お試し恋愛!~女同士、幼馴染同士で付き合ってみた~

飛鳥井 作太

お試し恋愛!~女同士で付き合ってみた~

 1話 お試し、いかが?


 十一月。

吹く風がだいぶん冷たくなって来た。冬はすぐそこ。そして期末試験もすぐそこだ。

日々野陽火ひびの はるひのLINEに、そのメッセージが来たのは、そんなある日のことだった。


『はーちゃん、今日の放課後、遊びに行っても良い?』


お隣に住む藍郷莉音あいざと りおんからのメッセージに、陽火は『OK』と短く返した。


 *


「莉音」

「はーちゃん!」

「悪い、けっこう待った?」

「ううん! 今来たところだよ!」

 放課後。陽火が通う高校の門の前で、莉音は待っていた。

 ハーフアップにしたミディアムヘア。くりくりと大きな眼。濃紺のセーラー服は、陽火のまとっているものとよく似ているが、スカーフ通しが付いているところと真っ白なスカーフが違っていた。

 莉音は中学三年生。彼女が着ている制服は、去年まで陽火も着ていたものだ。この近くにある中学の制服。

 陽火の制服……高校の制服にはスカーフ通しは付いておらず、そのまま黄色のスカーフをキュッと結ぶようになっている。

「あ、はーちゃん、スカーフいがんでるよ」

「苦手なんだよな、これ。中学の制服は楽でいいよなぁ」

「ふふ、直して良い?」

「おー」

 あとは帰るだけなのだが、莉音は会うとそれがいつでも、きちんとスカーフを結び直してくれる。

 陽火は、自分の後ろ髪……短い髪を無理やりくくっている所為か、ぴょんと小さなしっぽのようになっている……を、手持無沙汰にぴんぴん指で弾きながら、

「莉音はなかなか背ぇ伸びないのなー」

 笑った。

三白眼気味の陽火の目は、目付きが良いとはあまり言えないけれど、それでも優しく細められると、とても柔らかな印象になる。

「はーちゃんが、どんどん伸びるせいだよ!」

 ぷく、と頬を膨らませた年下の幼馴染が可愛く、「そうかもな」と言って、その頬をつついてやった。

 莉音の鞄に付けられたキーホルダー代わりのブレスレット……金メッキがところどころ剥げている太陽のチャームが付いたもの……が、チャラチャラ鳴った。


 *


 陽火の部屋。

 元は姉の奈弦なつると使っていた部屋だったけれど、奈弦が結婚して家を出た今、陽火だけが使っている。

 スカイブルーの綺麗な絨毯とカーテン。それ以外に特に飾りの無いシンプルな部屋。

「うーん……」

「どうしたの、はーちゃん?」

 ローテーブルに置かれたジュースとお菓子を前に、陽火は低く唸った。

 ジュースは、アセロラジュース。

 かごに入ったお菓子は、個包装のおせんべいやクッキーなどなど。

「いや……兄姉の人間関係に、改めて思うところがあって」

 陽火には、二つ離れた兄の公彦あきひこ、八つ離れた姉の奈弦なつるがいる。

「思うところ?」

 ジュースを飲みながら、莉音が小首を傾げた。

 ジュースとお菓子は、姉の奈弦が用意してくれた。

 近所(徒歩五分)の酒屋に嫁いだ姉は、多忙な両親の代わりに、週二回ほど陽火たちの夕食を作りに来てくれる。今日はその日だったわけだが。

「うちのきょうだい……近場でくっつき過ぎじゃないか?」

 徒歩五分の嫁ぎ先。

 そこに、陽火の思うところがある。

「今更なことを、そんな真剣な顔で言わなくても」

「だってナツ姉の相手は、幼馴染のげんじろ兄ちゃんだろ?」

「同じキックボクシングジムに、ちっちゃな頃から通ってたんだよね! 何か素敵!」

「で、兄ちゃんに至っては、お隣のユキ兄だ。隣だぞ、隣」

 お隣のユキ兄は、莉音の兄・唯行を差す。公彦と同じ十八歳。

「……え!」

 莉音が、衝撃を受けたように目を見開き、口をぽかんと開けた。

 あ、やべ、気付いてなかったのか? と陽火は一瞬焦ったが。

「はーちゃんが……気付いてたなんて……!」

「お前、そんな真剣に驚かなくてもいいんじゃないか」

 アタシを何だと思ってんだよ。

 失礼な年下の幼馴染を、思わず半眼でねめつける。

「だって、はーちゃんって色恋沙汰には疎そうなんだもん」

「失礼な。まあ、実際疎い方だけども」

 ひと睨みも何のその。

 けろっとした顔で、莉音は「でしょでしょ?」と言って笑っている。

「でも兄ちゃんたちの場合はわっかりやすいだろ」

 お菓子……個包装になっているおせんべい……に手を伸ばしながら、陽火が言った。

「毎日のようにどっちかの家に行って、一緒に勉強して、志望大学まで一緒で、寝る前には窓越しにおやすみの合図だぞ?」

 こう、スマホの懐中電灯を互いの窓にちらっと当てるんだ。と、少し得意げに陽火は説明する。

「うわあ、最後のは私、知らなかったな……」

 ラブラブだね……。

 莉音もおせんべいに手を伸ばしてしみじみ言った。

 彼女の表情は、色んな感情をいっしょくたにした複雑なものだった。

 よぉく知っているはずの兄弟の、全然知らない一面に対しての種々さまざまな気持ち……驚きや、知りたくなかったかもという躊躇い、でも興味が無いと言えば嘘になる、そんな入り乱れた想いが、しっかりと表われていた。

「というか、何で知ってるの?」

「一回偶然見ちゃって、そっから面白いから毎日タイミング見計らって、こっそりカーテンの隙間から覗いてる」

 この二つの家の子ども部屋同士は向かい合っていて、公彦と唯行の部屋は真向かい、そして陽火と唯行の部屋ははす向かいになる。

「やめてあげなよ……」

 それにしてもお兄ちゃんがそんなロマンチックなことする人とは思わなかったなぁ。

 莉音が言って、ぱりんとおせんべいを食べた。

 だよな、意外。と陽火も、うんうん頷いた。


「そういえば……どうして近場でくっつくことに対して思うことがあるの?」

「いや、悪いこっちゃねぇんだけど」

 お次はクッキーの入った小袋に手を伸ばして陽火が言う。

「うちはナツ姉が短大出てすぐにげんじろ兄ちゃんと結婚したろ? それで、兄ちゃんがお隣のユキ兄と付き合ってるっぽいってなってさ」

 包装を破って、クッキーをぱくり。

「『結婚ってそんな急ぐもんか?』とか、『一緒にいるだけなら友だちでも良くね? 恋人にならなきゃいけないもんか?』とか、改めてわかんなくなっちゃってさ」

「なるほど~……」

 ふむふむ、と頷き、莉音も、ぱくりとクッキーを食べた。

 もぐもぐもぐ。ごくん。

「じゃあ、私たちも付き合ってみようよ!」

 そして、にっこりと提案する。

「何て」

 思わず、陽火は訊き返した。

「うん? だから、付き合ってみようよ。私たち」

 ひょく、と小首を傾げて莉音が言う。

「いや、そんな軽く提案されても」

「でも重々しく言われた方が引かない? はーちゃんの場合」

「……一理ある」

 人間関係、煩わしい、ダメ絶対。

 陽火は、深く深く頷いた。

 面倒くさいの、ダメ絶対。

「いいじゃない。わからないなら、お試しでお付き合いしちゃえばいいんだよ」

 軽く、明るく、莉音が笑う。

「うーん……確かにその方がわかるかも知れんけど。莉音はいいんか、そんな晩ご飯のおかず決めるみたいなノリでアタシと付き合って」

「失礼な! 晩ご飯のおかずを決めるときはもっと熟考するよ!」

「それもだいぶん失礼だぞ」

 アタシに。

 陽火がツッコんだ。

「でも付き合うって、具体的にはどうすればいいんだろうなー」

「ここはやっぱり、身近な例を参考にしようよ」

 莉音が隣の部屋を指差した。

「ああ、兄貴たちとか?」

「そうそう!」

 莉音は楽しげに、そして何処か夢見心地な様子で指折り、例を挙げていく。

「一緒に登校したり、待ち合わせて帰ったり、休日遊んだり、一緒に勉強したり……」

 そこで、ぽん、と彼女はわざとらしく手を打った。

「そうだ! はーちゃんに教えて欲しい問題があるんだけど!」

 いそいそと鞄からワークを取り出す莉音に、

(あれ、これアタシ、騙されてね?)

