最低最悪な出会い,

 



「そっ……そんな……」


 先生の言葉に反応したのは、隣に座る母さんだった。目を見開き、口に手を当て……少し震えていた。


 は? 何言ってんの? 2人共、何真剣な顔して……

 そんな2人の姿を目の当たりしても、俺はどのタイミングでいつもの様子に戻るのか……そればかりを期待してた。待っていたんだ。

 けどその瞬間は……一向に訪れる気配がなかった。


 じょ、冗談だろ? なぁ、嘘だろ。早くいつも通りの姿になれよ。先生も笑ってくれよ!

 徐々に感じる異様な雰囲気に生唾を飲み込み、気が付けば汗が頬を伝っていた。そして震える声で、もう1度先生に問い掛ける。


「せっ、先生? 冗談なんですよね。本当は冗談……」


 その瞬間瞬きもせず、真剣な眼差しで真っ直ぐに俺の目を見つめる先生。その行動に俺は全てを……悟った。


 アルツハイマー……認知症……? 俺が? まっ、まだ高校生だぞ。なのに……なのに……



 記憶が……なくなる?



 その現実を突きつけられた瞬間、俺は思わず立ち上がっていた。


 嫌だ……嫌だ……嫌だ……

 一気に体を包み込む不安。心を飲み込む恐怖。とっさに頭に浮かんだのは、原因はこの場所なんだという考え。

 そうに違いない。ここに居たら永遠とそれらを感じてしまいそうで……とにかく逃げたかった。


 どこか……遠くへ……

 この嫌な感覚が消えてなくなる……遠くへ……


 その瞬間、俺は逃げる様に診察室を飛び出した。

 周りの音なんて聞こえないし、視界はぼやけている。それも診察室から離れれば治る。いつも通りの自分に戻れる。それだけを何度も心の中で繰り返していた。


 不思議と誰かが俺を止める様子はなくって、それだけはありがたかった。もし誰かが立ち塞がって居たら、俺は何をしてでも目の前の道を突き進んだはずだ。それ位、離れたかった……あの場所から。


 こうして辿り着いたのは、診察室から1番離れている端っこの席。最初に座った席とは真逆のそこは、横には壁が広がり、後ろの大きな窓からは日の光が差し込んでいた。


 そんな席にゆっくりと腰を下ろすと、俺は静かに項垂れた。背中に感じる光が焼けるように熱く感じる。そう、まるで……自分の存在を消そうとしているかのように。

 そしてその痛みに耐えながら俺は何度も同じ言葉を繰り返す。


 違う……違う……記憶が消える? 有り得ない。あの日は体調が悪かっただけだ。俺が認知症なんかになる訳がない。


 でも、あの先生の顔が嘘だって言うのか? 真剣な眼差しが。母さんがあんな芝居できるのか? 嘘を付くのが大の苦手な母さんが!


 有り得ない。でもそうなると俺は認知症? それこそ有り得ない。じゃあどっちが正しい? どっちが本物だ。 


 困惑する頭の中で、答えの出ない疑問がぐるぐると回り続ける。

 そんな事を、何度繰り返した時だろうか、


 どっちだ……どっちなんだ……どっちなんだ……


「こんにちわ。大丈夫ですか?」


 不意に聞こえてきた声。今思えばなんでその声を認識できたのかは分からない。でも確かにその声は頭に響いたんだ。



 そしてゆっくりと顔を上げると……君が居た。



 長い髪の毛に、学校の制服姿。そして少し笑みを浮かべた表情。


「大丈夫そう……ですね? あっ、無理して話さなくても良いですよ」


 初対面だったにも関わらずに、ごく普通に話し掛ける君は……別の意味で俺を混乱させる。


「隣、良いですか?」


 なぜか隣に座る君。そのまま少し顔を覗かせる君。その行動の意味が分からない。

 ましてや居るはずがないと思っていた同年代の登場は、ハッキリ言って訳が分からない。


 そして、こんな突然の状況にすぐさま理解が追い付く程……俺は優れた人間じゃなかった。目が合った瞬間、あからさまに目を逸らす位に。


「あっ……ふふ。ごめんなさい? ちょっと様子が変に見えたので」

「あっ……」


 ヤバイ。焦ってるのバレた。そりゃそうだよな……


「だから、つい声掛けてみたんですけど……迷惑でしたか?」

「いっ、いや」


 せっ、制服って事は……高校生? 


「1人で来たんですか?」

「違うけど……」


 同じ位の歳かな?


