胸の夢

 私は道の真ん中にひとり立っていた。

 周囲は暗幕を掛けられているかのように真っ暗で、深い闇が息を潜めて静かに佇んでいる。あまりに暗いために自分が今どこにいるのかは分からなかった。どうして道の真ん中に立っていると感じたのかも、分からなかった。

 闇の中に独りという感覚が、私の胸をむしばむ。辺りをいくら見渡しても、そこには闇が広がるばかり。どこまでも闇が広がっているようだけど、私は、壁が近づいて来ていて今にも押し潰されてしまうかというような圧迫感を感じた。

 怖い。

 足元から冷たい水に浸っていってしまっているような感覚が這い上がってくる。冷たい恐怖から、足が、体が、手が、震える。

 あまりの震えから足に力が入らなくなる。私は腰が抜けてしまったように、その場にへたり込んだ。地面に座り込むと、地面が冷たいのがよく分かった。ひんやりとした感覚が私のお尻をねぶる。

 ――トン、トン、トン。

 何か音がする。変わらぬ一定の間隔でその音は続き、私の方に徐々に近づいてくる。私は怯えて震える瞳を辺りに向けてみるが、そこには闇が広がるばかりで他の姿などは何も見受けられなかった。

 しかし、確実に音は近づいてくる。

 私は自分の肩を抱きしめ、その場にうずくまる。

「来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで……」

 私は恐怖に震えた声で呟きつづけた。しかし――――

 トン、トン、トン――と音は近づいてきた。

 私はより一層きつく肩を抱え、揺れ動く視線を真っ暗な地面に向けた。まるで唱えていれば救われると信じているように「来ないで」と漏らし続けていた。

 だが遂に、音は私のすぐ傍にまで来た。

 ――トン、トン、……、トンッ。

 目の前で音が止まる。私は恐怖のあまりに「来ないで」と唱えることすらやめ、固く口を閉ざした。全身が心臓になってしまったかのように、鼓動の一音一音が身体中を突き抜ける。それに合わせて、心の奥底から不安が突き上げられてきた。私は止めどなく溢れ出てくる不安の中で孤独に絶望に向き合った。

 私は地面に落としていた視線を少し上げる。どこを見ても、そこには闇が広がるばかりでそれ以外には何も見えないはずなのに、目の前には異質な存在を感じた。

 闇より黒いモノ。

 実際には何かが見えたわけでもないし、単なる気のせいだと言われたらそうかもしれないけれど、私には目の前に闇より黒い何かが居ると思えた。異質としか言えない存在が異様な圧迫感を私に突き刺してきている気がした。

 私はその何かを見た瞬間に息を飲み、まるで心臓が凍りついてしまったかのような感覚を覚えた。身体の芯まで冷え切り、骨の髄から震えあがった。怖くて堪らなかった。

 私は現実から目を背け、ふたたび視線を下に落とした。これは夢だ、絶対にそうだ、と自分に言い聞かせつづけた。けれど、そんな言葉は焼け石にかけた水のように、一瞬にして消えてなくなった。何の役にも立たないし、何の支えにもならない。私は恐怖の中で独りだった。

 ペタ、ペタ、ペタ……。ヒタヒタヒタ…………――――。

 また音が聞こえた。今度は音の種類が一つではなく、複数のものが私の耳に届いた。その音は滴り落ち続ける水滴のように冷たげで、私の心を凍え震えさせた。

 複数の音はそれぞれの速さで徐々に私の方へと向かってきた。けれど、私は動けなかった。目の前から感じる威圧感に身体が竦み、がたがたと震えることしかできなかった。私はその場に小さく丸まり、どこに焦点を合わせるでもなく、かすかに揺れ動く視線をずっと下だけを向けていた。

 音は私の傍に辿り着く。音の一つは私の右で止まり、もう一つは左で止まった。

 私は両側から押し潰されそうな異様な圧力を感じた。あまりにも異様なために、私は胸の奥に何かが蠢いているような感覚を覚えた。その感覚は少しずつ大きくなっていき、私の胸を内側から食い潰しているかのようだった。

