少女と咄人 その伍

 私は大きく目を見開いた。

 全力疾走をした後のように心臓が飛び跳ねていた。呼吸は一定の律動を保てず激しく乱れきってしまい、全身に嫌な汗が滲み、不快感に纏わりつかれていた。

 不快この上ない有り様の私とは対照的に、外は清涼感のある雨音に包まれていた。しとしとという単調な音が耳に届く。空は厚く重ったるい雨雲に覆われているのか、朝とも夕とも判断のつかない薄暗さだった。

 汗でべたべたとする身体を冷やすため、外に出ようと布団から起き上がろうとする。が、身体はまったく動かなかった。驚きのあまり、口からは言葉になりきれない息が零れた。

 私の身体はまるで金縛りにでもあっているかのように、指先ひとつ自由に動かせなかった。杭でその場に固定されているかと思うほど、まったく動かなかった。

 私の気の焦りに合わせ、心臓が鼓動を早めていく。全身が鼓動とともに震える。呼吸が震えに掻き乱された。

 頭の中が半狂乱状態に陥っていた。一体自分の身に何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。視線は何を見るでもなく絶えず右往左往として、金縛り状態では自分の意思で動かせるのは目だけだというのに、どこに焦点を合わせているのか自分でも分からなくなっていた。気の焦りばかりが加速していき、私の意識は虫食い状態になっていた。

 突然、ある音が私の意識に土足で踏み込んできた。その音を聞いた瞬間、私の中での気の焦りが一気に引いていき、不思議なことに落ち着きを取り戻し始められた。どこか遠くでしとしとと降り続ける雨音に混ざり、その音は近づいてきていた。

 ズシャッズシャッ、というぬかるむ地面を踏みしめる音。足音ははっきりと私の耳に届き、その他の音はどこか遠くで無関係そうに鳴っていた。先ほどまでの焦燥感は潮が引くように消えていき、安堵感の波が少しずつ打ち寄せてきた。

 障子に人影がうつる。見覚えのある姿に、私は安心する。東斎さんなら私を助けてくれる。きっとそうだと信じていた。

 草履と地面が擦れる音がして、東斎さんが縁側に上がってきた。障子に手を伸ばし、するすると優しい音を奏でて障子は開かれた。

「おや、今日は横になっておられるんですね。お疲れのところなのでしょうか?」

 私の都合を問いかけつつ、東斎さんは慣れた様子で肩に背負っていた荷物を下ろす。私は今の自分の状態を伝えようと口を開き、言葉を発しようとした。

 けれど、私の口から言葉が出ることはなかった。零れ落ちるのは空気ばかりで、何の意味も抱けないものばかりだった。しかし私は必死に伝えようと、意味のない空気でも吐き出し続けた。だが、それが東斎さんに届くことはなかった。

 東斎さんは荷を下ろし終えると、私の枕元に座り、私を見下ろす。

「では、御咄を始めましょうか」

 一見すればいつもと同じような口調の言葉。けれど、なぜだか違和感があった。私の胸の中がざわつく。何だろう、この感じ。何かがおかしい。

 東斎さんは瞼を下ろし、深呼吸を数回。そして瞼を上げると、そこには冷ややかな瞳があった。その瞳が私を見下ろし、私と眼が合った。

 瞬間、氷水の中に飛び込んでしまったかと勘違いするほどの寒気が私を襲った。寒気に続き、死んだような冷たさの恐怖感が足元から一気に這い上がってくる。

「これからお話ししますは怪談咄」

 東斎さんは淡々と冷たげな口調で語りはじめる。瞳は相変わらず冷め切り、虚ろなものだった。そこに私が映っているとは思えないほどに。

「アヤカシや幽霊、怪異や化物にまつわる類から、出所不明の噂咄に至るまで、種類は様々に御座いますが、全てに一様に申しあげられることが在ります」

 無感情に進んでいく言葉。それは本当に私のために語られているものなのだろうか? 湧き起こってくる疑問が恐怖にげ変わっていく。なんだか怖くて堪らなかった。

「それは、これから致します御咄は何処かの土地に息づいているということで御座います」

 東斎さん。あなたは一体、誰に話しかけているの?

 そう訊ねたいけれど、私の口から虚しく空気が漏れるだけだった。

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