 視界の端にはぼんやりと君の姿が見える。勿論俺の顔を見ている事も何となく分かった。

 いきなりソッポを向かれて、普通なら不機嫌そうになりそうなものだけど、声の雰囲気的にそんな様子は見られない。


 ちゃんと顔を見て話すべきなのに、なぜかそれが出来ない。けどその代わり、彼女の質問には馬鹿正直に答えていたんだ。

 目は泳いで、声は小さかったかもしれない。でも頭の中がこんがらがっていても、とりあえず答えないと…………その姿勢だけは自分でも頑張ったと思う。


「そっか。もしかして……お見舞いかな?」

「そうじゃ……ない」


「じゃあ付き添い?」

「……違う」


「違うんですか? だとすると……あっ、ごめんなさい。流石に聞き過ぎですよね?」

「そんな事……ない……ですよ」


 変わる事無く、明るくてどこか落ち着いた余裕のある声。

 何とか答えようと必死な、たどたどしい声。


 それはまさに上級生と下級生の会話。いや、姉と弟……聞く人によっては母親と子供の会話にすら聞こえるかもしれない。制服姿から少なくとも2学年上までは考えられたけど、自分自身それ位の違いは感じてた。


「本当? じゃああと少しだけ聞いても良いですか?」

「なっ、なんでしょう?」

「もしかしてだけど、君が……診察を受けに来たとか?」


 それが耳に入った瞬間、頭の中にさっきの光景がすっと現れる。

 ついさっき診察室の中で聞いた事が、頭の中を駆け回る。


 心臓の鼓動が聞こえる。音すらはっきり聞こえる程に大きい。少し胸が苦しくなる。

 口に出来ない。したくない。思い出したくない。

 だからこそ、辛うじて無言の状態のなかった俺達の間に静寂が……訪れた。


 そんな静寂を破ったのは君。そしてその言葉に俺は言いようのない感情に……包まれる。


「あっ……そっか。……辛いね?」


 まるで全てを知っているかの言葉。

 辛い? もしかして知ってる? 


「怖いよね……だからあんな状態だったんだね?」


 慰めるように、諭すように淡々と口にする君。それは自分の憶測を確信に変えた。

 やっぱり、この人は気付いてる。知ってる。俺が……病気だって事を。


「うんうん。仕方ないよ。でも……」


 何でだ。なんで分かる。雰囲気か? それとも……



「良かったね?」



 …………良かっ……た? 

 その瞬間ついさっきまで考えていた疑問なんて綺麗に消え去る。そして真っ白になった頭の中を塗りつぶしていくのは……その言葉。


 良かった? 良かった……だって? 何が良かったんだ。病気になって……良かったって言うのか。

 意味は理解できない。けどあまりにも唐突なそれに、俺は思わず君の方へ視線を向けていた。

 サラサラとした髪、細い眉毛。二重瞼の大きな目。君の顔を初めてハッキリと認識した瞬間だったのに、そんなのどうでも良かった。


 ただ……言って欲しかった。少しでもそんな素振りをしてほしかった。冗談だよ……って。


 けど俺の願いが叶う事はなかったんだ。だって君が見せたのは、一片の嘘も偽りも感じさせない……優しい笑顔だったんだから。


 本気だ……本気で思ってる。この人は良かったって、本当にそう……思ってる……

 全身に寒気が走って鳥肌が腕を覆い尽くす。


 それは恐怖だった。笑顔を浮かばせながら、人が病気なった事を良かったと思える……その考えが理解出来ない。それを口にする行動が理解出来ない。自分の範疇を越えた、得体の知れない目の前の人物が怖くて仕方がない。


 と同時に、体が震えだす。それは怒りだった。

 初対面のくせに、なんでそんな事が言える。ふざけるな……元から俺を貶める為に声を掛けたんだろ。憐みの目で見るのが目的だったんだろ。


 そんな異なる2つの感情が混ざり合う。


 何を考えているのか分からない恐怖。

 何を考えているのか分からない怒り。


 どちらかが消える事はなく、とめどなく続いた。そしてついに……限界を迎えたんだ。


「ふっ、ふざけんな! 何が良いんだよ!」


 叫ぶように放たれた言葉、その瞬間だけは理性も何も働かない。


 気が付けば立ち上がっていて……気が付けば待合室はシーンと静まり返っていた。

 思わず辺りを見渡すと、皆俺を見ていた。受診に来た人も、看護師さんも、入院してる人も全員。


 注がれる視線は冷たく、恥ずかしく……とてもこの場所に居られるものじゃない。耐えられるものじゃなかった。


 だから俺は……逃げるようにその場を後にしたんだ。


 これが君との出会い。

 最低で、最悪な出会い。


 だからこそ忘れる訳がない。忘れられる訳がない。


 もちろん名前を知るのはもっと先だけど……



 君、匙浜さじはまはなと俺は、この日初めて……出会ったんだ。



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