ビー玉
ゆお
ビー玉
そのビー玉を
学校からの帰り道、このビー玉を渡してきた小さな女の子が別れ際に言ったことを、茉言はそれほど信じていなかった。
「人の心を映し出す」なんて、そんなのファンタジーの世界じゃあるまいし。
実際に、映しているのはまぎれもなくグワンと歪んだ茉言の部屋で、それがただのビー玉であることは火を見るよりも明らかだった。
★
試してみよう、なんて気は茉言にはさらさらなかったが、そのタイミングがきてしまったのは、そういう運命であったのかもしれない。
今日も一緒に登校した
例のビー玉はそこに入っていた。
この場を逃してしまっても、茉言としてはそれはそれでよかったが、このままただのガラス玉にしてしまうのも惜しく思っていた。
何かを期待しているわけではない。けれど、本当に人の心を見られるのなら、一時でも特別な物語の世界を味わえるのなら、見知らぬ女の子の言葉に騙されてもいい、そういうことを茉言はよく心の中で思っていた。
夢見がちなのは幼い頃から変わらない。ビー玉を受け取ったのも、未だに幻想の世界を憧憬していたからだった。
茉言の細い手が、ブレザーのポケットにこわごわ伸びて、
「――茉言?」
名前を呼ばれて、咄嗟に身体を固めた。
顔だけをこちらに向けた友人の瞳は、茉言の目線よりも少しだけ上にある。穏やかな草原を思わせるやわらかさを湛えているが、その奥には計り知れない冷気が滞留しているようだった。
この清涼な瞳を覗き込みたいがためにビー玉を受け取ったのかもしれない、と茉言はその時気づいた。
なんでもないよ、と茉言が答えると、澄春は怪しそうに彼女の顔をみつめ、無表情で、そう、と呟いて歩き出した。
遠ざかろうとする背中の一瞬の隙を、茉言は見逃さなかった。
手をかけていたポケットから素早くビー玉を取り出し、人差し指と親指で挟み込むと、澄春の背中に向けた。片目を瞑り、覗き込む。少しすると、その丸い世界に文字がふわふわと浮かび上がる。
一瞬びっくりしたが、その文字が自身の名前を羅列して、茉言はガラスの中を注視した。
ゆっくり並んでいく一文字一文字を追って、出来上がった言葉を心の中で反芻する。
『茉言といると――』
その後の言葉に、茉言は時が止まるような錯覚を起こした。
『やりづらい……』
地面が揺れる感覚が茉言を襲った。少しの間まばたきも忘れてしまいそうだった。呆然とする彼女を知る由もなく、澄春の背中は小さくなる。
そんなふうに思われていたと茉言はまったく感じていなかった。
中学からのつきあいである澄春は、当時から女子のなかでもおとなしい方だった。高校に入学してから髪を金色に染めたり、ピアスをつけて容姿はがらっと変わったが、素行が悪いわけでもなく、言ってしまえば見た目だけが不良の普通の女子だった。このところ、少しよそよそしくなることはあれど、それも無口な友人の個性のひとつなのだろうと茉言は気に入っていた。しかし、その態度こそが、ビー玉の中に映った澄春の思いを表出したものだったのかもしれない。
これまで少しも気づくことなく生活してきた自分に嫌気がさして、茉言は手の中のビー玉を強く握った。いくら力をかけたところで変形することのないガラスの球体は、彼女の指の付け根にめり込んで、痛みだけが後に残る。
気持ちを聞いたわけでもなければ、本物かどうかもわからない。しかし現れた言葉が澄春の真意だとするのならきっと、彼女がこれまで抱えていた心の痛みは、この指の痛みなど遥かに超えているに違いない。
茉言は澄春の後ろ姿を見据えた。
肩甲骨ほどまで伸びた金髪が動きに合わせて左右に揺れている。
何もなさそうなその背中がピタリと止まると、次の瞬間、また後ろを振り返った。表情は潔白で、先ほど見た言葉が嘘である気にもなる。
ここで直接訊いてしまおうか。よぎった心の声を、茉言はぐっとこらえた。
「茉言、なんか変じゃない?」
眉を寄せる彼女の耳元でピアスがキラッと光った。
ビー玉を持った拳を背中に回した茉言は、ちょっと考え事してただけ、と笑顔を作った。握り込まれた手のひらに、冷たい汗が滲んでいた。
