優しさに触れて,
いつもと変わらない笑顔。その表情を目にした瞬間、少し安心した。けど、それと同時に自分がしてしまった事、言ってしまった事に対する嫌悪感に襲われる。
匙浜さんが笑顔を見せてくれたのは嬉しい。でも自分がした事は最低だ。ちゃんと目を見て謝らないと。
「えっと……匙浜さんごめん。一昨日酷い事言った。滅茶苦茶酷い事言った。自分でも分かってたんだ。でもなかなか言い出せなくて……」
「本当だよ。ビックリしたし、ショックだった。それにちょっと腹が立った」
「そうだよね。本当に……ごめん」
今まで喉に引っ掛かっていたモノを吐き出すかのよう声を上げた俺は、それに合わせるように頭を下げる。視線の先には橋の木目がハッキリと浮かび、匙浜さんの影がチラついていた。
すると、徐にその影が動き出す。そして聞こえてきたのは橋の上を歩く音と、段々と大きくなる影。それに気が付いても顔を上げる事は出来なかった。すぐ目の前でその歩みを止めた事が分かったとしても。
匙浜さんが何かを言うまでは。
視界の先でチラつくロングスタート。それだけでかなり近付いて来たのは分かる。
正直何をされるか分からなかった。許してもらえるのかもしれないし、このまま後頭部を思いっきり叩かれるかもしれない。どちらにしても覚悟は出来ていた。
「葵君。顔上げてよ」
そんな心情だった俺の耳に聞こえて来たのは、それこそ聞き慣れた匙浜さんの声だった。けど、だからと言ってすぐに顔を上げられる訳がなかった。
「でも……」
「いいから。ねっ?」
それを諭すかのような匙浜さんの声。これ以上渋れば逆に迷惑を掛ける気がした俺は、今度こそ言う通り顔を上げて行く。ゆっくりと見上げたその先に居たのは……笑みを浮かべる匙浜さんだった。
「匙浜さん……」
「もう、そんな顔しないで?」
「けど俺、本当に匙浜さんに酷い事を……」
「酷い事ね……葵君。何か勘違いしてない?」
「えっ?」
「私、怒ってるのは本当だよ。でも、それは来なくていいって言われた事に対してじゃないんだよ?」
来なくていいって言われた事じゃない。その言葉に、一瞬理解が追い付かない。俺自身、思い出すだけでも最低だったと思う行動。それにさっきまでの匙浜さんの行動と、怒っているという言葉が本当なら思い当たるのはそれしかなくて、むしろそれしか当てはまらない。
それなのに違う? 一体どういう事なんだろうか?
「それってどういう……」
「どうせなら歩きながら話そう。この橋250メートルはあるんだよ?」
「あっ、うん」
俺の返事を聞くや否や、すっと俺の隣に並ぶ匙浜さん。いつも病院で話す時と同じ距離間だけど、場所と状況の違いからか妙に緊張が走る。それに比べて当の匙浜さんは、
「じゃあ行こっ!」
至っていつも通りの姿そのもの。そんな勢いに押されるように、俺は何が何だか分からないままその足を進めていた。そして辺りに俺達2人の足音だけが響く中、少し歩いたところで……匙浜さんの口が開く。
「ねぇ葵君。一昨日試合来なくていいって言われて、本当に驚いたよ?」
「あっ、ごめ……」
「ううん。謝らないで? ビックリして思わず逃げ出したのは私の方だし。それでも帰りのバスに乗ってる時ようやく落ち着いてきて……冷静になって考えてみたんだ。そうしたらすぐに分かったんだ」
「分かった?」
「葵君がいつもの葵君じゃないって」
「あっ……」
「でも連絡は出来なかった。大事な試合だってのも知ってたし、もし私に原因があったら申し訳なくて。けど、どうしても気になって……結局昨日の試合見に行っちゃったんだ。バレないように」
「えっ? 昨日の試合見てたの?」
「うん。ごめんね? 言う事聞かなくて」
「いや、それは……全然気にしてないよ」
あんな雨の中、しかもわざわざ隠れて見ていた? にわかには信じられない事だけど、匙浜さんが嘘を付くとも思えない。だとしたら本当に……あの場所に居たんだろう。そして目にしたんだ。スタメンを外された俺の姿を。何かに怯えるようなつまらないプレーを。
「そうしたら、なんで葵君があんな事言ったのかすぐ分かった。それに……なんか腹が立っちゃったんだ」
「腹が立った?」
「だって、今まで私はなんでも葵君には言えた。葵君だって色んな事私に話してくれてる。そう思ってたのに……なんでスタメンを外されたって悩みを言ってくれなかったの? って」
「そっ、それは……」
「でもね、そんな事思ったのは一瞬。葵君のおかげでサッカーの事勉強してなかったら、きっとこんな気持ちには気付かなかったよ。サッカーと言うより、スポーツ全般に言える事。団体スポーツには必ずスターティングメンバーが存在する。それを目指して頑張ってきた人が、いざそこから外されたら……誰だって悲しいし、辛い。一生懸命打ち込んできた人なら尚更なんだよね。葵君だって……そうなんだって」
「……」
「それに、後半出てきた葵君、明らかに元気なかったもん。それにプレーだって何かに縛られてるような気がして。それでね? 私に何か出来ないかなって考えたんだ。余計なお世話かもしれないけど、あんな顔でプレーする葵君は葵君じゃない。少しでも……何とかしたかった」
「匙浜さん……」
「それで必死に考えて……ここに連れて来ようって思ったんだ。試合に勝っても負けてもね?」
「マジ? ここに俺を?」
「うん」
まさかだと思った。仮にも俺は匙浜さんを自分勝手な感情で傷付けた。普通の人だったら顔も見たくないはずなのに、それどころか冷静に物事を考えて他人の心情まで理解する?
