後ろの正面だあれ

あろん

少女と咄人

 人里離れた山の中。そこに広大な竹林が広がっていた。

 先が見えないほど高く伸びた竹がうっそうと葉を茂らせ、日中でも光は地に差さない。その薄暗さがもたらすものなのか、竹林一帯には異様な雰囲気が満ち満ちており、まるで別世界が広がっているかのように人を寄せ付けようとしない。

 しかし、それでも興味を抱く者が居り、竹林の中へと足を踏み入れる。彼らは迷わぬように十分に用意をして中に入るのだが、誰一人として帰ってきた者は居なかった。

 一度入れば、二度と戻れぬ森。

 いつしか人々はあの竹林に足を踏み入れてはいけないという掟をつくり、その森にこう名付けた――

 夜籠やかごの森、と。


        …―◆―…


 どこかで鳥たちがさえずり、竹が風にそよいで葉を鳴らす。それらはどこか噛み合っていないようだけれど、自然という一つの纏まりの中に綺麗に収まっている。

 私は、静けさと自然の音が混ざり合っているのに耳を傾けつつ、ゆっくりと瞼を開けた。

 薄暗さの漂う、見慣れた部屋。どこも変わりがない。

 私は掛け布団を押しのけながら起き上がる。

 八畳ほどの部屋を囲む障子の外には、部屋にはない明るさがあるのが見て取れる。布団から出て立ち上がると、障子に向かい、いきおいよく開け放った。

 視界には目の前の縁側と、その向こうにある照らされた地面が入ってくる。縁側を進み、私は履物を履いてそこにおり立つ。

 空からは心地の良い温もりが降り注いできた。その中に身を預ければ、不思議と生き返るような感覚を覚える。

 私は起きたばかりの身体を慣らそうと軽く伸びをしてから、息をひとつ吐き、辺りを見渡す。

 そして思った。

 ……思い出せない。ここはどこなんだろう。

 そう、私には記憶がない。気が付いたらここに居た。この、何もない小屋に――。



 初めてここに来た日のことは覚えていない。正確には、ここに来たという記憶と、それ以前の記憶がない。

 目覚めたら、ここに居た。起きたらあの布団で寝ていて、それより前のことは一切思い出せない。

 唯一覚えていることと言えば、自分の名前だけ。かごめ、という私の名前だけ。それ以外のことは何も覚えていないし、分からなかった。

 分からない事ばかりで頭を抱えていた私は、一度整理しようと場所を確認した。

 この小屋は八畳の部屋があるだけで、その周りを縁側が囲んでいる。例えるなら、どこかのお金持ちの家が所有している離れの茶室という感じ。侘び寂びを追求した結果なのか、とても簡素な作りだ。

 この小屋から出ると二間(約3.6メートル)ほど剥き出しの地面が続いており、その先には深い竹林がどこまでも続いている。そのため小屋の外に出て空を仰いでみれば、空が丸く切り取られてしまったかのように、丸い空が顔を覗かせている。

 竹林を覗いてみれば、好き勝手に竹が所狭しと生えており、規則性も計画性も感じられずただ混沌としているばかりだった。けれど、それにもかかわらず竹は絶対に小屋の周りの地面に侵食はすることなく、その境界線で綺麗に真ん丸の円を描いている。その不思議な光景に加えて、竹林には異様な雰囲気が居座っていて、人の接近すらも許さないように見える。もしその雰囲気の中に身を委ねてしまったら、自分と言うものが消えて無くなってしまいそうな恐ろしさがあり、私は竹林に足を踏み入れることはできなかった。

 そのため、私はこの小屋と庭のような地面という限られた空間にだけ身を置いていた。特にすることもないので、普段は縁側に腰を下ろして、空をずっと眺めているだけ。

 だけど、今日はそれも満足に出来そうもない。



 青空を雲が遮りはじめ、日の光が徐々に陰り行く。先ほどまでの突き抜けるような青空はその姿を消し、今では暗く重い雲が空を占めていた。その雲の重さに引かれるように空は垂れ下がり、今にも竹林の竹に刺さってしまいそうだ。

