おれと後輩

奏橋やあど

おれと後輩

 着信の音で、おれは目を覚ました。六畳の細長いワンルームに横たえられたベッドは、学生の一人暮らしにはまあ十二分といえる寝床である。

『もしもし、せんぱい?悪いんだけど、しばらく泊めてほしくて――』


*****


 おれは普通の大学生だ。進学とともに上京し、一人暮らしをしている。最初は心細かった一人暮らしも意外に何とかなるもので、慣れた今では一人の方が気楽とすら思うくらいだ。

 さて、おれの大学生活を語る上でどうしても外せない人物がいる。名前はあおい。大学の後輩なのだが、彼女が高校生の時にちょっと助けてやって以来の仲だ。

 あおいとの出会いは大学1年の冬。おれはかねてより楽しみにしていた映画を観ようと、入試休みの日に駅前まで出かけたのだ。映画は面白かった。10年越しのシリーズ新作というだけあって、力のこもった大作だった。満足げに映画館を後にし、さて本屋でも冷やかして帰ろうかというところで、である。おれの大学を受けにきた帰りだろう、女子高生と思しき制服姿の女の子が、困り果てた様子で改札に佇んでいるのが目に入った。昼から急に降り出した雪と冷え込んだ外気の中で、コートも着ていない彼女は実に寒そうだ。この時おれの頭に浮かんだ選択肢は2つ。放っておくか、声をかけてみるか。困っているように見えるのがおれの考えすぎという可能性もあるし、まして不審者扱いなんて受けては楽しい休日に水を差す。だが未来の後輩に優しくしておくのは悪いことじゃないだろう。おれの頭を暫しそんな思考が逡巡した。

 結果として、彼女は確かに困っていた。彼女が乗って帰るはずの路線は先ほどから止まっており、彼女はスマートフォンはおろか折りたたみ携帯も持っていない。公衆電話も見つけられず途方に暮れていたところに、おれが声をかけたというわけだ。

「人身事故じゃあしばらく動かないかもな。親に連絡、するか?」

 まあ若干ナンパを疑われながらも(主におれが)寒いからと入った喫茶店の席でおれは彼女にスマートフォンを手渡し、めでたく彼女は親と連絡がついた。迎えにきた彼女の母親はおれに礼を何度も言った上で珈琲代まで置いていってくれたので、ほとんど何もしてないのにタダで珈琲にありついてしまって悪いような気までしたくらいだ。

 とまあ、これがあおいとの出会いだ。さほど劇的な出会いをしたわけでもなく、未来の後輩とはいってもうちが第一志望かも分からず、まあ顔を合わせてもあの時はどうも、くらいで終わるだろうと思っていた。そう、その時は。


 おれがあおいと再会したのは、桜の散った頃だったと思う。気持ちよく晴れた日だったから、小ピクニックの気分で昼を食べようとした公園に、彼女がいた。あの時はどうも、いやこちらこそと話をするうちにおれたちは意気投合し、昼食を共にするようになった。

 あおいはちょっとしたお嬢さまだった。実家は東京では名の知れた高級住宅地で、家はお手伝いさんのいる大きな家(おれは十分豪邸だと思うのだが、あおいが言うには他の家に比べたらそうでもないらしい。高級住宅地というのは怖いものだ)。母親との仲は良好だが、厳格な父親とは幼い頃から全くそりが合わないという。公立のうちの大学に入学したのも、名門私立を推した父親へのささやかな反骨心だそうだ。

 どういうきっかけであおいがおれの下宿に来たのか、今となってはよく覚えていない。だが、元々父親とそりの合わないあおいが、理由をつけてはおれの下宿に入り浸るようになるのにそう時間はかからなかった。やれ喧嘩をしたから帰りにくいだの、なんとなく父親と顔を合わせたくないだの、理由は様々だ。最初こそ夕飯までには帰していたものの、やがて夕飯を食べていくようになり、帰りの電車の少ない時間になった。紅葉が散ってクリスマス商戦が街を埋め尽くす頃になると、おれの下宿にはあおいの私物が増えていた。