 体の良い家庭教師にされるのでは……。

 陽火は、たらりと冷汗を流した。


 *


「良かったー! 課題終わったー!」

 ありがとう、はーちゃん!

 莉音が、満面の笑みでワークを閉じた。

 どういたしまして、と陽火は答えて、ふーっと大きく息を吐く。

 難しい入試問題ばかりだったが、何とか教えることが出来た。

「しかし、一緒に勉強だったら私にうま味が少ないんじゃないか?」

 陽火は、アセロラジュースをくっと飲み干して言う。

 疲れた脳に、酸味が効く。ような気がした。

「しかも、中学までなら何とか教えられるけど、来年からは無理だぞ。数学は特に赤点ギリギリラインだ」

「あ、そんなに悪かったんだ……」

 ごめん、はーちゃん……。

 莉音が、眉尻を下げ、しゅんとする。

 無理をさせるつもりでは……という声がありありと聞こえて来そうで。

「そこまで申し訳なさそうな顔されると、それはそれで傷付く」

 陽火は、憮然とした顔になる。

 中学レベルは、無理じゃない。たぶん。

 年上の矜持を捨てたつもりは無いのだ。

「んー……でも確かに、お勉強会は不公平になるもんね」

 人差し指で唇を押さえつつ、莉音は宙へと視線をやった。

「そうだ。明日から私がはーちゃんの分のお弁当も作るっていうのは、どうかな?」

「よし、OK。付き合おう」

 莉音の料理の腕前は良い。

 即決だった。

「はーちゃんって意外と現金だよね」

 莉音は、しみじみと言った。


 *


 夜七時。

 外はもちろんのこと真っ暗で、空気が一段と冷たく感じる。

 玄関前まで、陽火は莉音を見送りに出た。

 と言っても、帰るのは隣の家なわけだけど。

 ちなみに、兄たちはまだ勉強をするらしい。

「今日もありがとうね。晩ごはんもごちそうさまでした!」

「おう。洗い物まで手伝ってくれてありがとな」

 四人で仲良く食べ(姉は自分の家の夕食支度をすると帰って行った)、洗い物は、ジャンケンで負けた妹組でやった。

「それじゃあ……」

 莉音が手を振る。

 おう、またな、と陽火が言いかけたところで。


 ちゅっ


 頬に、温かで柔らかな感触。

 少し背伸びをした莉音の、唇の感触。

「!」

「……えへへ。明日のお弁当、期待しててね!」

 莉音の頬は、林檎色に染まっていた。

 照れ臭そうに微笑むと、くるりと踵を返し、門を出た。

「おやすみなさい!」

「おー……」

 莉音の柔らかな唇の感触をリフレインしながら、

(……もしかしてあれ、マジ告白だった?)

 と今更に気付く陽火だった。


 二人のお試し恋愛は、今始まったばかり。






2.付き合うって何だろな


お昼休み。

「あれ」

 陽火の弁当を見て、檜川咲菜ひかわさなは目を丸くした。

 ポニーテイルに萌え袖カーディガン。勝気そうな大きな瞳。

 小学校からの、陽火の腐れ縁。

「珍しく、可愛いお弁当持って来てるじゃない。どうしたの?」

 可愛いお弁当、と評された弁当のラインナップは。

 鶏そぼろご飯に、ハートの卵焼き、たこさんウィンナー、焼き鮭。プチトマト。

 彩りも良く、可愛さもあり、それでいて食いでもありそうだ。

 期待以上の弁当に、自然陽火の頬が緩む。

「ああ、これな。これ……」

 が、説明しようと口を開いた瞬間。


『それじゃあ……』


 頬に触れた柔らかな感触。照れた莉音の朱い頬。


 それらが一瞬にしてフラッシュバックして。


「……ところで、『付き合う?』って言われてOKした相手からキスされた場合って、やっぱり相手は本気で告白したってことで合ってるか?」

 思わず、そう問うていた。

「ごめん、素朴な質問に対して濃厚な質問で返すのはやめてくれる?」

 ツッコミどころ多くて笑うわ。

 笑う、と言いつつ、咲菜は真顔だ。

「いや、友だちの話なんだけどな」

「わかった、アンタの話ね」

 陽火は、鮭をほぐしながら話を続ける。

「友だちが『付き合う』ってことに疑問を持ったんだけど」

「はあ。アンタでも年相応にそのへんのことが気になるのね」

 意外だわ。

 自分のサンドウィッチにかぶりつきながら、咲菜が言った。

「それを年下の幼馴染に何となく聞いてみたら、『じゃあ付き合ってみる?』って軽く言われて、ついノリで返事したら、帰り際にキスされたんだよ。友だちが」

 ぱく、と鮭を口に入れる。ほど良い塩加減。美味い。ほわ、と陽火の頬が緩んだ。

「マジで!? アンタに初キスを追い越されるなんて何か悔しいんだけど!?」

 対照的に、咲菜の顔が引き攣った。

「え、お前ちゅーまだなの?」

「というより、一貫して私は『友だちの話』じゃなくて『アンタの話』として聞いてるのにそこはツッコまないのね」

 ほっぺちゅーくらいならしたわよ、失礼な。

 咲菜が、呆れたように言う。

「言っとくけど、こっちもほっぺちゅーだよ」

 友だち設定諦めたな……と思いながら、咲菜は紙パックジュースにストローを刺す。

「なーんだ。安心。……で、聞きたいことは何だっけ?」

「だから……。その、付き合う?ってのが本気かってことだよ」

 陽火が、極まり悪げにプチトマトを口へ放り込んだ。

 彼女の頬は、少しばかり朱い。

 それを見て、咲菜はニヤニヤと笑う。

「なぁに、本気じゃなかったら寂しいって?」

「別にそういうわけじゃ……。あ、そーいやお前の質問に答えてなかったな」

 そぼろご飯をばくばく食べながら、陽火が言った。

「このお弁当、莉音が作ったんだ。付き合うってなったら『じゃあお弁当作るね』って」

「待って! 情報過多で頭が追い付かないけど、とりあえずこのお弁当が『付き合ってる証』なら本気なのは間違いない!」

 咲菜は、頭を押さえる。

 綺麗なお弁当、告白、ほっぺちゅー。

 知っている年下の女の子。

 何処に重点を置いて驚けばいいか迷う。

「年下の幼馴染って莉音のことだったのね……」

「それ以外誰がいるよ」

「思えばそうだ……」

「意外か?」

「アンタが誰かと付き合うってのは確かに意外だけど、莉音がアンタに告ったってのは意外じゃないわ」

「そうなのか?」

 陽火は目を丸くする。

「だってあの子、むかーし私に『サナちゃんは安心! だってサナちゃんはサナちゃんのお兄ちゃんのことがいっちばん大好きなんだもん!』って言ってたもの」

「え、いつ……」

「私たちが小学校の頃」

「マジか……」

「いい笑顔でけん制に来たなって思ったわ」

 咲菜は、そのときの笑顔を思い出して言った。

 にっこりと満面の笑みを浮かべていた莉音。

「でも、逆に清々しいほどに正直過ぎて、私あの子のことを改めて気に入ったけどね」

 咲菜は、肩を竦めた。

「つぅか、お前はアタシのことでだいぶん驚いてるけど、こっちからしたら、超絶ブラコンのお前が人と付き合ってるのに未だに驚きだよ。お兄ちゃんファーストはやめたのか?」

 摘まんだたこさんウィンナーを振り振り、陽火が言う。

 途端、くわっと咲菜の瞳孔が開いた。

「馬鹿言わないで! お兄ちゃんが一番に決まってるじゃない! 背が高くって、頭も良くって、何よりゲームが強い! うちのお兄ちゃんに敵う相手なんて、いるわけないじゃないの!」

 ここまで一呼吸。

 オタクの呼吸、早口。などという馬鹿な言葉が陽火の脳裏に過ぎる。

「ゲーム強いの当たり前だろ。お前の兄ちゃん、ゲー廃じゃん」

「ギリ廃人じゃないし。一応、院生だし! 社会生活出来てるし!」

 失礼ね!

