人をやるのが一回目
不璽王
第1話
生まれ変わったらまた人間
次は猫かもしれないの?
猫は猫になる
人は人
――小林星蘭 ジンカンバンジージャンプ
――
だって、道程が明らかになったところで、私たちに変化なんてないはずだった。
後ろを振り返ると、私たちの足跡が見える。それがなんだというの。
前方を見渡すと、遥か先まで歩くべき道が決まっている。それがなんだというの。
結局、その全てを私が歩かなければならないことに変わりはないのだ。
〔一年生、一学期〕
散らばっていた意識が焦点を結んで、野原智慧は目を覚ました。長い旅を終えたような気分と聞いていたのに、そこまで大した感慨はない。代わりに、四年前まで住んでいた町の、路地の合間を抜ける風の匂いを思い出した。やらかしてしまったから、住めなくなった町。オナラ出そう。
出た。
さっきまで明滅していた
受付の人は約三十分と言っていたのに、聞き間違えたのだろうか。ソファの上で胡座を組んで尻をボリボリかきはじめて二分もしないうちに、端末から印画紙がジュビジュビジュビと音を立てて排出される。
そこに印刷されていた数字は、たった一桁。
1。
見間違いかと思って人差し指で目を擦ると、目ヤニが取れた。舐めると塩味がする。ふーん、と思う。やっぱりというか、まさかというか。でもよりによって、1か。どんな意味があるかは分からないけど「はっへぇ〜、やっぱりねぇ」という納得がある。
何が入ってこんなにパンパンになってるのか、自分でも把握していない通学カバンに診断用紙を無理矢理突っ込むと、野原智慧は診療所を後にした。
その診療所の職員たちは、慌てて関係各所に電話をかけ始めている。が、表からクラクションの音が、続いて大きな衝突音と衝撃が響いて、その全員がしばし呆然とする。
国際転生番号管理局の長田区診療所。その目の前。見通しが良い道路の信号を無視して渡ろうとした野原智慧は、軽快に運転していたプリウスのドライバーと目があった。急ハンドルでも避けきれず少女を撥ね飛ばしたプリウスは、その勢いのまま診療所の壁に衝突して停止する。野原智慧が中学一年生の夏休みに入る、その直前のことだった。
〔三年生、二学期〕
EAT KILL ALLとプリントされたTシャツに、ジーンズとスニーカーというラフな格好で野原智慧は快速から降りた。クラスメイトの北口日和が後からついてくる。彼女は麻で出来たベージュのワンピースに、鍔広の白い帽子を合わせている。
「で、三ノ宮まで出てきたけど、これからどうするの?」
北口日和が尋ねる。
「さぁ? まあとりあえず改札出ようよ」
二人はホームの階段を降りると、改札に取り付けられている、いかにも手作りといった風情の回収箱に切符を放り込む。構内は閑散として、人影も疎らにしか見えない。並んだ自動改札機はその電源すら入っておらず、ゲートは開きっぱなしになっている。改札で詰まって後ろの人間に舌打ちされる心配もなく、人混みの濁流に歩調を合わせる気苦労もない。
「広々としてめっちゃ歩きやすいけどさ、やっぱ寂しくない? この街」
小さい体でテクテクとテンポよく歩きながら、北口はよく通る声で野原に話しかける。笑う時は糸目になるその目で周囲を睥睨すると、八重歯を少し覗かせてニヒルな表情を見せる。本人はニヒルに見えると思っている。
「ゴーストタウンって言うには小綺麗すぎるけどさ、人口に対して規模が過剰だよ。過剰。やっぱ山電のこじんまりとした無人駅の方が違和感無くて落ち着くわ」
「カジョー」
野原は復唱する。
「カジョーって、あり過ぎるってことだっけ」
尋ねた野原は、すらりとした胴体から長くしなやかな足を生やしている。頭のてっぺんから糸で吊り下げられているかのように背筋は伸び、肩甲骨を撫でる髪は艶やかに輝いていた。歩く様はファッション誌のモデルのように見え、とても中学生とは思えない。
「そうそ。多過ぎて手に余るってこと」
あんたの身長みたいにね。と北口は軽口を続けようとしたが、そういえば野原があちこちに体をぶつけて青タンを拵えていたのもずいぶん昔の話だな、と思って口を噤む。
北口は帽子の下で自分の髪を撫でる。脱色してからハリが失われたが、それでもなんとか毎日のブラッシングとヘアケアでそれなりにまとめている髪。正直言うと、日毎の手入れがしんどい。
「ねぇ、デパートの屋上まであがろっか」
野原智慧が提案する。歩いているうちにデパートの近くまで来ていたのだ。
「上まで行くの? 怖くない?」
この街を、今の人口で維持することは難しい。必然的に、殆どの施設はメンテナンスフリーになっている。メンテナンスが要らないという意味ではない。利用者が各々自由にメンテナンスして、使う時は自己責任でという意味だ。死傷事故が多発しそうなものだが、多発するほど大勢の人間がそもそもいないという理由で、大規模な事故は今の所起こっていない。
「多分、大丈夫」
しなやかに伸びた指で、野原は建物を指し示した。
「あそこだったら、春頃に管理会社の人が点検してたのを覚えてるから」
〔一年生、二学期〕
日本のあちこちで記録的猛暑を更新し、熱中症にかかった人たちがバタバタと倒れた夏休みが終わった。野原智慧は松葉杖を突きながら、新学期が始まった教室に入って行く。右足の甲の何とかって言う骨が折れたおかげで、貴重な夏休みの後半は涼しい部屋で寝転びながら過ごすことができた。暑さで倒れてゆく人たちの報道を見て優越感に浸れた有意義な休みだったと、野原智慧は思っている。指を差されることが多い人生を過ごしてしまったから、人を指差すことを有意義に感じるのだ、と言うことにはまだ思い至らない。
教室に入ってきた野原を見て、クラスメイトの一人が心配気に駆け寄ってくる。眼鏡の女子、