 思えば、その日は最初から違ったように思う。いつもはうちに来ると早々に愚痴を垂れ流しておれのベッドを占領するはずのあおいはやけに静かで、いつものようにゲームをしてもそれは変わらなかった。あおいがこれほどまでに静かなのは初めてだ。あんまり静かで心配になったので、夕飯はあおいの好物たるオムライスにしてみたりしたのだが、それも効果があるとはいえない。

「あのさ」

 奇妙なまでに静かなあおいが口を開いたのは、おれが食後の珈琲を淹れた直後のことだった。

「昨日、お父さんと喧嘩したんだ」

「ああ」

 おれは普段からあおいの父親の愚痴をいやというほどに聞かされていたので、それ自体に驚きはしなかった。

「それだけならよくあることだから別によかったの。でも…」

 少しぎこちなく言葉を綴るあおいの目には涙が浮かび、それはカーペットに一つ、二つと水の跡を作った。

「わたしが大学に来るまでがんばったこと、大学に来てがんばったこと、大事な友達、せんぱいのこと…ぜんぶ、ぜんぶぜんぶ、あの人はくだらないって一言で片付けたの。わたしがどれだけそれを大事にしてたかも知らないで、分かろうとすらもしないで」

 マグカップを持つあおいの両手に力がこもっていくのが、向かいに座るおれからでもわかった。

「だから今日は、帰りにくいとかじゃなくて…帰りたく、ないんだ」

 部屋の時間が止まったような気がした。帰りたくない。その言葉をよく噛んで飲み込んで、おれが絞り出した言葉はこうだった。

「泊めてくれる友達…とかは」

 家に帰りたくないという人間を前にしてあんまりな言葉だと思う。だが、決して面倒だから厄介払いしようなどと思ったわけではない。むしろその逆だった。何かの過ちで関係がこじれてしまうことを恐れたゆえの言葉だ。半年あまりの日々で得た気のおけない友人を失いたくなかった。おれにとってあおいは、それほどまでに大切な存在になっていた。

「家のことを話してる友達はそんなにいないの。それに…せんぱいさえいいなら、ここがいいんだけど」

「そう…か」

 伏し目がちに話していた彼女が顔を上げて、おれたちの視線は自然と重なる。あおいの頬は真っ赤に染まっていたし、おれだってきっとそうだったと思う。決して広くないワンルームを沈黙が支配し、恐らくあおいと過ごした中で一番気まずい時間が流れた。ただ気まずいわけではなく、照れや気恥ずかしさの入り混じった沈黙だった。

「風呂…沸かしてくるよ」

 おれは残っていた珈琲をひと息に飲み干し、その空気から逃げ出すように風呂場へと向かった。珈琲の残り香は少し酸味を持ってほろ苦く、そしてほんのり甘かった。


 結局、その夜にそれ以上の何かが起こることはなく、おれたちの関係は今まで通りであり続けている。変わったことといえば、うちにあおいがよく泊まるようになったことくらいだ。あおいは相変わらずおれのベッドを我が物顔で占領し、おれはその隣でベッドの側面を背もたれにする。二人で何をするでもなくだらだらし、時にはゲームで何時間も遊び、レポートの提出期限が近付けばローテーブルにテキストやノートパソコンが広げられた。金曜の授業が終わったその足でおれの部屋に流れ込み、そのまま夜中までゲームに興じるのは週末の定番となった。正直、年頃の女子大生が毎週のように男の家に泊まり込むなど彼氏彼女の関係であってもどうかと思わないでもないが、おれとしては特に断る理由もないままに二ヶ月が過ぎた。年の明けた東京には雪が舞うようになっていた。