 最後のサンドウィッチに思い切りかぶりつき、咲菜が憤慨した。

「私の彼氏も超絶シスコンで、妹第一なの。だから、私がお兄ちゃんファーストでも許してくれるのよ」

 ちょうどいいんだから、と咲菜は、何故か胸を張る。

「……その『お付き合い』でいいのか。お前」

 恋愛ってわっかんねー……と、陽火は改めてぼやくしかなかった。


 *


 放課後。

 今日はバイトがある。

 駅前のフィットネスクラブが、陽火のバイト先だ。

 ただし、インストラクターや受付ではなく、清掃員のバイト。

『まあ、恋愛なんて人それぞれなんだし、可愛いなーとか一緒に居たいなーとかキュンキュン来ればそれでいいのよ』

(なんて、サナは言ってたけど……)

 本当にそれでいいのかよ。

 乾いたぞうきんを片手に、やれやれと陽火は首を振った。

 彼女が歩いているのは、フィットネスマシーンが並ぶ区域。今日も、仕事帰りのサラリーマンやOLさんたちががんばって走ったり、歩いたり、ペダルを漕いだりしている。

 その間をそろそろと歩いていく。

(おっ。今日はヒールマークが多いな)

 彼女の視線の先……床に、ぽつぽつとある黒い汚れ。

 靴が擦れたことによって出来るヒールマークだ。

 完ぺきに乾き切る前に消してしまわないと、こびりついて取りにくくなる。

 ついでに、床に飛び散った汗も拭いておかないと、これまた埃とくっついて新しいヒールマークのもとになる。

 もちろん、滑る原因にもなるので、安全対策としてもしっかり拭いておくのが清掃員の務め。

(よく拭いとかないと……あ、あそこにも)

 点々とあるシューズマークを、せっせと辿っていく。

 キュキュと拭いて、次のマーク。こしこし拭いて、次のマーク。

 黙々と、淡々と。

 けれど確実に消していく。

(やっべー。やっぱ綺麗になってくと、何か頭のモヤモヤとかどうでも良くなるな!)

 快・感……。

 陽火の頭から、悩みも煩悩も消え去った。

 それでいいのかとツッコむ者は、いない。

 次のヒールマークが陽火を待つ。


 *


 二十一時過ぎ。

 陽火のバイトが終了した

(あー、今日もよく掃除した)

 自動ドアから出ると、冷たい風が火照った頬を撫でていく。

 身体を動かした満足感に、ふうとひと息吐いた。

 と。

「はーちゃん!」

 植え込み傍のベンチから立ち上がる影。

「莉音! どうしたんだ」

「えへへ。そろそろバイト終わりの時間かなーって思って待ってたんだ!」

 私も今日は塾があって駅前に来てたし、ちょうどいいかなって。

 莉音が嬉しそうに駆け寄る。

「……お前、塾ってもっと早い時間に変えたんじゃ」

 部活を引退した三年生は、一番早い十六時代開始のコマに振り替えられると聞いた。

「えーと、うん。でも、しばらく自習室で勉強出来たし! いいかなって」

 そう言う莉音の鼻の頭は赤い。


『あの塾、いっぱいのときは自習室に時間制限あるのがちょっとねー』


 同じ塾に通っている咲菜が、ちょうど一年前に言っていた言葉を思い出す。

(もしかして、追い出されてからもずっと待って……?)

 キュン、と陽火の胸が締め付けられた。

(キュンって何だ。キュンって……)

 思わず胸を押さえてしまう。

 味わったことのない感覚。

『キュンキュン来ればそれでいいのよ』

(……)

 じっと、莉音を見つめた。

「? はーちゃん?」

 そんな陽火を、不思議そうに小首を傾げ、莉音が見つめ返す。

「いや……」

(……ま)

 陽火は、ふっと息を吐いた。

(これから考えて行けばいいだろ)

 お試しなんだし。

「遅いから、手を繋いで帰るか」

 ほら、と陽火が手を差し出す。

 昔から、そうして来たように。

「! う、うん!」

 その手に、莉音はそっと自分の手を重ねた。

 昔から、そうして来たように。

 けれど、その頬は朱かった。

 昔とは、違う表情に。

「帰り、コンビニでも寄るかぁ」

 前を向いていた陽火は気付かなかったけれど、

「うん!」

 繋いだ手の温もりを、今までよりも少し熱く感じていた。


3.デート、する?


 キーンコーンカーンコーン……


 十二月。

 期末テスト最終日。

最終時間の、鐘が鳴る。

 つつがなく答案用紙は回収され、教室には安堵と解放の声が満ち溢れた。

「あー! 期末終わったー!」

 陽火も、机に突っ伏して大きく息を吐く。

 重い肩の荷が、やっと下りた感じがした。

 前の席の咲菜が振り返る。

「あとはクリスマスまでお楽しみ一直線ね」

 彼女の顔も満面の笑みで、解放の喜びに溢れていた。

「赤点さえ無けりゃな」

 まあ多分大丈夫と思うけど……たぶん。

 陽火の目が遠く、あさってどころか遠い未来まで見すえるが如く、遠くなる。

「不安そうね……」

 咲菜が、大丈夫か、と呆れと心配を混ぜた視線で陽火を見た。

 その視線を振り切るように、

「クリスマスは、何か予定あんの?」

 陽火は、いったん心配事を棚の上へ放り投げて聞く。

「あったりまえよ!」

 咲菜が、不敵に笑って答えた。

「お兄ちゃんと、イヴからクリスマスまで24時間ぶっ続けでゲーム三昧よ!」

 今回は色んなゲームを縛りプレイでやるつもり!

 フンスフンス、と鼻息荒く、予定を語る。

「彼氏がいる人間のやることとは思えねぇなぁ……」

 呆れたように陽火が言った。

「クリスマスは恋人と過ごすなんて決まり、何処にも無いでしょ」

 欧米では、クリスマスは家族と過ごすもんよ。

 咲菜が肩を竦める。

「そりゃ、そうだけど」

 それは合ってるかも知れんが、24時間ゲームぶっ続けは違うと思う……。

 陽火のツッコミは、咲菜の耳には入らなかった。

「それとも、何? 陽火ってば、クリスマスは恋人と過ごしたいっていうロマンチストだったわけ?」

 にまにまにま

 咲菜の笑顔は、すっかり揶揄いモードのそれだ。

「そういうわけじゃねぇけど、世間一般的に見ればってことだよ」

 極まり悪げに、陽火が言う。

「世間なんてどうでもいいでしょ、世話を焼いてくれるでもなし」

「身も蓋もないことを」

「それより、そんなことを気にするってことは、莉音と何処か行く予定でも立ててんの?」

 にまにまは、継続中だ。

「予定立てるとか、そんな余裕あるわけねぇだろ。テスト前に」

 こちとら赤点回避、あっちは受験かかってんだぞ。

 真顔の陽火に、

「付き合う時期って大事ね」

 咲菜は、ため息を吐いて言った。

「ロマンチックの欠片も無いわ」

「止めなくていいから楽だろ」

「古い歌持って来たわね」


 *


『でも、クリスマスで初デートってことになるわね! 気合入れてあげなさいよ!』

(……なーんて、サナは言ってたけど)

 下足室で、靴を履き替えながら陽火は首を傾げる。

(お試しでも、初デートはやっぱり張り切るもんなんか?)