「野原さん、足大丈夫? 車に跳ねられたんだって?」
野原智慧は、話しかけてきた御影を無視する。
慣れない松葉杖をついて歩くのは野原にとってとても難しいことのようで、一年五組に入る時に教室のドアに杖を強打することから始め、そこから中央後方よりの自分の席に移動するまでに、四つの机および椅子をなぎ倒している。
御影は野原の後を追い、倒されてそのままになっている椅子と机を元どおりに立て直すと、着席した野原に再度話しかける。
「ね、野原さん無視しないでよ。一学期は全然話出来なかったけどさ、今は見るからに大変そうな様子じゃない。私に何か手伝わせてくれない? 私わかる? 御影福楽って言うの」
声色は柔らかい。野原の傍若無人な振る舞いに対してのイラつきを感じていないのか、感じてはいても上手く隠しているように聞こえた。
「は、話しかけないでほしい。朝の時間は、寝てたいの」
言うと、野原は松葉杖を床に倒してそのまま机に突っ伏した。始業式が終わり、朝のホームルームが始まるまでの数分すら惜しいかのように。御影はそれを見て、眼鏡の奥の小さな目をパチクリさせる。
「そんなに眠たいのかしら。それとも、人間関係を深めないためにわざと壁を作ってるのかしら」
御影が呟く。思わず思考が漏れてしまったわけではなく、わざと野原に聞こえるように。
欠片も煽り耐性のない野原が、腕に埋めていた顔を上げた。
「わ、わたしから壁なんて作ってない! みんなとの間に、か、勝手に溝が出来ていく、だけ……」
御影はにんまりと笑う。眼鏡の奥の目が小さな弧を描き、口角がそばかすを押し上げる。
「じゃあ、その出来ちゃったっていう溝を、私に越えさせてよ。今日は半ドンだけどさ、明日からお昼一緒に食べよ?」
野原はたじろぐ。今まで、野原の原人じみた挙動に対する拒絶感を超えて、距離を詰めてきた人などいなかったからだ。
「見てあれ、野人とモグラが並んで飯食ってるよ。博物館の展示かな」
翌日の昼休み。高い声もひそめず陰口を叩いているのは北口日和という少女だ。一緒にお弁当を食べているのは、明るめの色に髪を統一しているグループ。共通点は、声の通りがいいこと。教室内の空気に与える影響力が一番大きな六人組の集団。
モグラと言われたのは御影福楽。言われてみれば、そのシルエットと眼鏡の奥にある小さい目は確かにモグラっぽさがあるなと、陰口が聞こえたクラスメイトは内心思う。野人の方は、言うまでもなく野原智慧だ。
彼女の食事風景は、壮絶の一語に尽きる。自分の口の大きさと、箸で持てる限界量の両方を把握していないのが原因で、弁当の半分は一度机か床を経由してから口に入る。また、彼女は落ちたものを拾う時、箸を使わず手で直接掴む。加えて、食べながら口を閉じるのが下手なので、啜る音と咀嚼音がものすごい。沼地で電源を入れられたダイソンのような音だ、と向かいで食べている御影は思う。
「素材はすごくいいのに、勿体ない」
御影は嘆息する。
「なに、お弁当のこと?」
野原が口の端、小鼻、鼻の頭、うなじ、指先、手首にご飯粒及び焼きたらこやおひたしなどのお弁当の具を付着させたまま返事をする。
「それもあるけど……」
御影の視線は野原の顔に向かい、そしてそのまま頭から足の先まで、野原の体のラインをじっくりと舐め回すように見る。黒髪を伸ばしているのは美容院が嫌いだからだろうか、あまり洗ってなさそうだし、櫛も入れてないのか、ところどころで絡まりあったり結び目が出来ていたり、枝毛になったり埃が付いたりしている。眉毛は濃いが、輪郭がしっかりしている上に綺麗なラインを描いている。流行りの形ではないが、天然の美と言えるだろう。鼻筋もスッと伸びて美しいが、顔を洗う習慣がないのか脂じみてテカリが目立つ。鼻毛の処理もしたほうがいい。歯並びも綺麗なのに、よく磨かないで寝ているのだろう。色素の沈着が著しく、歯茎の血行も悪そうな色をしている。おそらく歯医者も嫌っているのだろう、歯石の掃除をしてもらったことがないのかもしれない。しかし、虫歯菌の常在数が少ないのか、治療が必要な歯が無さそうなのは良いことだ……と言う具合に御影は、頭のてっぺんから始めて爪先に至るまで順番に、野原の見た目から読み取れる情報を言語化していった。総合すると、評価はやはり「素材は良い」に尽きる。容れ物は良いのに、中に入ってる人格が、とてつもなくズボラというか、生きるのが下手というか。
「ご飯はさ」
御影が言う。
「滅多に逃げるもんじゃないから、落ち着いて、少しづつ食べれば良いと思うよ」
お弁当に入っていた煮豆を箸でつまんで、優雅に口に運んでもぐもぐと咀嚼する。
「野原さんみたいにさ、食べることだけに集中するのも良いことだと思うよ。味がよく分かるしね。でも、しばらくは箸使いの練習を意識しながら食べていくと良いと思うな。食事って一日三回でしょ、一ヶ月で九十回くらいは練習出来るってことだから。食事の時間イコール練習時間って意識を持つだけで、箸使いはかなり改善するはずなんだよね」
「し、食事って一日三回なの?」
野原が目を丸くして言う。
「お腹減ったらそのへんのもの食べるって感じで、回数は意識したことなかったな……」
これは手強いな、と御影は思う。現代日本において、どういう環境で育てられればこう育つのかが全く想像出来ない、と軽く戦慄する。
「ね、見て。目が煮豆くらいのやつが煮豆食べてるよ。共食いじゃん。ウケる」
北口日和のよく通る声が、また教室内に響いた。周りがよく見えている。キョロ充だからではなく、陰口のネタを目ざとく見つける才能があるのだろう。教室内で浮ついていた視線が発言者の北口に、次いで悪口のターゲットである御影に向かいかけて、その直前で野原に釘付けになった。