『東京では雪がなお断続的に降り続いており、あす土曜の未明ごろには大規模な積雪が予測されます。これを受け私鉄各社はあす始発からの計画運休を…』

 雪が、降っている。雪というのは嫌いではない。郷里は雪の降らない街だったし、雨と違って静かでノスタルジックだ。そんな今日はどうやらあおいが来ないらしい。すっかりあおいと過ごす金曜が日常と化していたと気づいたのは、そんな連絡を受けて待ち合わせずに帰宅し、シャワーを浴びてベッドに転がってからのことだった。おれは週末にここを独占できない。うちに来てあおいが真っ先に倒れ込むのがここだし、寝る段になってもあおいはここを譲らないのでおれはローテーブルをどかして布団を敷くことになる。だから、金曜のこの時間におれがベッドに転がっているのは極めて珍しいことだった。やはりベッドというのは眠気を誘うらしい。今年もやってきた大雪を告げるニュースを聞きながら、おれはゆったりと眠りに落ちていった。

 ピリリリ。ピリリリ。やや耳障りな電子音で、おれは目を覚ました。どうやら眠っていたらしいことを認めると、おれは電子音の主を探す。

「っと、もしもし?」

 寝ぼけた頭で記憶をたぐり寄せた通り、電子音は携帯の着信だった。発信元も確認せず、受話器のアイコンをスワイプして電話に出る。寝起きのあまりよくないおれがひねり出した声はきっと不機嫌に聞こえただろう。

『もしもし、せんぱい?悪いんだけど、しばらく泊めてほしくてさ』

 しばらく?しばらくとは毎日ということだろうか。寝起きですっきりとしない思考回路をなんとか回転させるが、うまく思考がまとまらない。心なしか声が近いようにも聞こえる。

「まあ…泊まるのは構わないとして、今どこにいる」

 決して早い時間ではないし、雪が降っては足元も悪い。駅前までくらいは迎えに行ってやろうと、脱ぎ捨てたシャツを着て上着をつかむ。

『え?ああ、“そっち”だけど』

 あおいがそう答えたと同時にノックの音がした。

「は?」

 おれはつかんだ上着を放り投げ、玄関に走る。サムターンを回すのすらもどかしく扉を開けると、そこにはあおいがいた。

『「来ちゃった」』

 まるで語尾にハートマークでもつきそうな調子で言ったあおいが手を振る。

「おっ前…」

「インターホン鳴らしても出ないからさ?」

 言われてみれば、ドアホンのランプは赤く点滅していた気がする。それにしても――

「風邪引いたらどうすんだよ、外何度か知ってんのかっ」

 おれはそう言ってあおいを室内に引っ張り込む。じゃあピンポン一回で開けてよ、という抗議は無視を決め込んだ。


 夕飯を作り、話を聞きつつ食べてからあおいを風呂に放り込み、おれは再びベッドに横になった。一週間の疲れがどっと押し寄せてきて、再び眠気に包まれる。まさに泥のように眠るというのがぴったりな表現で、ちょうど一週間前は夜中までゲームをしていたのが嘘のようだ。

「せんぱいー?せんぱいってば」

 あおいの呼ぶ声が聞こえても、おれの意識はふわふわと眠気の中を浮いたままで、絞り出すような寝ぼけ声を返すのみだった。

「もーせんぱいってば」

 あおいの声が次第に近くなる。ぺたん、という表現が似合うように、ベッドに座り込んだのが気配で分かった。ふわりとした風呂上がりの匂いが鼻腔をくすぐり、あおいの吐息がなんだか近くなる。

 ―ぴとり。

 くちびるに甘い感触が舞い、少しだけ名残惜しそうに離れていった。その柔らかな一瞬は、おれの眠気を覚ますのにはおおよそ必要十分だった。

「あ、気づいた?ふふ」

 重かったまぶたを上げたおれに、あおいはそう微笑みかけた。見慣れたはずのLED電球と、あおいの笑った顔がやけに眩しい気がする。

「わたしの気持ち」

 そう言ったあおいの表情よりも綺麗なものを、おれは見たことがない。綺麗で、可愛くて、そして何よりも愛おしい。

「せんぱいは?」

 そう言われて、まだ友人でいようとする理性が残っているはずもない。おれは力いっぱい、いっぱいあおいを抱き寄せて、ベッドに再び倒れ込んだ。

「おれの気持ち」

「うれしい」

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おれと後輩 奏橋やあど @kanahashi_yard

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