 ガシャンッ、ガシャンッ。

 その音は唐突に私の耳を突いた。私は背筋に冷や水を垂らされたかのように大きく肩を一度弾ませ、身体をおのおのと震わせた。

 鉄が擦れ合うようなその音は無機質に響きながら、私に近寄り、遂には私の背後に立った。他の三つ同様に、異様な気配が私の背中を刺す。私はその場に縫い付けられたように動けなくなった。

 刹那の沈黙。静けさが恐怖を煽った。静寂を振り払おうと私の中で激しく心臓が跳ねまわる。胸の奥で蠢く感覚は喉元を這い上り、吐き気を覚えた。

 もしかするとこの吐き気に従えば、私は激しく脈打つ心臓を吐き出してしまうかもしれない、と思った。けれど、込み上げてくるのは吐き気ばかりで、何かを吐きだすことは出来なかった。いっそのこと吐くことができればまだ楽だというのに、私には吐き出すものなんて何もなかった。胃の中は空っぽ。喉を蝕んでいくのは酸っぱい胃酸ばかりだった。


 ――――か~ごめ、か~ごめ……


 どこからか声が聞こえた。どこか幼さの残る女の子のような声。聞き覚えはない。けれど、私のことを呼ぶのは――――だれ?


 ――――か~ごのな~かのと~り~は……


 声は声でも、それは歌声だった。複数の女の子たちが楽しそうに歌っているように聞こえる。けれど、どこか冷たい気がした。

 歌声に混じって別の音が鳴りはじめる。それは私を囲み、四方すべてから聞こえた。


 ――――い~つ、い~つ、で~や~る……


 私を中心に音が回る。私を囲んで音が回り動く。トントンという乾いた音も、ペタペタやヒタヒタという冷たい音も、ガシャンガシャンという無機質な音も――――すべてが私の周りを回っていた。


 ――――よ~あけ~のば~んに……


 音はどんどんと大きくなっていく。私は騒音の中に独り。恐怖が胸の奥で暴れまわる。胸の奥から苦しみが込み上げてくる。それを抑えようとしても、全身は震えてばかりいてどうにもならない。


 ――――つ~るとか~めがす~べった……


 恐い。ただただ恐い。その先を…………歌わないで。


 うしろのしょうめん、だ~あれ?


 すべての音が一瞬にして止み、静寂の中に突き落とされた。

 沈黙。身の毛がよだつほどの沈黙。

 止めて。静かなのはもう嫌だ。

 独りでいるのは、もう嫌だ。

 寂しいのは……もう……――――

「イヤアアアァァァアァ」




 私は飛び起きた。髪をむしり取りそうなほど頭を抱え、恐怖に彩られた瞳は焦点が定まらない。呼吸は激しく乱れ、吐く息ばかりが先走っていく。額には大粒の汗が光り、全身もべたべたと汗ばんでいた。

 ザアアアァァ……――。

 雨音が聞こえる。私は少しずつ落ち着きを取り戻していき、震えのなくなりつつある瞳で周りを見た。

 見慣れた部屋。いつもの小屋。真っ暗ではあったけれど、徐々に暗闇に目が慣れていき、細かい物の輪郭までも把握することができた。

 私は落ち着きを完全に取り戻し、安堵の溜め息さえも漏らした。

 すべては夢、夢だったんだ。単なる夢だったんだ。

 そう自分に言い聞かせた。すべては現実ではない。単なる夢に過ぎないんだ、と。

 刹那、白い光が小屋全体を包み、激しい爆音が天から落ちてきた。雷光は闇の居場所はもうないと言わんばかりに部屋全体を照らし出し、障子越しでさえもまばゆい光をもたらした。

 私は目を細め、障子の方を見た。すると、そこには見覚えのある人影が映し出された。

「東斎さん!」

 私は咄嗟に叫んでいた。けれど雷は消え去り、同時に東斎さんの影も障子から消えた。

「東斎さん!」

 私はまた叫び、布団から出る。しっかりと床を踏みしめて障子の方へと駆け寄り、手をかけた。あの重さが嘘だったように障子は軽い力で簡単に開いた。

 冷たく湿っぽい空気が私を包み込む。私は東斎さんの姿を探して辺りを見渡したが、どこにも彼の姿は見つけられなかった。

「東斎さん!」

 口元に手を添えて叫んだ。しかし、私の声は雨音の中に紛れて掻き消されていく。

 ガサッ、ガサガサッ!