しゃなりと、上品にご飯を口に運んでいる。
野原本人は、頭の中で「少しづつ、ご飯は逃げない」と繰り返しながら食べているだけだが、それだけで今までの野原と雲泥の差がある。なにせ、元が美形なのだ。
箸の持ち方もデタラメなままなのに、それでも瞬間瞬間に絵画のような煌めきがあった。
「野原さん、それ! 凄いね! アドバイスしたばっかなのに、もう身につき始めてるじゃん!」
野原はきょとんとした顔で御影を見つめ返す。
「は、箸使いはまだよく分かってないけど……」
食べながら喋るので、口からまた米粒が旅立った。
「それでも凄いよ! 一度に食べる量を改善しただけで月とスッポンだもん! 品格のある淑女の気配が漂ってくるよ!」
褒められ慣れていない野原は、どういう表情を作れば良いか分からないくて曖昧な表情になり、交差している箸でまた弁当をつまみはじめた。本人にもわからない理由で、一筋、涙がこぼれる。
「あれ、ごめん野原さん。泣いてる? 今までがスッポンとか言っちゃったのそんなにショックだった?」
「い、いや。違う。そういう悪口とかは、慣れてるし。なんで、な、涙出たんだろ」
泣き慣れていない野原は、洗っていない頬に涙がうすら汚い跡を残しても、手で拭うこともせずに放置している。水分だからほっとけばそのうち乾くだろうと考えているのか、何も考えていないのか。見かねた御影がハンカチを取り出し、野原の頬を強めに擦る。涙と一緒に、幾ばくかの垢がハンカチに移った。
「褒められて嬉しいのと、御影さんの悪口を言われて悔しいのと、両方が混じってる気がする」
涙を拭かれた野原が呟く。それを聞いた御影は、私のことは気にしないで、とだけ返して、ハンカチを鞄にしまった。
「何あれ、なんかキショくね」
経緯を傍観していた北口が、興醒めした口調で同意を求めて問い掛けると、グループの他の四人は揃って頷いた。
〔二年生、二学期〕
その年の秋は、とても短かった。夏はいつまでも去らず、ようやく去ったと思ったらすぐに初雪を観測する。紅葉に冠雪するのはそう珍しいことではないが、街路樹のそばに落ちている蝉の死体に雪が積もってるのは初めて見たな、と御影は思う。写メを撮ってから、インスタにアップしようかという考えが脳裏を一瞬よぎったが、"穢れ"を拡散するのは嫌だな、と思ったのでやめておく。写真はカメラロールに眠らせておくことに決めた。
「何してんの? 寒いし早くマクド入ろうよ」
マクドナルドの入り口に上がる階段に足をかけて急かすのは北口日和だ。いつもはクラスの中心的三人組で遊んでいるのに、今日は何故か御影に声を掛けてきた。断ろうとは思わなかった。性格は悪いが物言いは真っ直ぐで、何より顔の造形に愛嬌がある。御影は綺麗なものが好きなのだ。
「よくあんな野生児のお守りができるね。おんなじこと何回も繰り返し教えて。根気がすごいわ」
ボックス席に落ち着いた後、ナゲットをつまみながら北口が前置きもなく話し始める。話題は野原智慧のことだ。どうやら御影に興味があるわけではないらしい。
「根気じゃないよ、期待してないだけ」
御影があっけらかんと言い放つ。突き放したような言い方。普段野原に寄り添っている姿とはズレた態度に、北口は目を丸くする。
「一回しか言われてないことをずっと覚えてるとか、野原さんじゃなくても無理でしょ。学校の先生だって予習復習しろって言ってくるじゃん。おんなじだよ。野原さんに教えてる時は丁寧に、誤解を与えないように言葉を選んでるけど、それでも百パーそのままは伝わらないし。後になって間違って伝わってたり、そもそも全然聞いてなかったんだって判明しても、『ああやっぱりな』としかならないんだ」
窓の外の雪景色を眺めながら、御影は月見バーガーを齧る。そういえば、雪見バーガーってないなと思う。
「人に期待してなかったらそもそもがっかりしないし。耳の奥まで届いてないだろうなって思いながら教えてるんだよ。そしてら教えたことを忘れられてても、別にイライラしないの。最初から期待してないんだったら、期待外れなんてありえないでしょ? だから根気とかじゃない。どっちかといえば、私は根性ない方だよ」
御影は北口の目を覗き込む。
「今の話、なんとなくは伝わった?」
北口は白けた顔をしながら感心したような相槌をうつ。典型的な、耳の奥まで届いてない状態に陥っている。
「私の考え方どう思った? この間、北口さんがクラスで『絶対他の人に言っちゃダメだからね』って彼氏のこと話してたの聞いちゃったんだけど、あ、ごめんね盗み聞きしちゃって。で、私の考え方だと『秘密を守ってもらう』ということも人に期待出来ないんだよね。その人がたった一回、うっかり口が滑っただけで反故になる約束を人にさせるなんて、私の信条に反してるんだよ。それって、その人が今後の人生で一回もうっかりしないって期待するのとおんなじってことだから。私が『言わないで』とか『秘密だからね』とか人に言う時は全部、漏れてもいいような内容のことだけ。本当の秘密は私一人の胸の中だけにしまっとくの。まぁ、それはそれで」
御影は目を伏せる
「人間関係、しんどいけどね」
「福楽は」
北口が、初めて御影のことを名前で呼んだ。
「私がもし秘密を話しても、他の誰かにしゃべっちゃうの?」
「ううん、喋らない。そりゃ私だって秘密は守るよ。みんなと同じか、多分それ以上に守ろうと努力してるよ。でも、人に期待してないから、私も出来るだけ人に期待されたくないって気持ちもある。けどそれは、私がその人に『私に期待しないでほしい』っていう期待を持ってるってことだから、あんまり強く思わないようにしてるけどね。ちょっとややこしいな。整理したほうがいい?」