 地面には明るみが消え、竹林から滲み出る薄暗さが立ち込めだす。けれど竹林は暗さが薄れるどころか、その闇をさらに色濃く露わにしている。そのまま見ていると引きずり込まれそうな気になり、私は視線を地面に落とした。

 ポツンッ。地面に一点の濃さが映える。

 あっ、と思った瞬間に、みるみる地面は別の色に塗り替えられていき、一面が濃い色に変わってしまう。

 激しい雨だ。

 ザアザアという音が辺りを包み込み、その他すべてを排除している。鳥は鳴くのを止め、葉擦れの音は雨音に掻き消されてしまう。

 こんな日はつまらない。どこもかしこも薄暗くて、心は暗く淀んでくる。

 こういう日はすぐに寝る。別に起きてたってやることはないわけだし、それの方がいいに決まってる。

 私は縁側から垂らしている足を上げて立ち上がる。地面の方では勢いの強い雨により、私を引き留めようとするように泥が跳ね上がっている。その様を横目に見て、私は部屋の中に入っていく。

 障子を閉めてしまうと、この部屋が外とは別の世界のように感じられる。障子の外は一面に雨の降る音が支配しているのに、ここには静けさが満ちている。そして、その中に孤独感と寂しさが内包されている。

 私は虚ろな視線を落とし、そのまま布団に倒れ込む。静けさが小さく乱れる。けれど、その乱れを雨音が優しく収めてくれる。

「寂しい……」

 込み上げてきた想いをそのまま口から漏らす。漏らした言葉は床に落ち、細かく砕けて消えていく。

 雨音だけが耳を撫でている。私はゆっくりと瞼を下ろし、雨音の中に身を委ねる。



 ズシャッズシャッ。

 雨音に混ざって聞き慣れない音がする。それは徐々に大きくなり、近づいて来る。

 私は閉じていた瞼を開き、空間の一点を見つめる。

 ドンッ。

 何か重いものを置くような音。小屋全体が小さく揺れた。

「はぁー……ひどい雨ですね、これは」

 低い男性の声。私の耳が久々の人の声にくすぐられ、私は妙なむず痒さを覚えてしまう。

 私はおもむろに布団から身を起こし、声のした方を見る。すると、障子の薄い和紙の向こうに、縁側に腰掛ける黒い影が見えた。私は静かに障子に歩み寄り、戸に手をかけて開く。

 遮っていた薄い壁が滑っていき、視界に相手の姿を捉えた。相手の男性も障子が開いた音に気付いたらしくこちらを向き、私を見て驚いた表情を浮かべている。

「申し訳ありません。誰もいらっしゃらないかと思い、勝手に雨宿りをしてしまいました」そう言って、彼は一度頭を下げた。「ご迷惑でなければ暫くのあいだ雨宿りをさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 男性は落ち着いた穏やかな声色で語る。その声はどこか耳に心地よく、むず痒いどころか安らぎを与えてくれるものだった。

「全然かまいませんよ。それどころか大歓迎です」

 一方の私は人に出会えた喜びを声音に露わにして笑顔で答えた。感じていた寂しさはどこへやらという具合で、今では嬉しさに満たされている。

「そこでは濡れてしまいますから、どうぞ中へ入ってください」

 私は彼を中に入るよう促し、彼は会釈をしながら答える。

「お言葉に甘えさせて頂きます」

 そして男性は履物を脱いで部屋の中に踏み入る。私は彼が履物を脱いでいる間に布団を片付け、部屋をちゃんと使えるように場所を確保した。

「どうぞ。お好きなところに座って下さい」

 私は布団を部屋の隅に置きながら言った。

 男性は背負っていた荷物を下ろし、畳の上に腰を下ろす。その荷物はまるで旅の行商人が持っているような木製の丈夫そうな出来の品であり、ずいぶんと重そうな印象を抱かせる。