 校門までの道すがら、浮かれた足取りの生徒たちに交じって、うーむ、と考えた。

(駅前のショッピングセンターとかでもいい気はするけど……)

「はぁちゃーん!」

 校門がすぐそこに迫ったとき、聞き慣れた声が陽火を呼んだ。

「テストお疲れ様ぁー!」

 ぶんぶんと嬉しそうに手を振ってくれる莉音の姿。

 今日もまた、鼻の頭が朱い。

 かなり待ったのだろうか。

 それにしても、あまりにも、本当にあまりにも嬉しそうに、幸福そうに笑っている。

 自分を見つめながら。


 キュンッ


(……もうちょっと、考えてもいいかな)

 陽火は、高鳴った胸をそっと宥めながらそう思った。


 *


「なあ、イヴとかクリスマス……どっか行きたいとか、あるか?」

「え!」

 帰り道。直球で聞いてみる。

 流石に下校姿の中学生も高校生も多くて、何となく恥ずかしくて手は繋いでいない。

「い、いいの……? 本当に……?」

 陽火の問いに、莉音の目が丸く見開かれ、わかりやすくキラキラと瞬いた。

 けれど、すぐに少し眉根が下がり、でも口角はじわじわと上がって。


 嬉しい、でも本当に我儘言っていいかな、言いたいな。でも、困らせたくないな……。


 そんな逡巡の声が、聞こえてくるかのようだった。

(……んんっ)

 そんな顔は、初めてだった。

(何か、何か……)


 ──可愛い


 今までも思っていたそれとは違う、何がどう違うか上手く説明出来ないが、とにかく『可愛い』と思った。

 明らかに今までと違う感覚で。

 ドキドキと、胸が高鳴る。

 それでいて、うずうずと手が動き出したくなる。

「……。夜は、どっちもバイトあるから、まあ、どっちかの昼になるけど、行こう」

「やったー!」

(アタシ、何か変だぞ大丈夫か……!)

 動悸が止まらない。

 何だこれ、と陽火は胸をトントンと軽く叩いた。


 *


 クリスマス・イヴ。

 二人は、海辺のまちに来ていた。

モザイクシータウン。

二人の住むまちから、地下鉄で一度乗り換えはあるものの、三十分程度で着ける近場の複合商業施設だ。

煉瓦造りのレトロなショッピング街と、吹き抜けの近代的なショッピングモールが合体したそこには、レストランや映画館などがつめこまれており、デートスポットとしても人気の場所。

その入り口に掲げられた、謎解きラリー開催中の看板。

正しくは、『謎を解いて、太陽の子どもを探せ! クリスマススペシャル』。

「わー!」

 看板を見上げて、莉音が歓声を上げる。

「連れて来てくれてありがとう!」

「謎解きかぁ。昔もここでやったよな」

「うん。だから、またやりたいなーって思って!」

 早く行こう? と弾むような足取りで、係のお姉さんの方へ歩いて行く莉音を、改めて見つめた。

 クリーム色のポンチョに、白いシャツワンピース。黒のレギンスと焦げ茶色のブーツ。

 ポンチョが歩くたびにふわふわ揺れて、季節外れだが何となく紋白蝶を連想させる。

(普段は、ポンチョなんだな。思えばコートって学校指定のしか見たことないから何か、新鮮だ)

 家の行き来だと、コート着ないもんな。

 ふむ、と陽火が頷いた。

 ちなみに陽火は、公彦のお下がりであるカーキ色のモッズコートを身に着けている。

(ポンチョもワンピースも似合ってんなぁ……)

 お洒落、してきてくれたのか。自分のために。

 そう思い至って、また胸が疼く。

(……あれ?)

 そこで、陽火は違和感に気付いた。

 莉音の手首。そこに付けられているのは、おもちゃみたいな太陽のチャームが付いたブレスレット。

(いつも鞄に付けてる奴か? 何か……)

 おもちゃみたいなそれは、よそいきの服装の中で少し浮いていた。

「はーちゃん? 問題、貰ったよ?」

「あ、悪い」

「ううん。さっそく中、見てみようよ!」

「おう」


 *


「うーん。謎解き、難しいねぇ」

 二人は、妙に近未来的な仕掛け時計の前で立ち尽くしていた。

 そこに置かれた謎解き用の看板と、かれこれ十分ほどにらめっこしている。

「前、ここまで難しかったっけ?」

「前は、兄ちゃんたちがやってくれたしなぁ」

 小学生だった以前は、兄たちが考えてくれた答えを元に走るだけで良かったのだけれど。

「周りを見れば、わかるみたいなんだけど……」

 ヒントとして書かれているなぞなぞを見ながら、きょろきょろと莉音が辺りを見回す。

 同じように、陽火も周囲へ注意を向けた。

「あ、これってあの時計のことじゃなーい?」

 ぴくり。

 陽火の耳が、近くの女性陣の会話を拾った。

「本当だ、花って、あの一時のところのこと?」

 ひそひそ話だったけれど、耳をすませば聞き取れる。

 ふむふむ、と陽火は首肯して。

「……うん、あの時計のことっぽい」

 調査内容を我が物顔で莉音へ報告した。

「え、すごい! はーちゃん!」

「いや、周りに聞き耳立てて気付いた」

「え!」

 それから、ハッとした顔で陽火は莉音を見る。

「なぁこれ、このままずっと周りに聞き耳立てていったら楽勝なんじゃないか?」

「ず、ずるじゃない……?」

「ルールに『聞き耳は駄目』って書いてないし、セーフだろ」

「はーちゃん……」

 呆れたような、物言いたげな莉音の視線をさっくり流して、「よし、そうと決まればさっさと次行こうぜ!」陽火は意気揚々と次の目的地へ向けて出発した。


 *


「くそー。まさか最終問題でそれぞれの答えの解き方を聞かれるなんて思わねぇだろ」

「うん、でもまぁ、こういうズル対策はやっぱりしてるよね……」

 二人は結局、制限時間に間に合わず参加賞と相成った。

「でも楽しかったよ、ありがとう!」

 莉音が嬉しそうに笑う。

 負けてしまったけれど、何故か倖せそうな、満足げな顔だった。

 陽火の胸に、くすぐったい感覚がふわりと過ぎる。

「どういたしまして。……まだ時間あるし、もうちょい遊んでくか」

「うん!」

 それから、時間の許す限り二人でショッピングモールを冷やかした。


 莉音がタピオカドリンクを見て、少し足を止めれば。

「二人で半分こするか? それなら、財布にも優しいだろ」

「う、うん!」

 そう言って、二人で一つのタピオカミルクティーを分けっこしたり。


「ここ人混みすげぇな……はぐれないように手ぇ繋ごう」

 ぎゅうぎゅうの人混みでは、陽火の手が自然と莉音の手を握り。


「あ、ツチノコさんぬいぐるみ!」

「UFOキャッチャーか。よし、やってみっか」

「いいの?」

「三回やって駄目だったら諦めるけどなー」

「わ、私もがんばるよ!」

「じゃ、二人で六回分だな!」

 ゲームセンターでは、二人の好きなキャラクターぬいぐるみのため、わーわーとはしゃぎながらUFOキャッチャーにチャレンジした。


 それはもう、普通の、恋人同士のデートみたいに、時は流れた。


 *


 地下鉄構内。

「やー、楽しかったな」

 陽火が、満足げに伸びをして言った。

「うん! すっごく!」

 莉音も、頬を紅潮させ、頷く。

 彼女の腕の中には、デフォルメされたツチノコのぬいぐるみ。

 成猫ほどの大きさのそれは、UFOキャッチャーでの戦利品だ。

「でも、本当にこれ貰っていいの? ツチノコさん取ったの、はーちゃんなのに」

「いいって。ぬいぐるみ、莉音欲しかったんだろ?」

「けど」

「そういう可愛いのは莉音のが似合うし。それに」

 莉音の頭に、ぽんと陽火の手が乗った。

 優しい、優しい手付きで。

「お前が嬉しそうな顔してくれるの、やっぱり嬉しいしな!」

 ニカッ、と、太陽みたいに陽火が笑う。

『よく似合ってる! 喜んでくれて、めっちゃ嬉しい!』

 その笑顔に、昔、そう言ってくれたときの陽火の顔が重なって。

 莉音の胸が、また大きく高鳴った。


 電車内。

 座った途端、眠りの世界へ旅立った陽火を横目に。

「ひとたらしなんだから……」

 莉音は頬を真っ赤に染めて、俯いた。


 まるで、デートそのものみたいだった今日のおでかけ。

 お試しのデート。

 でも、陽火にその自覚は薄い。

 そうとわかっているのに。

「……もう」

 莉音の心臓は、持ち主のことを置いてけぼりに、ドキドキ、ドキドキ、期待に早鐘を打ってしまうのだった。


 4. 友だちだと、一緒に居られない?