北口はシェイクを一口すすると、腕を組んで視線を左上に向ける。
「うーん、なんとかついていける。まぁ私も、福楽が言いふらす気がないならそれでいいよ」
「何か、私に秘密を打ち明ける予定でもあるの?」
「いや、ないけど。一応確認だけね」
北口のナゲットもシェイクも空になった。テーブルで冷めつつあるのは、御影の食べかけの月見バーガーだけだ。
「それは、その生き方はさ」
福楽の弱みを見つけたかもしれない。そう思った北口の頬が、つい緩む。
「すっっごく、孤独じゃないの?」
「別に」
御影の表情はいつもと同じ。喜怒哀楽はコロコロ変わるのに、そのどれにも余裕を感じさせる、大人びた表情。
「他の人と同じでしょ。この世には孤独な人と、自分は孤独じゃないって嘘を信じてる人しかいないんだし」
月見バーガーの最後の一口が、御影の口の中に消える。
〔三年生、二学期〕
湿った匂いのこもるガレージの中に、目立つ影が三つ。一番大きな影は、昨日の雨でスリップして横転し、側面の塗装が剥げてるバイク。その横の影は、ボディについた傷を何とか隠そうと努力している男。そして最後、それを眺める小柄な女の影。
北口日和と、その彼氏である
「おっきい事故にならなくてよかったね」と日和が心配気な声を出す。
「ああ、マジそれな。対向車か後続車がいたらヤバかったわ。保険入ってねえし。ひよちゃん、ちょっとそこの小筆取って」
顔を向けず、甚五郎が日和に頼む。
「これ?」
日和から筆を受け取った甚五郎は、カーマインレッドの塗料を筆先に少量乗せると、繊細な手つきでボディの傷を隠していく。骨張った輪郭を固そうな皮膚で包んだ無骨な顔をしているが、それに似合わない慎重さを感じさせる。ギャップ萌えだな、と日和は思う。
甚五郎がつなぎの袖で鼻の下の汗を拭うと、日和が「あちゃ」と声をあげた。
「甚五郎ちゃん、袖についてたペンキが顔に移ったよ。口紅したみたいになってる」
「げ、マジか。肌に付くとなかなか落ちねえんだよな。そこの、綺麗な方のウエス取ってくれ。シンナーで拭き取るわ」
「体に悪くない?」
ヨレヨレになったTシャツを裂いた布切れを渡しながら、日和が心配げな声を出す。
「ちょっとなら心配ねえだろ」
布に軽くシンナーを染み込ませた甚五郎は、それで口の周りをゴシゴシと力強く拭う。
「見たげる」
日和は中腰でにじり寄って、甚五郎の頬を両手で包む。
「ん、綺麗になってるね」
言い終わらない内に、甚五郎が日和の唇を奪った。唇が、舌が軽くじゃれあって、離れた。
「お前、ファーストキスじゃなかったか?」
甚五郎がにやけている。
「ひひっ。私のファーストキス、シンナーの臭いになっちゃった。レモンとかいちごの味に比べて最悪じゃん」
言いながら日和は、嬉しそうに顔をくしゃくしゃにさせていた。
「北口さんのファーストキス、シンナー臭だったんだよね?」
デパートの停まったエスカレーターを昇りながら、野原智慧は以前北口日和から聞いた話を思い出して、なんとなく口にする。言葉にしてから少し遅れて、最近"思い出す"という行為に恐れを感じていることを意識する。蘇る記憶が現時点での事実と乖離を起こしている場合、野原が折れるという選択肢以外に周囲と折り合いをつける余地がない。事情があるから仕方ないと無理やり自分を納得させても、繰り返される謙譲の経験が、野原の心を少しずつ摩耗させて行く。
「え、何それ。野原さんって私に彼氏がいると思ってる? それとも彼氏じゃない男とキスするとか? しかもシンナー? 外聞悪ーい。それ、余所で言い触らしてたら許さないよ」
「……ごめん。私の勘違い。他の人の話だったかも」
ザリ、とヤスリをかけたような嫌な感触が、胸の内に響く。自尊心が削れてゆく。北口から惚気話を聞かされていたのは先月のことだったろうか。その間に備中屋甚五郎の存在は神隠しにあったように搔き消えたのだろう。もう、どこにも記録は残ってないし、誰の記憶にも残っていない。
ただ一人、心中で「時代がかった名前だな」と思った野原の記憶を例外として。
〔一年生、二学期〕
「ね、ねぇ御影さん。今日のクラスってこれで全員?」
冬休みに入る直前、終業式を翌日に控えた、最後の昼休み。野原が御影といっしょにお昼を取りはじめた二学期が、もうすぐ終わろうとしている。弁当を食べる野原の髪には櫛が入れられ、分かれ放題目立ち放題だった枝毛も今はない。眉毛も鼻毛も手入れされているし、今は冬服なので見えないが、体のあちこちに作っていた青あざも全て薄く目立たなくなっている。以前のように口で箸を迎えに行くのではなく、箸を口に運んで食事を進める野原の姿は、背筋がピンと伸びているのもあって非常に見栄えが良い。
「……食べる姿は、百合のよう」
見惚れていた御影が、思わずそう呟くほどに。
「え?」と野原が聞き返す。
「あ、ごめんボーッとしてて。さっき何か質問した?」
「あっあの、クラスの人数が、えぇと……少ない、ように思えて」
野原の記憶にある一年五組のメンバーは三十四人。なのに今は(と、野原は机の数を数え出す。5×5で25と、あまりが4だから29。九九なら苦もなくこなせるようになっている)二十九人。声の大きい北口のグループからは三人居なくなっているし、バイオリンを習っている上品な女の子もいつの間にか見なくなった。あと一人については、野原の印象に残っていなくて顔さえ思い出すことが出来ない。休んでいるのかと思って気に留めないでいたら、いつの間にか机も片付いていて、最初からいなかったかのようになっていることに気付いて野原は恐怖する。それでも自分の知らない事情をはっきりさせるのが怖くて人に尋ねないでいたら、あっという間に学期末になってしまった。