有り得ない。その余裕は一体どこから生まれるのか、本当に同じ歳なのか……考えるだけで怖くて、それ以上に尊敬するしかない。所々を盛って話してくれていたらまだ現実味がある。けど、彼女が見せる表情は決して嘘を言っているようには見えない。
「あっ、でもごめんね」
「えっ」
「怒ってるふりして。嫌な思いさせちゃったでしょ?」
「怒ってる……ふり? ふり!? なっ、なんで……」
「えっと……ちょっと怒ってる雰囲気の方が葵君、心配とかしてくれて付いて来てくれるかなって。でも実際やってみると緊張しちゃった」
「えっ、ちょっと待って? じゃあもし俺が怒って付いて行かなかったら……」
「ヤバかったかも。ふふっ、作戦失敗だもの。でも、葵君が私に言った来るなって言葉は心の底からの本心じゃない事は分かってた。それに葵君は優しいから……なんか付いて来てくれるって気がしたんだ」
そんな事を言いながら、匙浜さんは少し笑みを浮かべる。その表情は、いつも見せる優しいモノじゃなくて……まるで小さな子どもが悪戯をする前に見せる意地悪な微笑み。
今までの匙浜さんからは想像出来ない表情に、一瞬驚いたけど……結局まんまと掌の上で転がされて居たんだって実感が湧いてくる。
「そっか。参ったな……うん、参りました」
「ふふっ。あっ、でも本当に大丈夫? 今更だけど、葵君の優しさに付け込んで無理矢理連れてきちゃったし、試合の疲れとか……」
「見てたんなら分かるだろ? あんな出場時間じゃ、出た内に入らないって」
「そう? その割に物凄いインパクトを残したみたいだけど?」
「岡……いや、途中で入った同級生がね」
「始まりは葵君でしょ? 凄く格好良かったよ」
「はっ、はぁ? 何言って……」
「やっと表情変えてくれた。だって本当の事だもん」
「ほっ、本当って! いや、けど……」
「ふふっ。内心嬉しいのかな? 口元が……」
「何でもないって!」
こりゃ勝てる訳がない。匙浜さんには……ずっと。
緊張が解けてしまえば、いつもの雰囲気に戻るのにそこまで時間は掛からなかった。
そんなに日数は経ってないのに、まるで久しぶりに会った友達と話すかのように話題は尽きない。
「それにしても、監督の指示とは言え……お世辞抜きで葵君はサッカー上手だよ」
「上手かな? まだまだだって」
「努力は裏切らないってやつかな。んー、もうちょっと自信持っても良いと思うけどね」
「まぁ天才って奴は居るからねぇ」
「天才? じゃあ葵君が今まで見た中で天才だと思った人は?」
「そりゃプロの人達は皆天才だと思うよ。でも、直に見てヤバいと思った人って言われたら……1人パッと思い出す人は居る」
「だれだれ?」
「えっと、中学2年の時かな。何かの大会に招待されて東京に行ったんだ。その時、別グラウンドで戦ってた…………確か桜ヶ丘中って所だったかな? 全然聞いた事ない学校だったんだけど、そのサイドの選手が凄かったよ。足も速いし、何度もスプリントして体力もピカイチ。右サイドバックの人との連携もバッチリでさ? パスも鋭かったんだけどフォワードが合わせられなくて……それでもレベルが違うって言うのかな。明らかに1人だけ」
「なるほど……じゃあその人もしかして強豪校に行ってるのかな?」
「どうかな。小さい大会でパンフレットにも学校名しか載ってなくてさ? 名前も分からないんだよね。顔見れば変わるかもしれないけど。でも……ああいう人を天才って言うんだと思う。だから俺は努力しないと、もっと……もっと」
「あっ、なんか目の輝きが……いつもの葵君だ」
「えっ? なんでそんな見て……そんな見るなって! じっと見るなって!」
笑った。楽しかった。数時間前までウジウジしていた自分が嘘のように、気持ちが軽かった。
これも匙浜さんのおかげなのかもしれない。本当に、彼女には……感謝の気持ちしか浮かばない。