 クリスマスから、つつがなく年が明け。

 元旦。


 コンコン


 ドアをノックする音に「はーい?」と陽火は返事をした。

 ベッドから出ず、漫画を読みながら。

 ちなみに、かなり巻数の出ているシリーズもの(奈弦が置いていった少女漫画の名作)で、昨夜は途中で寝落ちした。

「陽火? 僕、これから唯行と莉音ちゃんと初詣行くけど、お前どうする?」

 ドアから顔を覗かせたのは、公彦あきひこだった。

 すでに着替えも済ませ、こざっぱりとしている。

 公彦は身長が低めで、女子の中では高身長の陽火と並ぶ。また、ひょろりと細っこく、これもまた程好く筋肉のついた陽火と正反対だ。

 そんな対照的な二人だが、三白眼気味の目だけは兄妹揃ってよく似ていた。

「受験生なのに、よく人混みの中行く気になるよなぁ」

 漫画から顔も上げず、自堕落に陽火は言った。

「受験生だから、願掛けに行くんだよ。朝だとそこまで混まないだろうし」

 少なくとも、年越しの瞬間ほどじゃないはずだよ。

 妹のだらだらした姿に、公彦がため息を吐く。

「お前はやめとく?」

「んー……」


『はーちゃんも行くの? やったー!』


 陽火の脳裏に、喜ぶ莉音の顔が一瞬で浮かんだ。

 すぐさま、漫画を閉じて身体を起こす。

「莉音が喜びそうだし、行くわ」

 よっこいしょ、とベッドから抜け出した。

「自分が行くと人が喜ぶ……って迷いなく思えるお前はすごいよ」

 とんでもない自己肯定感だな。

 公彦が、呆れたように言った。


 *


 数分後。

「用意出来たー」

 さくっと着替えた陽火が、リビングに顔を出した。

 それを見て、

「じゃ、唯行にLINE送るよ」

公彦が、スマホを開く。

メッセージを送る兄を横目に、陽火はテーブルの上に置いてあったロールパンを一つ手に取り、口へ運んだ。

「……今ふと思い返したんだけど。昔から莉音ちゃんってお前が何あげても喜んでくれたよね」

「そうだっけ?」

 もぐもぐ。ごくん。

 水をコップに注ぎつつ、陽火は首を傾げる。

「うん。僕は正直、カブトムシやどんぐり貰って喜んでくれるあの子が天使に見えたよ」

「うるさいな。どっちも艶々してて格好良いだろうが」

 ちなみにカブトムシは、莉音母の意向により、自然に帰された。

 それを唯行が惜しがったという話を、陽火は知らない。

 公彦だけが知っている。

(……でも)

 水を飲み干して、コップをテーブルに置いた。

 そのとき頭に過ぎったのは、公彦の言っていた在りし日の思い出。


『はーちゃん、いいの?』

『おう。そのどんぐりが一番綺麗だったからな』

『わぁ! ありがとう!』


 記憶の中の小さな幼馴染は、嬉しそうに笑って、一等綺麗などんぐりを、まるで宝物のようにそぉっと大事に、両手に包んだ。


 *


「はーちゃんも行くの? やったぁ!」

 そして今日もまた。

 莉音は、陽火が一緒だと喜んでくれるのだ。

 心から、嬉しそうに微笑んで。

(こうしてアタシがしたことにこいつが喜んでくれる。この『当たり前』が嬉しいのは、確かなんだよな)

 改めて認識したそれは、気恥ずかしくも温かくて。

 陽火は黙って、莉音の頭をぽんと撫でた。


 *


 氏神様を祀る神社。

 普段は静かな神社の境内も、今日は賑やかだ。

 参拝者用の休憩スペースや、甘酒の配布などもあり、活気づいている。

 しかし、見渡したが知り合いは居ない。

 やはり皆、大きな有名どころの神社に行くものなのかと陽火は一人納得する。


 魅力的なそれらを尻目に、まずは参拝。


 ガラガラ……パンパンッ


「……」

 四人で並び、祈る。

 受験生は受験について。受験生でない陽火は、少し迷って「とりあえず今年も良い感じに過ごせますように」と無難な祈りをかけておいた。


「ふー、お祈り出来たぁ」

 参拝の列から外れ、莉音が大きく伸びをする。

「ちゃんと祈願したか?」

「うん!」

 兄の問いに、妹は元気に頷いた。

 兄の唯行は、莉音とはあまり似ておらず、無愛想な切れ長の目をしている。しかし、外向きにはねた髪や、眉のあたりなどはやはり兄妹、近くで見るとよく似ていた。

 もしかしたら、唯行が莉音と同じくらい愛想が良ければもっと似た雰囲気になるのかも知れない、などと顔を合わせるたびに陽火は思って、少し可笑しい気持ちになる。

「正月は甘酒とか汁粉とか配ってんだ」

 思ったより人並んでんじゃん。

 陽火が意外そうに言った。

「そっか、陽火は初めてだっけ」

 公彦は、今気が付いた、と眉を上げる。

「あ! 甘酒とお汁粉、お一人様どちらか一つだって!」

 テントに張られた張り紙を見て、莉音が声を上げた。

「どうしよう、迷うなぁ~。どっちも食べられると思ってたよ……」

「え、そうなんだ……」

 僕も、普通にどっちも食べる気で居たよ……。

 公彦も眉を下げ、悩ましげに白テントの方を見る。


 じぃ~~~~……


 二人の心からの迷いを見て取った陽火と唯行は、

「……アタシが汁粉並ぶから、莉音は甘酒並びな。分けっこしよう」

「はあ……お前は甘酒に並べ。俺が汁粉に並ぶ」

 同時に同じ提案をした。

「「いいの!?」」

 ありがとう!

 提案された二人の顔が、同時にパッと晴れ、そして綺麗に礼が重なった。


 *


「……。莉音に甘いな、お前は」

「いや、ユキ兄に言われたかないんだけど」

 アンタもたいがい兄ちゃんに甘いよ。

 汁粉の列に、前後で並ぶ。

 こちらの列の方が少し長い。

 甘酒組には、休憩スペースの確保をおねがいしてあった。

「別に。俺は甘酒より汁粉が飲みたかっただけだ」

「あーそー」

 わかりやすい言い訳に、うわぁと陽火は声に出さず思う。

(くそ甘……)

 兄はどうも甘やかされているらしい。

「それより」

 唯行の声のトーンが、一段低くなった。

「お前、本気であいつと付き合ってるのか?」

 その変化に戸惑いながら、

「え、何で知って……?」

 陽火が問い返す。

「……。あいつが言って来た」

 意外と何でも話すのだな、と少し驚いた。

 莉音は誰とでも仲良くなれるタイプだが、この唯行は見るからに違う。

 妹の話になどあまり耳を傾けなさそうだ。

 空気の読める莉音は、それを了解して必要最低限の会話以外敢えてしないような気がしたのだが。

「俺は」

 一度言い淀んでから、

「正直反対だ」

 しかし、きっぱりと彼はそう言った。

「……何で」

 陽火の声も、つられて低くなる。

「……。俺たちと同じだから」

 唯行は、囁くように言った。

「お前だって、まだ差別やら何やらが残っていることぐらいわかってるだろう」

 相変わらず周りに知り合いは居なかったが、それでも抑えられた声量。

 『何の』差別かも、『俺たちと同じ』が何を指すのかも、ぼやかして。

(! なるほど。だからわざと……)