 私は視線を荷物から彼へと移す。

 男性は荷物から布を取り出し、濡れた髪や衣服についた露を拭きとっている。その外見から察するに年齢は三十前後。顎にはかすかに無精ひげが生えており、髪は短く刈り上げられている。服装は、まるで森林をまるまる絞って染め上げたかのような深緑の着物に、墨汁につけたような黒の帯を巻いていた。

 そこで男性が口を開いた。

「こちらにはお嬢さん以外にどなたか居られるのですか?」

 彼にとって私が『お嬢さん』という扱いになるのは当然のことだ。私は十五歳であり、彼の半分ぐらいしかないのだから。

「いえ。ここにはずっと一人で住んでおります」

「そうですか……御一人で……」男性は訊いてはいけないことを訊いてしまったという感を滲ませる。「わたしのような者で良ければ、お嬢さんのお役に立てることはございませんか? 雨宿りをさせていただいている御恩をお返ししたいのですが」

 私は少し考える。けれど、すぐに答えを見つけた。

「では、お話をしていただけないでしょうか?」

「はなし、ですか」

「ええ。私はずっとここに籠もりっきりですので、外の世界のことは何も知りません。ですので、何でも構いませんから、お話をしていただけないでしょうか?」

「ふむ……これは何かの巡り合わせで御座いましょうか……」

 男性は腕を組んで口を真一文字に結び、考えるような仕草をする。

 私は彼の言わんとするところが分からず、疑問を投げかける。

「どういう事でしょうか?」

「実を申しますと、わたしは人々に話をすることを生業とする咄人とちびとという者なのです」

「とちびと……?」初めて耳にする言葉だった。けれど、胸の高鳴る言葉でもあった。

 私は興奮気味に彼に近づき、「一体どのようなお話を聞かせていただけるのですか!」と期待で目を輝かせる。

 あまりの私の勢いに彼は少々身を仰け反らせつつ言葉を紡ぐ。

「まあまあ、お待ちください。わたしは咄人ではありますが、それぞれの咄人には専門とする話の種類がございます。笑い話や泣ける話、風刺もあれば昔話もあります。そして、わたしの場合は怪異でございます」

「怪異……ですか?」

「はい。アヤカシに関わるものや怪談、時には噂話に至るまで怖い話全般を専門としております。ですから、わたしにできるはなしは怖いものに限られてしまいますが、それでもよろしいでしょうか?」

 怖い話と聞き、私は少なからず躊躇を覚えてしまうが、最終的には話を聞くことができるという喜びと期待が勝ってしまった。

「はい。怖いお話でも構いません」

「分かりました。では……まずは遅ればせながら自己紹介を――」と言い、彼は正座をする。「わたしは東斎とうさいと申します。以後お見知り置きを」

 彼は落ち着いた口調でそう告げ、深く頭を下げて座礼する。その様に触発され、私も綺麗に座り直してから自分の名前を伝える。

「私はかごめと申します。よろしくお願いします」

 慌てて申し上げたために、舌足らずなたどたどしさのある口調となってしまい、恥ずかしさを覚えてしまう。

 しかし、東斎さんは気にかけた様子はなく、穏やかな笑みを浮かべて、「よろしくお願いします」とまた頭を下げた。

「では、かごめさん。御はなしを始めてもよろしいでしょうか」

「はい。よろしくお願いします」

 私の言葉を聞くと、東斎さんは目を瞑り、ゆっくりと深く息を吸うと、同じぐらいの長さでまた吐き出した。その音は雨音の中でもはっきりと耳に届き、不思議と静けさが増したような感覚に陥る。

 東斎さんが閉じていた瞼を開く。その瞳を見ると、先ほどまでの穏やかさは消え去り、冷たく虚ろな印象が宿っているのを感じた。

 加えて、おもむろに東斎さんが口を開く。その口調も先ほどとは打って変わって、静けさと寒気を伴ったようなものだった。

「これからお話ししますは怪談咄。アヤカシや幽霊、怪異や化物にまつわる類から、出所不明の噂咄に至るまで、種類は様々に御座いますが、全てに一様に申しあげられることが在ります。それは、これから致します御咄は何処かの土地に息づいているということで御座います――」

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