「え? いつも通りだと思うけど」
「あの……坂口だったか坂上だったかっていう人とか、間宮さんだったと思うんだけど、バイオリン習ってるって言ってた子とか、いたのに、今いないよね?」
御影はキョトンとした顔になる。
「いるもいないも、そんな人達、私は知らないけど……あ、坂じゃなくて酒田くんならいるよ? ほらあそこに」
指された方を見やると、酒田くんというのはやはり野原の記憶にある坂なんとかさんではなかった。弱々しく首を振り、何だろうこれは、と思う。
九月から御影に色々と教えてもらうようになり、野原は自分がいかによちよち歩きで人生を過ごしていたかを知り始めていた。だから今直面している不可解な状況も、自分がまだ知らないだけで、他の人にも普通に起こっている出来事なのかもしれないという懸念がある。御影に聞けばわかるだろうか、でもなんて聞けばいいのかがわからない。記憶の問題、それとも世界の問題なのだろうか。
「あのさ、き、記憶が知らないうちに変わることとか、昨日まで普通だったことが朝お、起きたら普通じゃなくなってたこととか、そういうのって誰にでもあること? このクラスの人数、わ、私は三十人以上いたと思うんだけど、その三十以上って数字は私の中で」
野原はもう一度、自分の記憶の強固さを確認する。
「ま、間違いないものなんだけど」
御影は野原の問いかけに応えることが出来ない。一年五組の人数は今と同じ二十九人。御影の中では、それは春の入学式から一度も変わったことがない数字。転出も転入も無かった。死亡事故や行方不明も無い。ましてやそれが私の記憶から消えるなんて、と思っている。だが、戸惑いながらも感付いている。恐れながら、けど真剣に問いかけてくる野原の記憶と、御影の記憶。その両方が同程度の強度を持っていることに。
しばらく御影が黙っていると、野原の顔がだんだんと絶望に染まっていく。ようやく御影が口を開き、一言「怖いね」とだけ呟くと、バネが壊れた人形のように野原はカクカクと頷いた。
その夜。
いつもより早くお風呂を済ませた御影は、秋からやりとりを始めた交換日記を机に広げ、ペンを手に取った。昼間の野原の疑問について、少し長い文章を書くために。
12月23日(月)
御機嫌よう。と、思わず書き出してしまったけど、多分今これを読んでる野原さんは良い気分じゃないわよね。でも、まずはお礼から。この間勧めたばかりなのに、早速ダライ・ラマの映画を見てくれて(しかも感想まで書いてくれて)ありがとう。気に入ってくれたらよかったんだけど、転生情報が管理される前の話はピンとこなかったのかな。違ってたらごめんね。野原さんの感想を読んで、何だかそういう印象を受けました。
それで、お昼の野原さんの、記憶が書き換わるとか、世界が一変するとかの話なんだけど。あれから少し私も考えてみました。それを軽くまとめ――
ごめんなさい。
それより先に、まず私が秘密にしていたことをこれから書きます。
野原さんが骨折して学校に来た、二学期の最初の日。私はあの時すでに、野原さんがなぜ怪我をしたかも、どこでその事故にあったのかも知っていました。私のお父さんがそこで、転生番号管理局で働いているからです。
野原さんが退行催眠装置を付けて前世の人格を呼び起そうとした日の夜、お父さんはすごく変なテンションで家に帰ってきました。ニコニコしたかと思ったら心配だなぁと呟いたり、ノーベル賞ものの大発見だと騒いだり、これから忙しくなるぞと気合を入れたり、まるで躁状態。
お父さんがそんなことになったのは、野原さんの前世の人格が「呼び出せなかった」からだと、その日半ば無理やり聞かされました。お父さんのプライバシーに対する意識はガバガバなんです。野原さんの名前も事前アンケートの内容も、全部私に筒抜けでした。それで私は、クラスメイトの野原さんが人をやるのが一回目なんだと知ったわけです。これから過去へ未来へ転生を繰り返して、私を含む全ての人類に生まれ変わって行く最初の人間。それがあなたなのだと。
私と野原さんがクラスメイトだということは、お父さんには黙っておきました。面倒だったので。
それからすぐに夏休みが始まり、時間が沢山出来ました。だから、私は考えました。野原さんの魂がこれから全ての人に生まれ変わって行くことの意味を。私のクラスメイトが、人類の歴史のすべての根っこであることの意味を。それら全てのものは私へのメッセージではないか、と。(ちょうどその時、ユーミンを聞いていました)
一学期のあいだ、私は野原さんを見て「生きるのが下手だなぁ」と思っていました。「私だったらもっとずっと上手くやるのに」なんて。おこがましいでしょ? これが私。
おこがましい私はこう考えました。「野原さんが今より生きるのが上手になれば、その好影響は本人だけじゃなく、過去・現在・未来に存在する、全ての人類に及ぶんじゃないか」って。
例えば、不注意による交通事故の件数が減ったり。
例えば、返済計画も立てずに借金をして首を括る人が少なくなったり。
例えば、肩がぶつかっただけで刃傷沙汰に発展するような事件がなくなったり。
夢みたいな考えだと思いました。そうなるという根拠もないし。でも、野原さんへの影響が転生後の人格に及ばなくても、ただ野原さんの行儀がよくなるだけだから誰も損しないかな、と思って。
そういう打算があって、二学期から野原さんに付きまとって、あれこれ口やかましく指導の真似事をするようにしたの。お父さんにも誰にも内緒でね。
つまり、私は野原さんと仲良くしたくて近付いたんじゃなくて、下心があって近付いたの。
がっかりした?