「本気でないなら。自ら進んで他の人間と違う道を選ぶことは無い」

 上からの言葉に(いや、確かに上ではあるのだが)陽火は、ムッと眉を顰める。

「いや、アンタには言われたくねぇし」

「逆だ。俺だから、言えるんだ」

「何だよ、まさか、……付き合ってること、後悔してんのか?」

 兄ちゃん、という単語を出すべきか悩んで、声を落とした唯行の意図を汲んで出さなかった。

「あんな毎晩、『おやすみ』の合図を出し合ったり、モーニングコールしたりしてんのにか?」

 サッ、と唯行の顔色が変わる。

「……待て。待て待て。何で知ってる」

「アタシの部屋隣だっつーの。モーニングコールは、一回たまたま部屋の扉がほんの少し開いてて聞こえたんだよ」

 じわじわと彼の顔に朱が昇った。

「わかった。わかったからもう言うのはやめろ」

 顔を押さえ、唸るように唯行が言う。

「ちなみにそのこと莉音には……」

「言ったに決まってんだろ」

「最悪だ……」

 列が進む。順番はすぐそこだ。

「……気持ちを言ったことに後悔はしてない。するわけない。今の現状にも」

 ぼそりと、唯行が言った。

「でも、今までずっとあいつの傍に居て。あいつを好きな気持ちでいる俺がずっと傍に居ることによって、あいつが『俺を好きなんじゃないか』『実は自分もそうなんじゃないか』と思わせてしまったかも知れないことには……後悔してる」

「……」

 陽火の記憶を辿っても、確かに二人はずっと一緒に居た。

 兄の傍には、必ずこの人が居る。

「俺が、そう誘導しなかったと言えば、たぶん嘘になる。……『一般的なこと』がいいとわかってる。けど、俺はあいつに傍に居て欲しかった。どうしても、ずっと傍に居て欲しかった」

 吐き出すように言われた言葉。

 陽火の目が丸くなる。

 ここまで兄が思われてるとは思わなかったし、ここまでこの人が、情熱的なひととは思わなかった。

「本気じゃないなら。少しでも、迷う気持ちがあるなら。今まで通りの、普通の幼馴染のままでいろ。

 ……その方がずっといい」

 順番が回って来て、話は強制的に終わった。


 *


 帰り道。

(迷うっつってもなぁ……今、そもそもお試し期間だしなあ……)

 莉音と二人、並んで歩く。

 兄たちとは、神社の前で分かれた。

「もう……。お兄ちゃんたちだけで駅前の本屋なんてずるいよ。お兄ちゃんたちだって受験生なのに」

 莉音が、唇を尖らせる。

 風邪をひいてはいけないから、と莉音たちは帰らされた。

「ずるいよね……。……はーちゃん?」

 大丈夫? と目の前で手を振られ、はっと陽火は自分の考えから浮上する。

 やべ、聞いてなかった、と慌てて莉音を見。

(あ)

 彼女の手首を飾るもの……前にも見た、太陽のブレスレットに気が付いた。

「……前もそれ、着けてたよな?」

「! うん」

「可愛いけど……ナツ姉のおさがりとか、もっとちゃんとしたアクセサリーあるんじゃ?」

 陽火の指摘に、莉音が「えへへ……」と照れ臭そうに俯く。

「これね……覚えてないかもだけど、はーちゃんがくれたやつだよ」

「え!?」

 ちゃり……

 莉音の手が、大事そうにブレスレットを撫でた。

「前の謎解きラリーで、高学年だけのボーナスステージがあったでしょ? それの景品だったやつ。……私が欲しいって言ったらはーちゃん出てくれて」

(思い出した! 好きなパン屋のパンでやるパン食い競争のやつ!)

 陽火の脳裏に『やっぱりここのあんぱんうめぇぇぇ!』と食べながら走った記憶が鮮やかに蘇る。

(どうしよう、パン目当てなんて……)

「パン目当てだってわかってたけど、嬉しかったんだ」

(バレてた)

 良かった。

 いや、良かったのか?

 陽火が首を傾げる間にも、莉音は言葉を続ける。

「……それ以外でも、はーちゃんはいつも、はーちゃんが素敵だって思うものを私にくれたよね」

 莉音が、微笑んだ。

「それだけじゃなくて、いつも一緒に遊んでくれて……私、すごくうれしかったんだ」

 本当に……嬉しそうに。倖せ、そうに。

「……だから、ずっと傍に居て欲しくて。あの頃から、ずっと傍に居て欲しいなぁって思ってて。

 だからお試ししよって言ったんだ」

「莉音……」

 えへへ、と恥ずかしそうにまた笑うと、莉音は前を向いた。

「お試しでも、こうして付き合えて嬉しいよ!」

 わざと軽く、彼女は言った。

 けれど、真っ赤な耳を見れば本気だとわかる。

 そうじゃなくても、長い付き合いでそんなこと陽火にはわかった。


『ずっと傍に居たい』


 莉音の兄も、言っていた。

 その言葉に。

(……友だちのままだと、ずっと傍に居れないものなのか?)

 陽火の胸に、じわじわと疑問が染み出した。


 5.両想いと片想い



 三学期もスタートし、一月ももう後半戦だ。

 兄たちはセンター試験を順調に終え、私大の受験と二次試験に備えている。

 そんな近頃。


今日、莉音は塾で、陽火はバイトの無い日だった。

ゆえに、一人でてくてくと帰り道を歩いていた。

坂の多いまちなので、えっちらおっちら坂を上って帰っていく。

(サナ、休んでたけど……。風邪か? 全然LINEも返事来ねぇし)

 歩きながら、スマホを開く。

 本日休みだった咲菜からの返信は無い。

 休む日の朝、常なら「今日は休むから先生に言っておいて」のメッセージがあるのだが、それすら今日は無かった。

(珍しいこともあったもんだよなぁ)

 風邪がひどいのだろうか。明日も休みだろうか。

 もしそうなら、明日あたり姉の店で見繕ったジュースなどを見舞いに持って行くのもありかも知れないな、と思ったところで。

「ぢょっど!」

 ものすごい鼻声に呼び止められた。

 ちょうど陽火の家の前で。

「遅いじゃない! 今日バイト無い日じゃないの!?」

 目からも鼻からも水を垂れ流し、しゃくりあげている凄まじい形相の少女は、今しがた心配していた相手だった。

 そのあまりに鬼気迫った顔に思わず、

「……きったねー。鼻水垂らしまくりじゃん」

 本音が出る。

「うるっさいわね! 他に言うことないの!?」

 咲菜は、漏れ出る鼻水も気にせず、声を上げた。

「元気そうじゃん。何で今日休んだんだよ?」

「この顔見てよくそんなこと言えるわね!」

 顔は確かに一大事だが、しかし声量的には元気そうで間違いない。

 二人のうるさいやりとりに、


 ガチャッ


「どうしたのー、中まで声聞こえて……」

 今日も今日とて家に来ていた奈弦が顔を出し、

「うわっ、咲菜ちゃんどうしたの!? すごい顔だよ!?」

 やはり本音を口にした。

「ナツ姉! こいつ今日休んでたのに、何故かうちに来たんだけど」

「あんたら姉妹は人の心配の言葉がまず出ないわけ!?」

 咲菜に睨まれ、奈弦は苦笑する。

 背が低く、出ているところはしっかり出ている女性らしい奈弦と、すとんとまっ平、少年のようにすらりとした身体つきの陽火は正反対だが、やはり彼女らも三白眼気味の目が良く似ていた。

