藤の記憶
英 蝶眠
Episode
ようやく一月の大震災の痛手から甦りつつあった大阪へ長橋
「関東はどうやったん?」
「東京はてんやわんややったみたいやけど、うちがおったんは鎌倉の近くやったからなぁ」
新大阪の駅まで、迎えにワーゲンのビートルで来てくれたのは、歯医者の倅の泉直也であった。
「何や知らんけど、地下鉄でえらいことあったってニュースで言うてたやん」
長橋のやつ大丈夫やってんやろか、と仲間内で噂になっていたことを、助手席で初めて知った。
「あんだけの修羅場やってんやで、簡単には死なへんでぇ」
泉と一誠は東平野町とまだ呼ばれていた時代の幼稚園からの腐れ縁で、かれこれ十五年以上はつきあいがある。
「せや」
渋滞にはまった高速の車中で泉は、
「今度の連休、どっか行くんか?」
「取り敢えず一日は姫路に墓参りしなあかんけど、あとはずっと弁天町や」
「ほな、花見でもするか?」
「桜は散ってるし、造幣局の通り抜けは終わってるしで、吉野の山奥でも行く気か?」
「花は桜と限ったもんやあれへん」
泉は切り返した。
そういえば泉は専門学校を出たあとは、カメラマンのアシスタントとして京都で働いている。
「こないだグラビアで行ったんやけど、平等院って藤が見事らしいねん」
「平等院ねぇ」
「ほんで例の由美子ちゃんと行こうかなと思ったら、友達誘っていいかって」
「ガードかけられたな」
一誠はズケッと言い当てた。
「なぁ…おれ何でモテへんのかなぁ?」
「そんなんガツガツしとるからに決まっとるからやないか」
昔から一誠が厳しい物言いをするのを、泉は今更ながら思い出したようで、
「お前はどこ行っても生き残れそうやな」
「んな、人をゴキブリみたいに言わんといてや」
丁々発止のやりとりをする間に、弁天町の駅が見えてきた。
「ここから市岡の高校を裏に入ったとこが新しい実家や」
ビートルが信号を右折すると、左手に校舎らしき建物が見えてきた。
あれが市岡の高校なのであろう。
弁天町に再び泉のビートルがあらわれたのは、連休の初日である。
「おぅ」
「待たせたな」
見ると助手席には黒髪の綺麗な、水色のふわふわしたブラウスを着た女性が座っている。
彼女がどうやら、例の長瀬由美子らしい。
「こいつ、おれの幼なじみで長橋一誠っていうねん」
「長橋です」
一誠はいつもの軽い会釈をした。
「取り敢えず後ろ空いてるから、カナやんの隣でえぇかな?」
後部に座っている、茶髪の子がどうやらガードでついてきたカナやんという友達らしい。
「うち、衛藤カナっていうねん、カナやんってみんな言うてるからカナやんでええわ。長橋くんは?」
「だいたいカズか一誠やな」
「じゃあ一誠くんで決まりだね」
どうやらカナやんは仕切るのが好きな性分であるらしい。
乗り込むと車中は早速、一誠の話題になった。
「関東に疎開してたってホンマ?」
「まぁね、何せ西宮の家が半壊で、市役所からの指示で住めんくなって」
一誠が中学一年のとき、親が西宮に新しく家を買ったことから大阪を離れていたが、西宮の私立中学に通学していた泉との付き合いはそのままであったから、
「あの頃こいつ野球部やったから坊主頭で、今はその反動でロン毛にしよる」
と一誠は顎で運転席の泉を指し示した。
「お前ばらしなや」
「ほんまのことやもん、しゃあないやろ」
泉が露骨に嫌な顔をした。
高速を使わずに運転してきたので思わぬ時間は食ったが、昼前には宇治橋の側の駐車場に停めることが出来た。
「カナやん、お腹すいたね」
初めて長瀬由美子が口を開いた。
「泉くん、このあたりにレストランないの?」