 その音を私はしっかりと耳にした。反射的に音がした方に顔を向けると、黒い影のようなものが竹林の中に消えていくのを目にした。

「待って!!」

 私は裸足のまま躊躇なく外に飛び出した。足裏に柔らかな泥の感触を感じながら、影を見た竹林の方に走った。

 竹林と庭との境界線の傍まで行き、私はようやく躊躇いを覚えて足を止めた。目の前には闇を抱えた竹林が鬱蒼と広がり、異様な雰囲気が静かに渦巻いている。

 私を止めたものは、またしても恐怖だった。しかもそれは常日頃から抱えていた恐怖。この竹林に入ってしまえば、自分というものが消えて無くなってしまうかもしれない、という恐怖だった。

 雨が髪を濡らし、私の頬に幾筋もの水痕を刻んでいく。身体が小刻みに震え始めた。けれど、それが恐怖によるものか、それとも雨に濡れた寒さからくるものなのか、私にはもう分からなかった。

 ただ一つ分かるのは――――もう独りは嫌だ。それだけだった。

 私は竹林の中に足を踏み入れた。



 竹林の中は不気味なほど静かだった。雨が空から降り注いでいるはずなのに、雨音はくぐもり籠もった音で、どこか遠くで無関係そうに響いていた。

 私は竹林を進んだ。足の裏では、微かに湿り気を宿した枯れ葉が崩れていくのを感じた。足元から這い上がる寒気。それを振り払うように、足を動かし続けた。

 このまま進んでいて良いのかは分からなかった。どこが正しい方向なのかなんて、分からなかった。でも、私は前に進み続けるしかなかった。

 この森に足を踏み入れた瞬間から薄々気づいていた。この森に終わりなんてない。そんな気がしていた。この森にあるのは、絶望だけ。だから前に進むしかない。だって、足を止めた瞬間に、すべてが絶望に呑まれてしまうから。その瞬間に、すべてが終わってしまうから。

 けれど、どんな絶望的状況の中でも少なからず希望はあるらしい。私はようやく追いついた背中に言葉を投げた。

「東斎さん!」

 しかし、東斎さんはこちらに背を向けたまま、身動ぎ一つ取らない。私はおかしいと思い、東斎さんにより近付こうと歩こうとした。

 ――が、私の足は動かなかった。

「えっ……?!」

 足首に締め上げられる感触が広がる。私は何が起こったのかと、自分の足の方へと視線を落とした。すると、足には人間の手がしがみついていた。

「何……これ……?!」

 私はその手を振り払おうと足を動かそうとするが、足は一向に動かすことができず、その場にくっ付いているようだった。

 手はギリギリと私の足首を締め上げた。私は一体この手の正体は何なのかと思い、背後に視線を向けた。

 泥か何かで薄汚れた手があり、腕を辿っていくとそこには私のことを睨みつけながら倒れている人の姿があった。その人は私のことを驚くほど見開いた瞳で睨みつけ、この手は二度と離さないというように口から血が零れるほど歯を食いしばっていた。

 しかし、それ以上におかしいのは、その人には下半身と言えるものがなかったことだった。上半身しかない身体で地面を這いまわり泥で汚れながらも、狂気じみた形相で私のことを睨み続けていた。