もう一度書くね。ごめんなさい。
私のヘタクソな教師っぷりでも、この一学期で野原さんは予想以上に見違えるような成長を見せてくれて、だけど世の中にはなんの変化も見られないし、テレビを付けても同じようなニュースばかりで「あぁ、実験は失敗だったんだな。がっかりだわ。だけど野原さんと友達になれたのはよかったな」と思ってました。
でも、それは間違ってたのかもしれない。ひょっとしたら世界は激変していて(多分、いい方向に。私にはそう期待することしかできないけど)、けど変化の当事者である私たちにはそれが認識できてないのかもしれない。今日は交通事故件数が年間三十万件なのに、明日は年十万件になってるのかもしれない。今日は年間の自殺者が一万人なのに、明日は六千人になってるのかもしれない。
その変化、世界の変容を認識できているのは、全ての原因、最初の一人である野原さんだけなのかもしれない。
「かもしれない」ばかりでごめんね。私には何も証明できない。でも、野原さんの記憶と私たちの記憶が(それも、根本的なところで)食い違ってる理由を、他に思いつくことができませんでした。
もし、そうだとしたら。
野原さんの記憶が正しくて、一年五組のクラスメイトの数が減ってるのだとしたら。
ひょっとしたら、将来的に野原さんは、一人ぼっちになってしまうかもしれない。私は、それだけの取り返しのつかないことをしてしまったのかも。
今はただ、そうならないことだけを願っています。
〔三年生、二学期〕
「ねが・っ・て・い・ま・す・マル」
一心に手を動かして日記を書いていた野原智慧は、ここまで書いてペンを置いた。この日の、一年生の十二月の交換日記はこれで終わり。いつか御影がいなくなることがわかってから、何百回も読み返した文章。御影が野原の未来の孤独を予言して、その予言が外れるようにという優しい願いで締められた交換日記。
放課後、記憶の中の御影の筆致をなぞっていた野原のいる三年一組の教室には、野原の座っている机を除けば二組の机しか置かれていない。野原以外は誰もそれを不自然には思わない。千人を超える生徒を収容出来る校舎なのに、各学年に一クラスづつしかなくても。クラス人数が二人から三人しかいなくても。
みんな、静かに消えていった。後を濁さず、居たという痕跡さえ残さず。交換日記の、御影が書いていたところだけ綺麗に消えたように。
「やっと、御影さんの綺麗な字を真似できるくらい上手くなったよ」
野原はそう呟くと、流れ落ちる涙がインクを滲ませないように、日記を閉じた。
「野原ー。まだ帰んないの? ってうわ、きたな。まだその手垢まみれの手帳持ってんだ」
教室のドアから、北口が顔を覗かせる。野原は交換日記をスッキリした鞄にしまいながら「今帰るとこ」と返事をする。
「ねぇ、北口さん。今度、電車で神戸まで行こうか」
野原が三年生になり、中学卒業を控えた九月。世界の現人口は二千万人を超えないくらいだ。
〔三年生、二学期〕
「人類っていつかは絶滅するじゃん。絶対」
北口日和は、デパートの屋上庭園で風に吹かれながら、遠大なことを言う。
「で、私たちの転生番号って生まれた時代とか関係ないじゃん。私より若い転生番号の子が私より年下だったり、とっくの昔に死んでた人が私の転生先だったりするんでしょ?」
北口が口にした話題は、退行催眠による前世の発見に世間が沸き立った時から、何度も繰り返されてきた議論だ。
「人間の数に限りがあって、転生に過去も未来も関係ないってことは、ひょっとしたら今生きてる人の中に『転生番号が最後の人』がいるかもしれないってことだよね。証明できないけど。診断機が開発される前の人の転生番号は分かんないもんね。最後の人って死んだらどうなるのかな。転生番号1の人に生まれ変わって、ぐるっと輪っかになっちゃうのか。それとも人間から離れて別の生き物に生まれ変わるのか。もしくは仏教的な感じで、輪廻の輪から解脱するとか?」
「それこそ証明できないよ」
野原智慧はベンチに座ってCCレモンを飲んでいる。輪っかになる説は可能性が低いだろうな、と思いながら。だって、私の前世は呼び出せなかった。
「転生しきった後に死んだらどうなるかなんて、死んだらどうなるかが分からなかったのと同じくらいわかんないと思うよ? あ、ってことはつ、つまり今後分かるようになるかもしれないってことか」
北口の目が少し丸くなる。
「野原がどもってんの、久し振りに見た気がするよ。前は当たり前だったのにね。いつごろどもらなくなったんだっけ」
「もう最後の人の話はいいの?」
言いながら野原は、御影福楽が居なくなった頃からだよ、と心の中で呟く。
「北口さんと仲良くなった頃から、どもりにくくなった気がする。仲良くなったのいつだったか覚えてる?」
「なにその質問。あ、待ってでも思い出せないかもしれない。おかしいな」
北口は首をひねる。
「一年の時からクラスで二人だけの女子だったのに、最初は友達じゃなかったんだっけ? だとしたらこいつとは友達になりたくないって思うような理由があるはず……だと思うんだけど、心当たりが全然ないなぁ」
「それはね、実はその時、クラスに別の女の子がいたからだよ」
野原は本当のことを真剣な気持ちで言いながら、北口にまともに受け取られないように半笑いの表情を無理やり作る。冗談で隠して本音を小出しにする処世術。一年生の頃には考えられなかった小細工を駆使する。
「私とその別の子が仲良しで、北口さんは私とその子が仲良くしてるのが気に入らなくて友達じゃなかったんだけど、その子はいつの間にかいなくなっちゃって、北口さんの記憶からも消えちゃって、それから私と北口さんが友達になったって感じ?」
半笑いを維持しながら最後まで言い切る。泣きそうになってるのがバレませんように、と野原は願っている。幸い北口は、野原の顔ではなく空を流れる雲を見ている。
「なんか、everything is goneって感じの話だね。そういう切ないの、私好きかも」
「だと思った」
野原はCCレモンを飲みきると、空き缶を放り投げた。缶はくるくると縦回転しながら、まだ少し入っていた液体をキラキラと光る飛沫で描く放物線にして、屑かごに吸い込まれる。
「北口さん、人が悲しんでるのを楽しめる人だもんね」
〔二年生、三学期〕
クラスのグループラインに、北口のメッセージが送られる。
「御影ってさ、前から野原とずっと一緒にいるけど、実は野原含めて他人のこと全然信頼してないんだってwww」
もう一度、スマホがブルッと震える。
「秋頃に本人の口から聞いちゃったんだwwwサイコパスかよって感じだよねwwwウケるwww」
