第24話 代償

 その日海玲は、LINEで翔太からの報告を受け、飛び跳ねんばかりに喜んだ。

 翔太をイジメていた主犯格――成瀬が親の手で海外に留学することとなり、取り巻きの二人が停学となった上に、またイジメられることがあったら校長が直々に相談に乗ることを約束してくれたことを鑑みれば、イジメられた動画をネットに流すという策は大成功と言って差し支えないだろう。


 ただ、どうにも自分は人の不幸を笑えるタイプの人間ではないらしく、報いを受けた成瀬たちのことを「いい気味だ」とか「ざまあみろ」とか思う気持ちは、どうしても湧かなかった。

 もっとも、自殺を考えさせるほどにまで翔太を追い詰めた人たちに同情する気持ちも、それこそ欠片ほども湧かなかったが。


 それから翌日。

 LINEで翔太から、おそらくは入学直後ぶりくらいに、全くイジメを受けることのない一日を過ごせたという報告を受ける。

 それを知って海玲は、我が事のように喜んだ。


 さらに翌日。

 その日もまた翔太が全くイジメを受けずに済んだという報告を受け、その日もまた海玲は我が事のように喜んだ。

 ただクラスメイトの多くが、今までイジメに便乗していたせいか、イジメを見て見ぬふりをしていたせいか、翔太のことを腫れ物のように扱っているため、どうしてもボッチになってしまうことに思い悩んでいる様子だった。


『こればっかりは、少しずつ時間をかけて歩み寄っていくしかないと思う』


 学校が終わり、家路についていた海玲は、翔太に返信を送ったところで止めていた足を前に進ませる。

 腫れ物のような扱いを受けるのは、それはそれで問題だけど、それでもやはり翔太がイジメられなくなったことは、本当に、素直に、喜ばしいことだと海玲は思う。


 翔太のイジメをなくすためとはいえ、翔太がイジメられる姿を黙って撮影するのは、それこそ〝あの人〟からDVを受けている時よりもつらかった。

 撮影中、何度も悲鳴を上げそうになった。何度も彼の名前を呼びそうになった。

 けれど、本当につらいのは翔太だと、黙って撮影することが翔太のためになると、必死に自分に言い聞かせ、必死に我慢して動画を撮りきった。

 結果、最良に近い結果を得ることができた。

 

 そのために盗撮という手段をとり、それをインターネット上に流すというのは、あまりいいやり方だったとは言えないし、後ろめたさもあるけれど。

 自分が良心の呵責に苦しむ程度で翔太がイジメから解放されるのなら、とてもとても安いものだと海玲は思う。


 そうこうしている内に翔太からメッセージが届いたので、立ち止まって返信してはまた歩き出し……西の空に茜色が滲み始める前に自宅に到着する。


 いつもどおり鍵を開けようと、玄関のドアノブを掴んだところで気づく。


「……ッ」


 鍵が、すでに開いていることに。


 泥棒が入った――などという、真っ先に浮かんで然るべき考えは、脳裏にかすめもしなかった。

 こんな早い時間に、もう〝あの人〟が帰っている――その考えと、そこからくる恐怖だけが脳裏を埋め尽くしていた。

 恐る恐る玄関を開けてみると、当然のように〝あの人〟の革靴が上がりかまちの前に置かれていた。


「た、ただいま……」


 言いながら靴を脱ぎ、家に上がる。

 二位週間ほど前、翔太に自殺を止められて帰ったあの時とは違って、〝あの人〟が玄関に鍵もかけていなかったことに、嫌な予感を募らせる。

 まるで、こちらの帰りを待っているかのように感じるから。


(なんで? どうして? こんな時間に?)


 先程まで翔太とLINEのやり取りをして幸せいっぱいになっていた心が、今はもう〝あの人〟への恐怖でいっぱいになっていた。


 そうこうしている内に、とうとう、リビングにたどり着いてしまう。二週間前と同じくリビングの中央に、スーツ姿の〝あの人〟――うしおの姿があった。


「ただいま……お父さん」


 もう一度、消え入りそうな声音で「ただいま」を言う。

 潮はただ黙っているだけで、「おかえり」の一言すら返さなかった。


 ややあって、


「海玲……お前は二日前、具合が悪くなって学校を早退したな?」

「う、うん……」


 今さらその話を蒸し返す意図がわからないまま、海玲は首肯する。

 あの日は潮に対しても仮病を演じ、その後二日はDVを受けずに済んだ程度には騙し通せたと思っていたけれど。


(まさか……仮病だってことがバレたの!?)


 冷たい汗が背筋を伝っていく。

 けれど、その考えさえも甘かったことを、海玲はすぐに思い知ることになる。


「今まで、多少具合が悪くなっても早退どころか学校を休もうとすらしなかったお前が、なぜ二日前に限ってそんなことをしたのか、少し気になってな。探偵を使って調べさせてもらった」

「…………え?」


〝この人〟のことが全く理解できない――常々そう思っていたが、今の言葉は極めつけだった。


 娘が早退したことが気になって、探偵に調べさせた?

 なんで?

 どうして?

 いったい〝この人〟は何を思ってそんなことをするの?

 いったい〝この人〟は何がしたいの?