腑に落ちないという顔の澄春は不意に顔を背けて、
「なら、いいけど」
とまた歩き出す。その姿に、茉言はなぜだか違和感を覚えていた。
★
昼休みを迎えた教室は、生徒の喋り声が幾重にも重なって、がやがやとわずらわしい波を作り出していた。
教室の中央にある澄春の席は、四方八方から音が集中する。一番騒々しいのではないかと思えるこの場所で、対面に座る茉言は、涼しい顔で携帯をもてあそんでいた。
そんな茉言の姿を澄春はちらりと盗み見る。
艶のある茉言の黒髪は毛先がツンととがっている。垂れた前髪の隙間から時々覗く瞳は、視線を落としているせいか気怠げな印象を与えている。ふだんは優しい目つきの茉言を、一風変わって見ることができるのは、この距離にいるわたしだけ。澄春はいつもそんなふうに思っては、茉言をみつめていた。
澄春は最近、ちょっとした心配事をかかえていた。そのタネは茉言だった。
最近の彼女からは言い表すことのできないわずかな違和感が見て取れた。曇天に一瞬垣間見える陽光と同じくらい些細なことではあるけれど、澄春にとってはその小さなことが引っかかる。
気を遣われているとか距離を置かれているとかそういう感じでもなく、かといって、優しくされているわけでもない。高難易度の間違い探しをしている感覚に近かった。それか、身長がコンマ一ミリ伸びているとかそういう感覚。
結局のところ、それが何なのか澄春はわからずにいた。
そのため、自然と茉言の顔を見る回数が増えてしまう。
「どうかした?」
いきなり顔を上げた茉言とまともに視線が合って、澄春は小さく跳ねた。反射的に身体が反応してしまって、少し気まずくなる。
しかし茉言はそんなことを気にも留めず、小さく笑いながら、
「今日は特に教室に人が多いよねえ」
と呑気に呟いた。
そうだね、と澄春は話を合わせようとあわてて返事をする。
「雨の日はまあ、いつもこんなものだけど」
ため息混じりにそう言って、茉言は窓ガラスの向こう側を見た。つられて澄春も窓の外を見る。
茉言の言う通り、今日はあいにくの雨。正確に言うと、ちょうど昼休みに入る前に雨は降り始めた。屋外に出ることを拒んでいるかのような絶妙なタイミングの降雨は、おそらく予定通り生徒たちを室内に抑え留めることに成功していた。
澄春たちもその例外ではなかった。天気がよければ、気分転換に二人で校舎の周りをゆっくり回ることができたのに。澄春にとって、雨は憂鬱の象徴だった。
室内に視線を戻して、ふと澄春は気がつく。スマホを持っている茉言の手とは逆の手に、何か、黒く光沢のある手のひらサイズの巾着袋のようなものがあった。手で包み込み大切そうにされたそれは、澄春のところからでも中央が少し膨らんでいるように見える。たまに机と接触すると、コツン、と硬い物どうしがぶつかるような音がしていた。
あれはなんだろうか。澄春は彼女の顔をちらりと見つつ、時々視線を下に向けた。
「茉言ー」
突然彼女を呼ぶ声が聞こえて、二人は同時にそちらを振り向いた。人物を見て、澄春の眉が不愉快そうに歪む。
教室前方の扉のところで、一人の女子生徒がこちらに向かって手招きしている。
彼女は茉言の友達の一人だ。違うクラスの生徒であるが、昼休みになると、たまにこうして茉言に会いにくる。茉言は澄春と違い、友達が多かった。
「ちょっと行ってくるね」
「うん」
椅子を引いて立ち上がると、茉言は小走りに行ってしまう。
ひとり取り残された澄春が目を落とすと、机の上に、さっきまで茉言の手の中にあった謎の巾着袋がぽつんと置き忘れられていた。急に声をかけられたためか、持っていくのを忘れてしまったようだ。
ひとの物だと最初は気にせずにいた澄春だったが、いつのまにか意識はその巾着袋に向いていた。
じいっと袋を観察する澄春の姿は、通りすがりの野良猫とたまたま目が合って、きまり悪くなってしまったときに似ていた。もしかしたら頭を撫でさせてもらえるかもしれない、という淡い期待とは違い、澄春の目の前にある好奇心の対象は、素早く終わらせれば取って見てしまえる。
