、力強い男の腕力によって少女の身体を貫くことはなかった。代わりに一撃を受けた男は僅かに体勢を崩したが、頭部を貫いたはずの矢は“何か”に弾かれて宙を舞っていた。

 よろめいた男の身体を反射的に支えた少女は、俯いた男の顔を見て、それが“作り物”であることに気が付いた。

 

 仮面。

 悪魔の顔のような、鉄仮面。

 雨に濡れて、金属的な輝きが、今度はしっかりと少女の目に焼き付いた。


 一瞬ぶつかった視線。

 仮面の奥に一瞬見えた少女を見つめる男の瞳は、とても優しく、穏やかな雰囲気を纏っていた。少女の無事を確認して安心する様な、そんな瞳。


「ちゃぁんと狙わねぇかぁ! コノざぁこォ!」


 酔っているのかやけに間延びしたトーンで喉が焼けたようなガラガラの声が、矢の飛んできた森の暗がりから聞こえてくると、少女が目に見えて怯えるのが男には分かった。


「あ、当てたと思うんだけど……。当てたよな……?」


 次いで聞こえてきた男の声は、どこか気弱で、不服そうだった。

 暗がりから現れた二人組の男は片方が剣を持った逞しい男で、もう一人は小柄だがずる賢さを感じさせる弓を携えた男。どちらの男も堅気には見えない。


「……けて」


 仮面の男は消え入りそうな少女の声に釣られて、彼女の目を見た。

 すがるように、潤んだ、少女の瞳。声にならない声が、男の心に響く。


 ――助けて。


 男は様々な感情を飲み込むように、一瞬、目を閉じた。


「……俺の傍から、離れるな」


 そう言った瞬間にはもう、男の瞳は仮面の奥底――暗い闇の中に沈んでいた。少女を優しく見つめたあの男はもうそこにはいない。それが偽りの仮面であっても、今少女を抱くのは一体の“悪魔”だった。少なくとも、少女にはそう感じられた。


「誰だか知らねぇが……その娘は俺たちが“愉しんでる”最中だったんだ――、返してもらおぅかぁ?」


 見知った光景だ――と、男は思った。何度もするような体験ではないと思いたいが、ここ数年で人攫いの被害は増えているらしかった。


 ――世も末か。


「何とか言えやァッ!」


 無言のままでいる男に対して、逞しい人攫いは唾を飛ばす。

 それでも微動だにしない男の纏う雰囲気に、どこか不気味さを覚え始めるころ、人攫いの二人組は、少女は、激しい雷雨に交じって響く、おどろおどろしい声に気が付いた。

 気味の悪い低い声。

 くぐもったその笑い声が、男の声だと気づいたのは少女が一番初めだった。

 男の笑い声は次第に周囲の騒音から分離するように鮮明さを増して、人攫いの二人組の耳にも届く。その瞬間、何度目かの落雷が森を一瞬照らして、二人組の前に一体の悪魔を映し出した。


「んだぁ……? こいつぁ……、気でも狂ってんのか……?」


 そう言った逞しい人攫いは自分の声が震えていることに気づいていない様子。

 こんな状況で“笑う”という行為は並の人間には理解のしようもない。


 ――奇行。


「――対価は?」

「はぁ?」


 嬉々とした若い男の声。

 面影はあっても、やはり少女は首を傾げた。


(本当に――)


 さっき自分の命を救った人物と同一なのか。

 そんな疑問が少女の脳裏をよぎる。

 まるで噂に聞く“悪魔憑き”ではないか。

 豹変、残忍、奇行――どれも噂そのものだ。


「悪魔に願いを……、ただしその対価に貴様の一番大切なモノを頂く――」


 よく聞く話さ、何度聞いても鳥肌が立つような声音で男は言う。

 地獄の底から響いてくるような、嫌悪感に満ちた声音。

 少女は自ら助けを求めたものの、この場で一番恐ろしいのは仮面の男なのだと理解した。すぐにこの場から逃げ出したい気持であったが、少女はそんな本能を抑え込んでなお、仮面の男の身体に強くしがみ付いた。


 ――俺の傍から離れるな、とそう言った男の声を少女は覚えていた。


「ハッ! 気取ってんじゃねェ! こちとら人攫いで食ってんだ、今更悪魔に頼むような仕事もねぇ。欲しいものは奪う! その娘も! お前を殺してなァ!」


 恐怖にかられた人間の行動は実に単純だ。

 向かってくるにせよ、逃げ出すにせよそれに対処する側のリスクは大幅に軽減される。


「死にさらせぇァアッ!」


 過剰に力の乗った大ぶり。

 鮮血が宙を舞い、人攫いの握っていた剣がぬかるんだ地面に落ちて、泥が跳ねる。ぼとぼとっという音につられて、少女は剣と一緒に落ちたものを目で追った。それは節くれだった四本の指だった。

 あまりにも素早い剣裁き。

 少女には一瞬の出来事で、仮面の男が剣を持ち上げただけのようにしか見えなかった。


(いや、元からこれが狙いだった……?)


 少女は己を抱く力強い腕の持ち主を見上げた。しかし当然のようにそこに在るのは悪魔の仮面で、男の表情は読み取れない。剣の腕、力量の差というものが一体どういうものなのか、少女は全く知らなかったが、この悪魔の仮面を見続けていると勝手な考えばかりが浮かんできて、少女はすぐに思考が行き詰ってしまった。


「あああッ! 俺の、指がぁぁ!! いてぇ! い――」


 人攫いの絶叫は唐突に断たれた。

 ぬかるみに膝をつく人攫いの首から胸を貫くように、男の剣が突き立っている。

 少女は目の前で起こる凄惨な光景に声も出なかった。首筋からは見たことも無いような量の血液が噴出し、少女を、仮面の男を、あっという間に血濡れにした。

 仮面の男は、人攫いの身体を蹴り飛ばすようにして剣を引き抜く。

 人攫いの逞しい体は簡単にぬかるみに倒れ込んだ。

 赤黒い血だまりがぬかるみに広がっていく。

 森の薄暗さのおかげで少女がショックから立ち直るのは思いのほか早かった。


「て、てめぇ……! ちくしょう、よくも!」


 弦の張る音。

 仮面の男は咄嗟に少女を背中で庇う。

 その背に矢が突き刺さると、仮面の男は小さく呻いた。

 少女は事態を察して青ざめ、そしてギュッと目を瞑った。


「ひ、ひひひ……。当たった、当たったッ……!」


 喝采を上げる人攫いの片割れを、仮面の男は肩越しに強い気迫で睨み付ける。それは実態を伴わない、“攻撃”だった。

 少女は間近でその気を浴びて思わず膝から力が抜けた。

 悪魔の仮面に睨まれた人攫いの片割れは、恐怖から弓を取り落とし、踵を返す。その背に男の放った剣が突き刺さると、その場で無事なものは仮面の男と少女だけになった。

 

 この先を語ることは許されていない。

 雨は止まず、薄暗い森には変わらぬ静寂があるのみ。

 激しく雨が打ち付ける音と、雷鳴の轟は全てを隠し、包み込む憂鬱なベール。

 物語の続きは、当事者のみが知ればよい。

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仮面の騎士 波打 犀 @namiuchi-sai

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