「ごめんごめん。……大丈夫? 何があったの?」

「ちょっと辛すぎなことあって、相談に……っ」

「そう……」

 ぼろぼろと大粒の涙を零す咲菜に、奈弦が優しく頷きかけた。

「それなら」


 *


 数分後。

「なっんっで! あんたんちは、相談しに来たっていう人間に掃除させるの!?」

 何故か風呂場で、咲菜はバスチェアをスポンジで擦っていた。

 猛烈な勢いで。

「悪ぃ。うち、悩んだらとりあえず手を動かして掃除しながら考えろって言われてて……」

 一方の陽火は、浴槽を別のスポンジで擦っている。

「確かに、ちょっと落ち着いては来たけど!」

「二人とも、助かるよー」

 奈弦は、洗面所の鏡を拭いていた。

「それで、何があったの?」

 奈弦が、濡れた布巾で汚れを取りながら問う。

「……別れたの。昨日。彼と」

 ぐすっ。

 再び、咲菜の鼻が鳴った。

「え、あの超絶シスコンだっていう男と?」

 浴槽を洗う手を止め、陽火が顔を上げる。

「シスコンかぁ……」

 奈弦は、今度は乾いた布巾で丁寧に鏡を拭き上げつつ、少し引き気味に言った。

「確かに! シスコンだけど! いい男なの! 顔良いし、頭良いし! お兄ちゃんには劣るけど!」

 スポンジを握り潰す勢いで、咲菜が二人に反論した。

「わかった、わかってるから」

 どうどう、と陽火は、咲菜を宥める。

「てか、シスコンとブラコンで上手いこといってるって前言ってたじゃん。それなのに、何で?」

「……私が、ブラコンだからって」

 陽火の問いに、咲菜は視線を俯け、ぼそりと言った。

「え?」

「私が、お兄ちゃんファーストで……っ、自分が二番目なのが耐えられないから、別れよって……!」

 ぼたぼたぼた……

 浴室の床に、咲菜の涙が零れ落ちる。

「どうして? 何で? 私がお兄ちゃんファーストで、自分も妹第一主義で……それで上手くいってたのに。何で? 何でいきなり……? 『サナのことが大好きになっちゃったから、二番目は辛くなったんだ』って、何それ……?」

 咲菜の独白が、痛々しい響きで反響した。

「サナ……」

 勝気な咲菜の、今までに見たことのない……男子に喧嘩で叩かれたときですら泣かなかったあの咲菜の……弱り切った姿に、陽火は困惑するしかない。

「うーん……」

 奈弦だけは落ち着いていて、少し首を傾げたあと、おもむろに咲菜の前にしゃがみ込んだ。

「咲菜ちゃんは、まだ彼のこと好き?」

「好き。妹を大事にしてるところが、格好良くて。同じだなって思って。仲間みたいだなって」

 しゃくりあげながらも、咲菜は言う。

「そっかぁ。でも、お兄ちゃんが一番なんだよね?」

「そうよ。向こうだって、そうだったはずなのに……」

「なるほど」

 ぽん、と咲菜の頭に手を置いて。

「二人とも、お互いが好きだからこそ、お互いに対して片想いになっちゃったんだねぇ」

 奈弦が、しみじみと言った。

「……え?」

 咲菜の勝気そうな瞳が、まぁるく見開かれた。

「付き合ってるのに片想いになるってどういうことだよ?」

 陽火が、不可解そうに問う。

「あら。どんな関係だって、片想い両想いはあるわよ。恋人同士だけでなくって、友人同士、家族同士であってもね」

 だから私たち夫婦も、今でも調整し合ってるよ。

 奈弦が肩を竦めて言った。

 それから、少し言い淀んで。

「……。昔ね、中学から高校まで、ずーっと仲良かった万里って友だちが居たの」

 奈弦は、話し始めた。

「何をするにも一緒でね。学校へ行くのも帰るのも。休日も。

高一でクラスが分かれるまでは三年間、クラスも一緒だったから、休み時間も移動教室も、本当にずっと二人でいた。将来は、一緒に住もうかって話までしてたくらい」

「万里姉か……そういや、昔よく家に来てたよな。背が高くって、何かバンドとかやってそうな感じの」

「あ、私も見たことあるかも」

「ふふっ。本当にずっと一緒に居たからねぇ」

「でも、途中からめっきり来なくなったよな」

 奈弦の顔が、寂しげに俯く。

「……高二の冬。万里に告白されたの。『恋愛として好きだ』って」

「!」

「そして私は言ってしまった。


『気持ち悪い』


 って」

 それは、申し訳なさそうな顔にも見えて。

「それ……は」

「……同性愛者がってこと?」

 ちら、と陽火を気にしつつ、咲菜が問う。

「ううん、そうじゃないの。……同性愛者だろうが、異性愛者だろうが、あの当時の私には関係なくて。ただ」

 奈弦は、そっと自分の胸に手を置き、

「『私』を『恋愛感情で見てくる』……『性的な目で見て来る』人間が、全員気持ち悪くて仕方なかったの」

 そっと、息を吐き出すようにして言った。

「……うっすらとしか覚えてないけど、中高時代のナツ姉、男嫌いだったもんな」

「痴漢とか……まぁ色々とね。外に出るだけで嫌な目に遭えば、そりゃ嫌いになるってもんよ」

 奈弦が、無理矢理笑みを作る。

 小柄で、女性らしい美しい身体つきをしている奈弦は、確かに男たちの欲望の目に晒されやすいだろうことは陽火たちにもよくわかった。

「だから『女同士』は、当時の私にとって、そういうのからまったく離れた『聖域』みたく思ってたのよね。そして、相手にもそれを無理くり押し付けた。

『あなたが同性愛者でも何でもいいけど、私に対して、恋愛とか、性的な目で見てるとか、そんな気持ち悪いこと言わないで。どうか友だちのままでいて』」

 しん、と一瞬沈黙が落ちた。

 ぽたん、という水の跳ねる音。

「ひどいことを言ったと、今ならわかるんだけどね」

「……。でも、ナツ姉がそういうの嫌いになるの仕方なくない?」

 むぅと唇を尖らして、咲菜が言う。

「でも、だからって告白して来た相手にそれをぶつけていいってことにはならないよ。

 万里にも言われたの。

『奈弦が、そういうのを気にしてるのは知ってる。けど、愛の告白をして来た人間に対して、その気持ちを『気持ち悪い』って跳ねのけるのはどうかと思う。そういう人間とは、友だちでいられない』

 って。……それで、私たちの友人関係はオシマイ。

 まぁ、泣いたよね、流石にね」

 奈弦は、ふ、と息を吐いた。

 愛の告白だったら、姉ちゃんの不快感を押しのけて良いのかよ。

 陽火が言いかけて、止めた。

 いま言ったところで、意味が無いのだ。

 それがわかっているから、咲菜も納得のいかない顔をしたまま黙っているのだろう。

「……咲菜ちゃんは、『妹を一番に思う』彼や、『お兄ちゃんファーストを許してくれる』彼が好きなのよね?」

「う、うん……」

「でも、彼は『自分を一番に想う』咲菜ちゃんを求め始めた」

 なでなで。

 奈弦の手が、優しく咲菜の頭を撫でた。

「……恋しているのは確かだけど、二人とも、相手に求めるものが違い始めて、片想いになっちゃったのね」

「……片想いになったら、駄目なのか?」

「そうね。駄目じゃないけど……」

 奈弦が、仕方なさそうな笑みを浮かべて言った。


 *



『どうしても、求めるものが違ってくると、一緒に居るのが辛くなってしまうことの方が多いからね』

 玄関。

 靴を履く咲菜の横で、つっかけに足を突っ込みつつ、陽火はぼんやり先ほどの姉の言葉を反芻していた。

(……ナツ姉は、ああ言ってたけど)


 ガチャ。

 ドアを開けると、ぴゅうと冷たい風が頬を撫で、反射的に首を竦める。

 本格的に冬の匂いがする。

 冷たさは、きん、と痛さを伴っている。

「今日はありがとうね。晩ごはんまで御馳走になっちゃって」

「いや、こっちこそ、掃除手伝ってくれてありがとな」

 咲菜は、ううん、と首を振ったあと。

「……。両想いになったり、両想いで居続けるのって大変なのねって思い知った」

 静かに言った。

「……」

「でも、それが良かったかも。まだ少し引き摺るかも知れないけど」

 振り返った笑顔は、泣き跡がまだ残る痛々しいものだったけれど、少し吹っ切った様子も見て取れた。


『私、ずっとはーちゃんと一緒に居たい』


 対して、陽火は。


「まあ、無理するなよ」

「ん。じゃ、また明日ね!」


(じゃあ、『友だち同士じゃ駄目なのか』と迷っているアタシとあの子とじゃ……片想い同士になってしまうんじゃないか?)