「…確か橋の手前に、和食のレストランならあるはずやけど」
一誠は口を開いた。
「…このあたり知ってるの?」
「前にドライブ好きな親戚に連れてきてもらったことがある」
それは事実で、よく温泉や釣りに連れていってもらったこともある。
少し歩くと、瓦葺の平屋の食堂があった。
「確かここやなかったかなぁ」
空いていたのを見て、一誠が先に中へ入った。
「四人なんですけど大丈夫ですか?」
「ご案内します」
奥から声がしたので、
「良かった、すいてるってさ」
つられて続々と入った。
小上がりの座敷に案内されると、一誠の隣に由美子が座った。
泉はトイレに行っている。
「あ、自分は天ざるね。二人は決まった?」
由美子とカナに訊くと、
「私は天ぷら定食、由美子は?」
「同じでいいかな」
「あと一人来ますんで」
「では決まりましたらお呼びください」
店員がオーダーを伝えに行く。
「ところで一誠くんさあ」
すっかり打ち解けてたカナやんが、
「泉くんってさ、もしかしてあんまりモテない?」
「まぁずっと部活で女っ気はなかった」
「やっぱりなー」
カナやんは緑茶を一口飲んでから、
「なんかね、やたらに由美子に触ろうとするんだよね」
「…何を焦ってるんやあいつは」
「その点一誠くんあんまりそういうことないよね。もしかして彼女いる?」
「今はおらんけど」
「やっぱりね。なんかどっかで余裕があるっていうか、冷静やもんね」
「そうかな」
一誠は緑茶を含んだ。
でも、と一誠は、
「男ってだいたい泉みたいに、なんでもガツガツするんやないかなぁ」
「そう?」
由美子が一誠の目を見た。
「まぁうちはどこか醒めて見てるらしくて、あんまりガツガツせんけど、それはあくまでも稀なケースやからねえ」
そこへ泉が戻ってきた。
「注文は?」
「あとお前だけや」
「いやー、実はちょっとデカいの出てなー」
「お前、デリカシーないな」
一誠が苦笑い気味にチクリと言う。
「だいたい男子って、食事でもそういう話するよね」
「うち、オトンがそうやったからな」
「あのギャンブラーのオトンか」
「あぁ」
そこへ二人前の天ぷら定食が運ばれてきた。
一誠がそれぞれリレーする。
「ありがとう」
由美子が笑顔で返した。
「ねぇねぇ、一誠くんのオトンってギャンブラーなの?」
「まぁえげつなかったな」
泉が水を得た魚のように喋り始めた。
「だいたいこいつん家、会社やってたのにオトンが車と競馬に金使って、大学の入学金なんかみんなでカンパして集めたんやで」
「まぁ奨学金もらえる成績でもなかったしな」
一誠の天ざるが来た。
「あ、おれは…時間かからんのどれです?」
「天丼は早いです」
「じゃあ天丼」
向き直って、
「で、会社売ってようやく借金払い終わったら、こないだの大震災で、直後に脳梗塞でオトン倒れて、そのまま他界してもうてんやもんな」
「湿っぽくなるなぁ」
「しかも家は壊れるしで、そんでこいつ、オカンの知り合い頼って神奈川に疎開してたってわけ」
「まあな」
一誠は蕎麦を手繰る。
ほどなく泉の天丼が来た。
慌ただしく掻き込むと、さすがに変な箇所に入ったのか、泉は噎せはじめた。
「ほんま子供みたいやな」
カナが介抱しながら、しかしその光景に違和感をなぜか一誠は感じなかった。
食堂を出ると、橘橋を左手に少しばかり歩いて、四人は表門から平等院の境内へ入った。
白洲を踏み締めるサクサクという音が、連休の初日ながら人の少ないあたり一面に響いている。
やがて。
観音堂を左に、巨大な藤が見えてきた。
「でっかい藤やなぁ」
思わず一誠の口から感嘆の語が出た。