 本当に自分の親なのかと思えるほどに、潮の思考は、言動は、海玲には全く理解できなかった。

 そんな海玲の困惑をよそに、潮は続ける。


「そしたら、家からは随分離れた、水無月高校の近くでお前の姿が確認されたという報告を受けた」


 表情が死んだ父親が、ゆっくりと近づいてくる。

 恐怖という名の糸が、海玲の両脚をその場に縫いつける。


「お前はそんなところで、いったい何をしていた?」

「そ、それは……」

「この父にも答えられんことなのかッッ!!!!」


 飛んできたのは拳ではなかった。

 微塵の手加減もない前蹴りが海玲の腹部に直撃し、オモチャのように吹き飛ばされてしまう。

 リビングの扉の手前まで蹴り飛ばされた海玲が、フローリングの床に倒れ伏す。


「う……ぅぅ……」


 あまりの痛みに涙を流しながらも蹴られた腹部を押さえ、蹲ったその時。

 翔太からのLINEに気づきやすいようスカートのポケットに入れていたスマホが、床にずり落ちる。

 スマホに付けられた、ウサもんストラップを目の当たりにした瞬間、潮の口から怒号が迸った。


「なんだこれはッッ!!!!」


 まずい――そう思った海玲はスマホに、ウサもんストラップに手を伸ばそうとするも、潮のの方が早かった。


「こんなものッッ!!!!」


 潮の足が、ウサもんストラップを、


「俺は買ってやった覚えはッッ!!!!」


 スマホごと、


「ないぞッッ!!!!」


 何度も何度も何度も踏み潰す。

 靴下の裏に血が滲むのも厭わずに、地団駄を踏むように、ストラップを、プラスチック製のウサもんのマスコットを、スマホを、何度も何度も何度も踏み潰す。


「やめてっ!! やめてお父さんっ!!」


 悲鳴じみた声をあげ、その身を投げ出すようにスマホに覆い被さる。

 激昂している割に妙に冷静なところがある潮は、さすがに華奢な海玲を踏みつけては大怪我をさせてしまうと判断したらしく、振り上げた足を慌てて止めた。が、そのせいでバランスを崩してしまい、たたらを踏んだ末に尻餅をついてしまう。


 潮の脅威が止んだところで、海玲はスマホとストラップを見て……絶望に顔を歪ませる。


「あ……あぁ……」


 翔太が取ってくれた。

 翔太とお揃いの。

 とても、とても大切にしていたウサもんストラップが、見るも無惨に潰れていた。

 そして、翔太と繋がるための唯一の手段であるスマホもまた、見るも無惨に潰れていた。


 その後のことは、海玲自身もあまり憶えていなかった。

 気がついた時にはもうスマホとストラップを握り締め、靴も履かないまま家を飛び出していた。


 相変わらず妙に冷静なところがある潮は、一度だけ海玲の名前を呼んだきり、追いかけるどころか玄関先にすら出てくることはなかった。

 泣きながら出ていく娘を怒鳴りながら引き止める――そんな、周囲に異常を喧伝するような真似を、潮がするはずもなかった。


(新野くん……! 新野くん……!)


 泣きながら、走りながら、心の中で何度も彼の名前を呼ぶ。

 今までのLINEのやり取りで、翔太の家であるハイツ百合園がどのあたりにあるのかは知っていた。

 知っていたから、靴下のまま走り続ける足は、自然と翔太のもとへ向かっていた。


 もう、〝あの人〟のことは本当に理解できない。理解したくもない。

 なのに……こんなにもひどい父親なのに。

 今度こそ愛想を尽かせてやると思っているのに。

 やはり、どうしても、〝あの人〟のことを憎むことも嫌うこともできない自分の心が、他のなによりも理解できなかった。



 ◇ ◇ ◇



 海玲の父――潮は、開け放たれた玄関の扉をぼんやりと眺めていた。


 どうして、こんなことになってしまったんだろう?

 自分はただ娘のことが心配なだけなのに、どうして娘を傷つけるようなことばかりしてしまうのだろう?


 海玲は、大事な大事な娘だ。

 誰にも渡したくない娘だ。

 探偵を雇ってまで娘の動向を調べさせたのも、いつもと違う行動をする娘のことを心配してのことだった。


 何でも買い与えてやっているのも、勿論娘のためだ。

 娘のために、そこまでしてやっているのだ。

 なのに娘は俺が買い与えてやった物だけでは満足せず、自分で物を買っていた。

 それが無性に許せなかった。

 目の前が真っ赤になった。

 そして――娘をこれ以上ないほどに傷つけ、出て行かれてしまった。


 自分のことなのに、自分のことが、まるでわからない。

 娘のことを心の底から大事に想っているのに、誰よりも娘を傷つけている自分のことが、まるでわからない。

 会社ではどれだけ理不尽な扱いを受けても一度たりとも怒ったことがないのに、家の中だとなんでこんなにもすぐに頭に血が昇ってしまうのか、まるでわからない。


 このまま娘も、妻と同じように俺の前からいなくなってしまうのだろうか?

 そんなことを考えていたら、再び、沸々と怒りが湧いてくる。

 妻でありながら姿を消したあの女のように、娘でありながら出ていった海玲のことが、どうしようもないほどに許せなくなる。

 だが、今は怒りをぶつける相手はおらず。

 ゆるゆると怒りがしぼんでいく。


 そろそろ玄関を閉めなければ、隣近所からいらぬを受けるかもしれない。

 そう思った潮は、トボトボと歩き、玄関を閉めた。


 会社で受けるストレスのせいか、娘や妻に対する異常な独占欲のせいか、それとも心根そのもののせいか。

 今の自分がひどく歪んでいるという自覚があってなお、潮は自分のことがまるでわからなかった。

 それこそ、海玲が潮のことを全く理解できないと思っている以上に、潮自身が、誰よりも自分のことがわからないでいた。

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