「た、助けて! 東斎さん! ねえ!!」

 私は必死に助けを求める。けれど、東斎さんは全く動こうとせず、私の方を見ようとさえもしなかった。

「東斎さん! たす……」

 私は突然首を掴まれ、言葉は途中で遮られた。あまりに強い力で首を絞められ、喋るどころか呼吸さえもままならない。強制的に細くされた気道を抜けた息が荒い呼吸音となって口から零れる。私は東斎さんの方を見つめ、心の中で「助けて」と叫び続けた。

 でも、東斎さんはやはり動いてはくれなかった。

 今度は腕を掴まれた。手首をじ切ろうとでもしているかの如く固く握りしめ、また腕を引き抜こうとしているかのように強い力で下に向けて引っ張られた。

 痛い、なんて思ったのは最初だけだった。薄い呼吸が続き、私の頭の中はもやがかかったようにかすみ始めていた。意識は揺れ動き、目の前の東斎さんの姿も二重にぶれる。

 もうだめだ。

 そう思った瞬間、目の前の二つになった東斎さんがおもむろに動き始めた。ゆっくりと顔を私の方へと向け、遅れて身体もこちらに向けた。

「と……さい……さん……」

 私は掠れた息に乗せて言葉を漏らした。心中では東斎さんに必死に助けを求め続け、そして、東斎さんが助けてくれるものだと信じ切っていた。

 けれど、現実は違った。

 振り向いた東斎さんは私の方へゆっくりと歩み寄ってきた。私は目で訴えようと東斎さんの瞳を見つめた瞬間、全身が凍りついてしまったような感覚に襲われた。

 冷め切った瞳。冷酷な瞳。人を人と思っていないような、瞳。

 私は初めて東斎さんに恐怖を覚えた。その瞳に宿る未知の存在に恐怖せざるを得なかった。私は心の中で「来ないで」と叫び続ける。けれど、東斎さんは歩みを止めることなく、私の目の前まで歩み寄ってきた。

 東斎さんの冷淡な瞳に私が映り込む。ひどく怯えた顔が、東斎さんの冷めた瞳越しに見えた。絶望に満ちた、最期に直面している顔。もう終わりなんだ。

 東斎さんは私を見つめたまま、ゆっくりと手を私の胸に当てた。温もりも何も感じない、死人のように冷たい手。その手は爪を立てて私の肉に食い込んでいった。

 胸の辺りに温もりが広がる。温かい液がほとばしっていくのを感じた。同時に、私の中に冷たいものが入りこんでくるのも感じた。心臓の脈拍が何かを拒むように速まっていく。全身の血管が熱くたぎり出す。

 しかし、次の瞬間、すべては静かになった。心臓の鼓動は身体の内から消え去り、たぎっていた血管も瞬く間に熱を失った。

 痛みも息苦しさも、すべては朦朧とする意識のなかに埋もれていき、私の目の前の光景は眩暈めまいでも起こしたようにくるくると回転を始めた。不思議と痛みも息苦しさも消えて無くなり、頭も冴えてきたような気さえし始めた。

 ようやく目の前の回転がおさまり、私は通常の視点を取り戻したかと思ったら、その目線はまるで地に伏しているときのようなものだった。倒れた覚えも倒された記憶もないのにおかしなものだと私は辺りを見渡し、すべてを察した。

 眼前に広がる光景。そこにあったのは私の身体。黒ずんだいくらかの手に掴まれ、身動きひとつ取れない有り様になっている身体。

 けれど、そこに私の顔はない。私の頭はない。だから、分かった。

 視界の端がじわじわと黒く染まっていく。冴えたと思った意識も徐々に刈り取られていく。消えていく意識の中、最後に東斎さんの姿を見た。

 東斎さんは赤黒い私の心臓をその手に掴み、恐ろしいほど冷めた瞳で無表情に見つめていた。

 私の意識は黒一色に塗り潰され、すべてが消えた。待っていたかのように、どこかで誰かが歌い始める。


   かごめかごめ

   籠の中の鳥は

   いついつ出遣る

   夜明けの晩に

   鶴と亀と滑った

   後ろの正面だあれ?

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