あたりの桜はすっかり葉桜で、そこには幹をうねらせ左右に枝を拡げ、満開に咲き誇った藤の巨樹が、たたずむという表現が似合いそうな姿でそこに存在していた。
「こないだ撮影で来たときには、まだ全然つぼみやったんやけどなぁ」
観光のキャンペーンか何かで、振り袖を着たアイドルの女の子を撮ったらしいのだが、
「やっぱり花は咲いてなんぼやな」
泉が言った。
しかし。
由美子は違う感懐であったようで、
「ねぇ、一誠くん」
「?」
「この樹ってすごく古そうだね」
「せやね」
由美子の手が、一誠の手を柔らかく握った。
「この藤はさ、うちらが生まれてくる遥か前からここにいたんだよね」
「多分、そうやと思う」
「きっとやけど、うちらがいなくなってもこの花は、季節が来たら咲くのかも知れへんね」
華やかに見える顔立ちとは裏腹に、由美子はそういう繊細な神経を持っているように、一誠には映った。
そのとき。
一匹の大きな、丸花蜂か熊蜂かは分からなかったが、藤の花房の周りをブンブンと羽音をけたたましく立てながら飛び回りはじめた。
藤には甘い香りがある。
きっと呼ばれたのであろう。
が。
その蜂がなぜかカナの周りを回りながら飛んだ。
「カナやん、フレグランスつけすぎたんとちゃう?」
由美子は心配そうに言った。
だが。
虫がどうやら大嫌いであったらしく、
「あっち行きって…なんやしつこいなぁ」
カナの顔が次第に不機嫌になる。
「そのまま動かなければいなくなるって」
一誠が言う。
蜂が大きく動いた。
泉は思わず後ろへ体を開いたが、その弾みで尻餅をついた。
枝か梢が触れたらしい。
藤が少し揺れて、紫色の花が白洲にパラパラと落ちた。
カナは段々腹立たしくなり、
「なんで泉くん助けてくれへんの!」
カナは泉に八つ当たり気味に怒りをぶつけた。
そのあとは鳳凰堂を見たり、県神社のそばの茶屋で抹茶と甘味を食べたりしたが、カナは蜂の件ですっかり嫌気が差していたようで、
「なんかもう最悪やわ」
と、不愉快極まりないとも言いたげな眼で泉を睨んでいた。
「一誠くんが動くなって言ってくれたから助かったけど、ほんま泉くん役立たずやわ」
カナの憤りは最後までおさまらなかったが、
「でも美人と花見なんて、粋なもんやで」
などと、泉は意に介する様子もなかった。
帰路、カナが電車で帰ると言って聞かなかったので、
「たぶん京阪やし途中まで送るわ。一誠くん、一緒についてきてもらっていいかな?」
と由美子が言い、一誠とカナの三人で帰ることになった。
この件で泉はへそを曲げたらしく、
「そんならもうえぇわ」
と言い、なんとビートルで三人を置いて帰ったのである。
この、デートにはあるまじきと言わるべき行動に一誠もあきれたが、
「まぁ、三人で仲良く帰ろうや」
フォローにもならないかも知れないが、というような胸中で、三人で宇治橋を渡った。
宇治から京阪線の中書島で乗り換えをする頃には日が暮れていた。
途中、一誠はカナに、
「うちと由美子やったら、一誠くんはどっちと付き合いたい?」
いちばん訊かれて困る質問が来た。
「うーん…まだどっちのこともよう知らんし、決められへんなぁ」
これは一誠の偽らざる言葉であった。
「なんで?」
「だって正反対やん」
一誠は続けた。
「カナやんはカナやんで明るいし楽しいし、由美子ちゃんは物静かやけど知性的やし、魅力的かどうかって話では横並びやからねぇ」
ただ、と一誠は、
「でもうちは多分、いつか分からんけど関西を離れると思う。そのとき一緒にいてくれる女の子がいいかなってのはある」
このとき。
言葉にしながら一誠は、恐らく自身は地元を出たら戻らないような、そんな気がしていたらしい。