そのメッセージは、野原のスマホに三十秒ほど表示された後、なんの前触れもなくかき消えた。参加人数の表示も、24から23に減っている。その表示の変化を見て、北口のメッセージで既に軋んでいた野原の心が、耐えきれず悲鳴を上げる。一筋流れていた悔し涙の跡を、次々と新しい涙が上書きしていく。
ついに、ああ、とうとう。
御影福楽が居なくなってしまった。
予想していたことなのに。さよならも何度も言ったのに。それでも野原は慟哭を抑えることが出来ない。
寂しい、と口に出して泣く。
会いたい、と震え声で叫ぶ。
この喪失感、この苦痛には、歯を噛み締めて耐えるしかないのだろうか。この冬が終わるように、いつか刺すような悲しみが溶けて無くなる日が来るのだろうか。自分の布団に顔を埋めて、思う様泣き喚きながら、野原は考える。
人は変わる。変わっていく。私のせいで。私が前に進んだせいで。
人をやるのが一回目の私が、御影さんに付き合ってもらって「生きるのが上手になった」せいで、本来何百億回と転生しないとたどり着けなかった解脱が近付いてしまった。もともと転生回数の多かった人は、近付いた解脱に飲み込まれて居なかったことになり、転生回数が少なかった人も角が取れて性格に丸みが出てきてる。いや、後者は私の主観でしかない。そこまで自分の責任だと思うのは自意識過剰なのかも知れない。みんな普通に生きている。成長したり影響を受けたりなんて当たり前にあることだ。でも、それだとしても、人口が減っていっているのは紛れも無く私の……。主観といえば、これも主観だ。なにせ私にしか観測できない。他の人の目には見えていない。でも、とても強烈な主観。私の一番大事な人が根こそぎ失われた、メガトン級の主観。
解脱への距離。御影は、最初からだいぶ解脱に近かった。例えば最後から十億番目だったと仮定して、今、ちょうど累計の人類が十億以上減ってしまって、御影の存在は影も形も残さず消えてしまった。
影。
いや、影は残っている可能性があるのかも知れない。
解脱は、終わりは段々私に近付いてくる。「終わりから十億番目」という位置も、その度に変わっていく。転生番号という絶対的な位置ではなく、解脱との距離という相対的な距離なら、御影が居た位置に今も別の誰かが割り振られている。いや、今じゃなくて未来か過去の人に割り振られてるのかも知れないけど。
北口さんは変わったように見える。人口が減るにつれて北口さんらしい棘が減って、人格に丸みが増してきた。増して尚あのラインのメッセージなのだから、元々はもっと相当酷かった。でも、さっきも考えたように、私の成長と関係のない、普通に北口さんが大人になっただけという可能性もある。今の彼女の位置はどのあたりだろう。解脱から百億番目とか? 分からない。正確な推定なんてとても出来ない。多分、御影の位置には、まだ遠そう。
思わず、鼻で笑ってしまった。鼻水が少し飛び出たのを、涙と一緒にティッシュで拭う。
泣きながらだと変な考えをしてしまうものだ。我に帰ってしまうと、馬鹿馬鹿しくていけない。相対的に御影の位置に割り振られた誰かが御影に似た人格になっていたと仮定して、その誰かが私に会ってくれたと仮定して、その人が私と同じ時代に生まれた同年代の彼か彼女だと仮定して、どれだけ仮定に仮定を重ねても、その人は御影じゃない。分かりきったことだ。私は、もう御影に会えないということをどうにか否定したかっただけ。世界のどこかに御影の欠片が残滓のように存在してるんじゃないかと。望みのない期待を抱いて妄想を重ねていただけ。何の意味もないことは分かっているのに。こうやって我に帰った瞬間に、さらに深く傷付くと分かっているのに。
涙がようやく落ち着いて、スマホを覗く。ライングループの参加人数の表示は、22人。
〔三年生、二学期〕
「言い方酷くない?」
北口日和が、強くなる風に負けじと刺々しい声を出す。
「人が悲しんでるのを楽しんで、何が悪いの? 人の不幸は蜜の味って言うじゃん。みんな知ってる言葉でそう言うのがあるんだから、私だけじゃないってことでしょ? 何その、私の感性だけがおかしいみたいな言い草。ムカつく」
野原は北口の言葉には反応せず、歩いて距離を詰める。両目でしっかりと、北口の吊り目を見据えながら。
「私が今日、北口さんをなんでここに誘ったか分かる?」
「は? 先に謝れよバカ」
バチ! とビンタの音が響く。いきなり野原に頬を張られた北口の目が丸くなる。
「私、自分の感情に素直に生きてってお願いされたから、そうするって決めたんだ」
「は? 何?! 痛いんだけど?!」
野原は喚く北口の肩を掴むと、押し出すように進んでいく。北口の抗議を、まるで無視して。二人の体格に差があるために、北口が抵抗しても野原の歩みは止まらない。
「人の少ない繁華街の、メンテナンスが行き届いてない建物。ここから建物の裏手に落ちたら、痕跡がなくなるまでくらいなら誰にも見つからないと思うんだ。そう思うでしょ? もう少ししたら消えてしまう北口さん」
「は!? 何言ってんの? メンテされてるって言ってたじゃん! 消えるってどういうことだよ! 意味わかんない!」
野原が事前にカッターで切っていたフェンスは、穴が空いたまま誰にも修理されず今日まで放置されていた。その穴をくぐり、屋上の端まで来て野原は立ち止まる。北口は高さにすくんで足に力が入らなくなったのか、肩を掴んでいる野原の腕にしがみつき、汗をかきながら震えている。風に北口の帽子が飛ばされ、ゆっくりと道路まで落ちていった。
「御影さんはさ、北口さんのことも気に入ってたんだよ。性格が悪いだけで、素直で可愛いからって。だけど私は」
「御影って誰だよ! 知らない奴の話すんのやめろ!!」
北口が声を張り上げても、野原は喋るのをやめない。
「私は、北口さんのこと大嫌いなんだ。北口さんが罵声を上げるたびに腹が立って仕方がなかった。素直だなんてとても思えない。でも、しょうがないよね。だって私は、御影さんより」
掴んでいた北口の肩を、突き放す。
「人間が出来てないんだ」
〔二年生、三学期〕
2月3日(月)
福は内。
お父さんの協力を得て、クラスメイト全員分の転生番号を入手しました。ピース。
野原さんの参考にして欲しいので、ここに書いておきます。私の字だと記録に役立たないと思うから、別の紙に野原さんが書き写しておいてください。
1 野原智慧 1
2 堀田昭晴 36,485,352
3 北口日和 223,975,619
4 Jessica Sunkings 870,846,985