その後橋を渡り切った俺達は、道に沿って浦福島を散策した。途中で見つけたお店ではお団子を頬張り、名物のだるまおみくじで運試し。結果は両方まさかの大吉で、思わず笑ってしまった。勿論、お団子とだるまくじのお金は俺が全部払った。流石に全部はおごってもらう訳にはいかなくて、無理矢理押し切ったけどね。
そして、その奥にある弁天堂でお参りを済ませると、匙浜さんはゆっくりと海の方へと足を進めた。手すりの近くには目に映る島々の名前が書かれた看板。展望デッキって場所なのか、確かに見渡す限りその景色は少し姿を見せ始めた夕日も相俟って……凄かった。
「ねぇ、葵君?」
そんな景色を眺めながら少しボーっとしてると、不意に隣から声が聞こえる。
木々の葉が風になびく音だけが聞こえる中、俺は静かに……
「うん?」
返事をした。
「私ね、ここの景色が好きなんだ。広い海に沢山の島。それを見てるだけで……なぜか生きてる実感が湧いて来るの。ふふっ、だからって葵君も好きになるとは限らないのにね? 頑張って考えてみたんだけど、結局どういう所に連れて行けば元気になってくれるか分からなくて……もしかして逆にサッカーから一旦離れて、ゆっくりとした時間が1番なのかなって考えたんだ」
「ゆっくりとした時間……かぁ。うん、凄く良い景色だよ。なんかこう……心に染みる」
言われてみればこういう景色をじっくり見た経験なんてない気がする。けど、不思議と目の前に広がる景色は目に焼き付いて、心の中が透き通るような不思議な感覚を生み出していた。
それ位、良い意味でも悪い意味でもサッカーに没頭していたのかもしれない。だからこそ、こんなにも……ゆっくりとした時間と、綺麗な景色が心に染みるのかも。
「本当? 良かった」
匙浜さんのホッとしたような声が、少し嬉しかった。それだけじゃない。こんな場所に連れて来てくれて、気持ちを楽にしてくれた。改めて……救われた気がした。
「ありがとう」
それは思わず零れた本心だった。一瞬驚いた表情を見せる匙浜さん。けど次の一言は……意外なものだった。
「ううん。でも、ごめんね」
「ごめん? それはもうチャラだろ? てか、俺の方が悪かったし」
「違うの……」
「違う?」
「ねぇ、葵君。さっき渡った浦福橋って別名があるんだよ?」
「別名?」
「うん。それは……出会い橋。良い縁とか良い人と出会えるって事らしいんだけど、本当だった。知ったつもりで居た葵君の別な姿に出会えたんだもん。本当にサッカーが好きで、本当に優しくて……意外と押しに弱い所とか?」
「なっ! サッカーはまだしも押しに弱いって!」
「ふふっ。そんな一面が見れた。でもね? ごめん。そんな事言ってる私は……葵君に言ってない事がある。見せてない姿がある」
「言ってない事? 見せてない姿?」
「うん。無意識の内に……堰き止めてた。言うのが怖かった。でも、何でも私に言ってくれる。どんな姿も見せてくれる葵君を前にしたら……それが卑怯に感じてね? ちゃんと言わなきゃって思ってた。だから……聞いてくれる?」
「聞いてくれるって……」
「出来れば思い出したくない。でも……葵君には聞いて欲しい。ううん、葵君だからこそ言わなきゃダメなの。だから……聞いて?」
「あっ、あぁ……分かった。でも一体何の事なんだ?」
いつになく真剣な表情から、少し怯えるような表情に変わる匙浜さん。正直そんな姿は見た事がなかった。だからこそ今、口にしようとしている事が彼女にとってどれほど大事で、怖くて……勇気がいるモノなのかはヒシヒシと感じる。そして、それをあえて言おうとしている瞬間を、邪魔なんて出来る訳がなかった。
「うん。なるべく触れないようにしてた。でも聞いて欲しい」
「私が軽度認知障害になった…………理由」
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