「…そうなんだ」
由美子が小さく呟いた。
丁寧に、しかしどこか言葉を選りながら一誠は言う。
「別に地元が嫌いなわけではないし、戻る日はあるかも知れんけど、でもずっとこっちにいるってのはないと思う」
確かに。
どこか一誠には、居場所を探して歩くような気持ちがなかったわけではない。
だから疎開から戻っても、何か見知らぬ場へ放り込まれたような、疎外感まではゆかないが自らが異物のように感じられることはあったらしい。
だから。
腐れ縁のはずの泉と一緒に帰るという選択肢は撰ばなかったのかも知れない。
「でも、一誠くんの言ってることって、私は分からないでもないかな」
由美子は言った。
「私、実は親の再婚でこっちに来たんやけど、言葉は分からないし、馴染めないしで、なんか孤独やったんよね」
そんなときに声をかけてくれたのがカナであったらしく、
「だから私は、いちばんの親友のカナを尊重して付き合ってくれる人なら、付き合ってもいいかなって」
かけがえのない人を大事にしてくれる男ならステディにしていい、というような意味なのであろう。
この日は結局、連絡先だけは交換したが、結論らしい結論は出さずに京橋で別れた。
以下、後日譚になる。
一誠は休学していた大学に復学したものの、やはり違和感だけはぬぐえなかったようで、父親の一周忌を待って、その間に学費に窮し退学したあと相続や税金の手続きを済ませてから、新幹線で再び東京を目指した。
それまでに付き合ったのは由美子であった。
カナに新しく彼氏が出来て二人で会うことが増えたのがきっかけであったが、この一事が理由で一誠と泉は決裂したのである。
由美子と交際が始まると、一誠はやがて由美子が独り暮らしをしていたマンションで半同棲をするようになった。
「父親がおらんだけで内定が決まらんのは、理不尽や」
と言いながら、由美子とは穏やかに過ごしていたが、やはり居心地の悪さは感じていたようで、
「由美子にはもっと幸せな相手がおるんやないかなぁ」
と言うと、一誠は大阪を出た。
横浜の鶴見で間借りしながらもバイク便の仕事を見つけ、横浜の道路を覚え始めた頃、風の便りで由美子が亡くなったことを知った。
しかし。
それはもしかしたら自分が由美子を捨てたからかも知れないと感じたとき、大阪へ帰ることを一誠は躊躇した。
一年ほど過ぎた頃、父親の法事で大阪に一誠は戻ったが、カナに連絡は取らなかった。
その後、カナには会っていない。
泉に至っては、噂話で市議会に立候補して落ちたり、事業に失敗してサラ金から金を借りて利子がかさみ、夜逃げをした話までは聞いたが、そのあとはどうなったか分からなかった。
一誠もバイク便の会社を独立して立ち上げ、苦労しながらも何とか軌道に乗せて、その間に一度紹介された女性と結婚はしたが、うまく行かずに半年で離婚してしまい、それからは結婚は懲りたらしい。
休みの日、一誠はバイクを駆って鎌倉まで出掛けた。
海を見たり、売店でソフトクリームを食べたりしていたが、ふと立ち寄った小さな神社に、小さな藤棚を一誠は見つけた。
棚の下にはベンチがある。
腰かけてみた。
あの日と同じように満開で、同じように蜂が羽音を立てて、蜜を吸っている。
しばらくブンブンと賑やかであったが、満腹になったのか、やがて蜂は刷毛で掃いたような薄曇りの空へ、羽音を立てて飛び去って行った。
【完】
藤の記憶 英 蝶眠 @Choumin_Hanabusa
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