5 夏川しおん 1,170,859,513
6 野村宝仙 1,300,000,006
7 雨宮宏 1,507,000,123
8 大塚加子 1,617,477,852
9 加藤智 2,821,429,933
10 小野更紗 2,900,752,147
11 新城優姫 3,493,693,961
12 酒田呑次郎 3,614,753,656
13 野澤聖なる光(悪いんだけど、この名前書く時いつも笑っちゃう) 3,875,589,011
14 市川佑太 4,396,578,554
15 渡瀬一 4,541,988,633
16 橿原愛 4,947,896,352
17 村山穂邑 5,447,897,563
18 小山田無手勝 5,478,749,963
19 夏野杏奈 6,499,911,271
20 等々力轟介 6,549,398,224
21 薬師丸法男 7,552,555,224
22 吉田眞子 8,611,915,935
23 小崎蒼依 9,800,074,154
24 御影福良 13,758,541,536
25 理詰ジョンス 13,909,636,993
ということで、理詰くんの次が私の番ってことらしいです。
ごめんね、私には全然実感がないんだけど、野原さんにばっかり辛い気持ちにさせて。
九月から二月になるまでの間に八人。それが野原さんから聞いた、クラスメイトの内解脱した人の数。月に一人以上のペースだから、私も今月中には順番回ってくるかもね。解脱したらどうなるんだろうね。涅槃みたいなとこに行って、意識があって、不滅だったりしたら良いな。そしたら私が先に行っても、野原さんのこと待ってること出来るもんね。だいぶ長い間待つことになるだろうけど(なんせ、野原さんは最後だもんね)。
まぁ、いなくなる私のことはいいか。
私は、残される野原さんの今後のことが心配です。私がいなくなって、他の人もどんどんいなくなって、それは殺人とかそういうことでは全然ないんだけど、野原さんがそのことで自責の念に苛まれて、もし「私が自殺すれば、全部の連鎖が止まるんじゃないか」という発想に至るんじゃないか。私は本当に心配です。今、これを書くのにも勇気が要りました。野原さんの頭の中にそういう発想の芽が全く無かったら、わざわざ私がその種を植え付けることになるから。でも、伝えたいことがあるから書かずにはいられませんでした。
野原さんは絶対に死んじゃダメ。
自殺は当たり前だけど、事故もダメ。危ないとこには近付かないで。人が少なくなったら色々な場所でメンテが足りなくて様々な無理が出てくると思うから、そういうこともちゃんと考えて。機会は減ると思うけど、人の恨みも買っちゃダメだよ。
なんて。
いつもと同じような、上から目線で野原さんに教えるような書き方になっちゃったけど、実はこれは、野原さんのためを思って書いたことじゃなくて、私のわがままです。だからもし、本当に辛くて死にたくなって、その時に私のことがそんなに大事じゃなくなってたら、あまり私のことは気にしないで、自分の心の方を大事にしてください。
私が野原さんに死んで欲しくないのは、私の行動がきっかけで解脱現象が始まったからです。そのせいで野原さんが死ぬほど追い詰められるかもしれない。そう思いながらこの世を去っていくのが、辛いからです。自分本位でしょ? 私、自分の心の汚い部分にも正直なんだ。野原さんに尊敬されるような人間じゃない。考えてるのは、最後かもしれない一日一日を、憂鬱にならずに過ごせればいいなってことだけ。
でも、それで良いよね(って、自分で自分を許しちゃうずるい私)。人間一人が責任持てるのなんて、せいぜい自分の感情くらいだよ。それは野原さんも同じ。だから、私は私の気持ちのために野原さんにお願いをしたけど、野原さんも私と同じように、自分の気持ちを優先した行動をとってください。
じゃ。今日はこれで。交換日記も、これからは「今回で最後かも」ってドキドキ感が出てくるね。
〔三年生、二学期〕
屋上の端から突き飛ばされた北口は、掴んでいた野原の腕を放さなかった。
落ちるはずの北口に引っ張られてバランスを崩した野原は、ぐるりと回るようにして、北口と立ち位置を入れ替える。屋上の内側に位置を変えた北口が、腰を抜かしてへたり込んだ。
腕を掴まれたままの野原は、中腰で屋上の縁ギリギリで踏みとどまっている。
「今のひと押しで上手くいくと思ったのに、失敗しちゃった。やっぱり、慣れないことはするもんじゃないね」
震えが止まらない北口は、声を出すことも出来ない。
「ね、北口さん。今、その腕を前に突き出したら、落ちるよ私」
一歩後ろに下がれば空中という場所で、野原はため息をつく。
「なんかさ、私のすること、全然上手くいかないよ。全部失敗する。下手糞すぎて笑えてくるよ」
自嘲気味の言葉とは裏腹に、野原の目には涙が溜まっている。すでに決壊寸前で、声が震え始めている。
「もう、やだ」
絞り出すような言葉をきっかけにして、野原の眼からは涙がポロポロと溢れる。その体がぐらりと傾いて、ビルの外に向かって倒れ始めた。
北口が叫ぶ。
「私の!!」
小さな体に精一杯の力を込めて、北口は掴んでいた腕ごと、野原の体を後ろに放り投げた。
「目の前で死ぬんじゃねーよ!!」
反作用で、北口の体が今度こそ宙に投げ出される。四つん這いで倒れ込んだ野原が、慌てて縁まで這い進む。下を覗き込むと、涙でぼやけた視界越しに、落下していく北口と目があった。
野原の視界で、北口の体が涙でにじんで見えた。
そのにじみが広がって、そして、消えた。
北口日和の体が、その存在が、地面に叩き付けられる前に。
「げ、解脱したの?」
ビルの屋上に一人取り残された野原は、全ての力が抜けた体でそう呟いた。
仰向けに転がって、空を見る。流れ続ける涙は、溢れるに任せている。もうこのまま、ずっと涙が止まらないかもしれないな、と野原は思う。
〔卒業式〕
講堂には、野原智慧一人きり。
制服の胸に花飾りを付けて、壇上まで歩いて行く。
壇上へのぼり、マイクの横に一枚だけ置いてあった卒業証書を手に取ると、ゆっくり礼をしてから、壇上を降りる。
野原の足音だけが響く講堂を、重たい扉を開いて後にする。
校庭を通る時、片隅にある桜の木の枝に蕾が付いていた。野原は蕾を見上げながら、涙を流す。
「御影さん。私、ちゃんと生きてるよ」
今、最後の転生番号は、1。
人をやるのが一回目 不璽王 @kurapond
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