澄春はこっそり茉言の方を見た。彼女は教室の入り口から少し離れたところでまだ話し込んでいる。背中を向けているのでこちらを見られる可能性は低そうだった。
こくん、と澄春は唾を呑んだ。手が巾着袋に伸びていく。たまに茉言を確認しながら手に持ったそれを握るとやはり硬かった。ゴツゴツとした感じではなく、滑らかな球体をイメージさせる。そっと開けてみると、中にはビー玉が入っていた。
何でこんなものを? と思いながら取り出す。にごりのない透明なガラス玉は、蛍光灯の光を取り込んで、きらりと輝いた。覗き込むと、ぐにゃりと曲がる教室が映り、一瞬、あれ? となったが綺麗なことには変わりなかった。
この世界の中に茉言を取り込んだらきっと、より美しくなるかもしれない。
澄春はまだ話し込んでいる彼女を確認すると、そちらに向けてビー玉をかざした。
歪んで映る茉言の背中。廊下の蛍光灯では明るさが足りず、ぼんやりとはしているが、眺めるその光景に、澄春は心を奪われていた。
少しして、やっぱり変だ、と澄春は思った。自分の目がおかしいだけかと思い、目をこすってみても、変化のない光景に少し戸惑った。
茉言の背中から何か黒くて細長いものが浮かびあがっている。墨でさっと引かれたような線が、ゆっくり漂いながら並んでいく。文字のようだと気がついて、澄春は心の中で読んでみた。
『わたし』と出たすぐ後に、『きらわれているみたい』と続いた。
嫌われてる? なんだこれ? と思いつつも興がさめることもなく、その続きを待っていると、出てきた言葉に一瞬思考が停止した。
『澄春に』
驚きのあまり、かざしていたビー玉から視線を外して茉言を見た。その背中に文字はなく、再び覗いても、逆さまになった歪んだ世界が映っているだけだった。
どういうことだろう。わたしが茉言のことを嫌ってる?
澄春は廊下にいる茉言を見やった。
微塵も心当たりのない感情に、困惑を隠せない。間違ってもそんなことを言わない自信のある澄春の心に、形にならない不安が押し寄せる。
そういえば、と最近の茉言の異変を思い出す。ミクロの違和感。もしその違和感が今見た言葉と関係があるとして、どうして茉言はそんなふうに思ってしまったのだろう。まさか。
咄嗟に手の中のビー玉を見ると、さきほどまでの清澄なガラスとは打って変わって、中に靄のようなものがかかり、白く濁ってしまっていた。
どうしようかとあたふたしているうちに、茉言が友人と別れる姿が目に入った。
あわててビー玉を巾着袋に戻すが、少し手間取って、茉言が席に到着するぎりぎりになってしまう。
青白い顔色をした澄春を不思議に思って、どうしたの? と茉言が声をかけてくる。なんでもない、と澄春は首を横に振って答える。手に持っていた巾着袋を差し出した。
「茉言のだよね」
一瞬虚を衝かれたような顔になった茉言は、すぐに表情をゆるめて、
「あれ、落としちゃったみたい。拾ってくれてありがとう」
それが手に渡ったのと同時に、澄春はおそるおそる口を開いた。
「それ、何?」
いきなりの質問に、茉言の顔がわずかにこわばった。
澄春は息を呑んだ。まずい質問だったかもしれないと後悔したが、すでに遅かった。
「……ちょっとね」
茉言の小さな口から出た声は、追及を拒んでいることがはっきりとわかった。
その笑顔はどこかぎこちなく、興味本位で舐めてしまったらきっと、強烈な苦味で悶え苦しむに違いないと澄春は思った。
何事もなかったように席につく茉言の横顔を眺めながら、澄春は言葉にできない思いをぐっと喉元で抑え込む。
考えなくてはいけないことはたくさんあった。けれどそれができなかった。問題はその表情なのか、浮かび上がった言葉なのか、気づけなかった自分自身なのか。
ビー玉越しに彼女を見なければよかったという後悔が、二人の視線を断ち切った。
ビー玉 ゆお @hdosje8_1
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