 この間からの疑問が、更に靄を纏って、湧き出て来るのを感じていた。


 6.バレンタインとマロングラッセ


 バレンタイン。

 学校中が、そわそわとした空気に染まる中。

「はい、友チョコ」

 陽火は、ぽん、と咲菜から袋を渡された。

 袋自体は、とても可愛らしいピンク色のハート模様が散りばめられたものだけれど。

「おー……。毎年恒例、ロシアンルーレットトリュフか?」

 その中身は、咲菜手作りロシアンルーレットトリュフ。

 当たりが一つ(生クリーム入り)。当たりとも外れとも言いづらい微妙な味のものが四つ(微妙に不味いが食べられなくはない)、そして完全なる外れが一つ(大量のワサビやタバスコなど)という、おおよそ外れしかない代物。

「そう! あ、いつも通り莉音の分もあるから、二人で楽しんでね」

「まともなチョコくれよ」

 陽火が、毎年言うツッコミを入れる。

「まともなチョコはお兄ちゃん専用!」

 そして、例年通りの答えが返って来る。

 が。

「……と、言いたいところだけど、今年はちょっと例外アリ」

 はい、これ奈弦さんに。

 今年は、例外のおまけがついて来た。

 追加で手渡されたのは、落ち着いたブラウンの紙袋。綺麗な銀のリボンが彩りを添えている。

「ナツ姉に?」

 中身を問えば、ブラウニーが入っているという。

「……相談料。まあまあ吹っ切れて、こんな恋人専用みたいなイベントもいつも通り楽しめてるし、ね」

「なるほど」

 咲菜の笑顔に、陽火も笑みを浮かべかけ。

「いや、まともなもん出来るなら、アタシたちにもまともなもんくれよ」

「例外だって言ってるでしょ」


 *


 帰り道。

「っつーわけで、莉音から毎年恒例のロシアンルーレットトリュフを貰ったぞ」

「わぁい! 楽しみ!」

莉音の目が輝く。

それを見て、陽火が呆れ顔になった。

「お前……去年一昨年と、とんでもない外れを引いたってのに……」

 ちなみに、去年がタバスコ大量トリュフで、一昨年がわさび山盛りトリュフである。

「うーん。確かに、大変な目に遭ったけど」

 あはは、と莉音は苦笑を浮かべるも、

「でも、何でだろう……あの中に一つは当たりがあるって思うと、次はそうなんじゃないかな。今度こそは絶対……! ってなるんだよね」

 何処かうっとりとそう言った。

「そのドキドキ感が、何だかたまらなくって……!」

 つい挑戦したくなっちゃうんだぁ。

 そうはしゃぐ莉音に、

「お前……絶対、ギャンブルやるなよ」

 思わずツッコんだ。

「えへへ。何故かお兄ちゃんもそう言うんだよねぇ」

 不思議、と笑う莉音に、ちっとも不思議じゃない、と思う陽火だ。


 *


 陽火の部屋。

「じゃ、私からのバレンタイン・プレゼントね」

 ローテーブルの上に、うやうやしく置かれた白い小箱。

「ご要望通り、マロングラッセでーす!」

 それを、ばばんっという声と共に、莉音が開けた。

「おー!」

 小箱の中には、確かにマロングラッセがころんころんと入っている。

 部屋の灯りに、その表面がてかてかと輝く。

「綺麗だし、美味そう!」

「食べてみてー」

「おう!」

 ぱくっ

 遠慮なく、陽火は一粒摘まむと口の中へと放り込んだ。

「!」

 途端、口の中でふんわり広がる栗と砂糖の甘み。

 くどくなる一歩手前で、柔らかく解ける。

「すげぇ美味い!」

「本当? 良かったー!」

 ほっと息を吐き、莉音が微笑んだ。

「マロングラッセって、手作り出来るんだなー」

 もぐもぐ。

 二粒目を食べながら、しみじみと陽火が言う。

「うん。私もレシピあるとは思わなくて吃驚しちゃった」

「大変だったんじゃないか?」

「んー……」

 陽火の問いに、暫く宙に視線をやって。

「確かに、簡単じゃなかったけど」

 莉音は、微笑んだ。

「でも作ってるとき、とっても楽しかったから」

 にっこりと、心からの笑み。

「……そっか」

 その笑顔を見て、何故かほんわりと陽火の胸は温かくなった。

同時に、きゅんとしたときめきと、もっと大きな、熱い何かが胸にこみ上げて来たけれど、それの名前を陽火は知らなかった。


 *


 翌日。

「手作りマロングラッセ!?」

 朝礼前の教室に、咲菜の驚愕の声が響いた。

 クラスメイトたちが、一瞬彼女たちの方を見る。

「おう。マロングラッセって手作り出来るんだな。吃驚した」

 そんな視線など気にせず、陽火が笑って言った。

「でもすげぇ美味かったぞ。流石、莉音だよなー。リクエストして良かった」

 昨日のマロングラッセの味を思い出して、莉音の笑みは止まらない。

 にこにこと、口角が緩みっぱなしだ。

「アンタのリクエストだったの!?」

 咲菜は更に驚き声を上げる。

 それから。

「……友だちとは言え、他人のことだし、口を出すのは野暮だってのはわかってんだけどね」

 少し、ううーんと悩んだあと。

「?」

 少し声を低めて、問うた。

「あんた、マロングラッセの作業工程と菓子言葉って……知ってる?」

「……へ?」


 *


 放課後。


『レシピにもよるけど、マロングラッセって、何日もかけて栗を砂糖漬けしていくのよ』

 例え一日で作れる簡単レシピでも、二、三時間かかるのはザラだし。

 咲菜はそう言って、スマホでレシピのページを見せてくれた。

 確かに、どのレシピも、恐ろしく作業工程が多く、かかる時間も多かった。

 渋皮を剥くだとか、ガーゼで包むだとか、何時間煮るだとか、砂糖がきちんと溶けているかいちいち確認するだとか……あまりにもやることが多い。

『だから、菓子言葉は『永遠の愛』。……あの子が知ってたかどうかはわからないけど、おいそれと簡単にねだっていいお菓子じゃないんだから』

 彼女の言葉を思い出しながら、下足室で靴を履き替える。

 今日も、莉音と一緒に帰る約束をしていた。

『アンタがそんな奴じゃないって、私もあの子も知ってるけどさ。……それでも、あの子がアンタを好きな気持ちを利用したみたくなるようなことは、やめときなよ』

(そうは言っても、なぁ)

 陽火は、玄関を出て、ため息を吐く。

(どれがそうなるかわからないし……)

「おーい!」

 声がして、反射的に校門を見た。

「はーちゃーん!」

 果たして、そこには、にこにこ笑顔で手を振っている莉音がいる。

 こちらまで、思わず笑ってしまいそうになるくらいの、百点満点の笑顔。

「おー」

(あんな風に笑ってくれるならいいかな、って思っちゃうんだよなぁ)


 *


 帰る道すがら。

「そういえばさ。咲菜に聞いたんだけど」

 陽火は問うた。

「うん」

「マロングラッセの菓子言葉って……」

「!」

 その答えは、言葉より先に莉音の頬が教えてくれた。

 薔薇色に染まる頬。

(あ)

 陽火は、察する。

(知ってたのか……)

「えへ、私もレシピ検索してたまたま知ったんだけど……素敵だよね」

 誤魔化すように、莉音が笑った。

「永遠……は、まだぴんと来ないけど、でもずっと一緒に居られたらいいなってお祈りは……ちょびっとしたかも」

 苦笑しつつ、小声で莉音は言った。

「ふふっ。あ、けどね、そういうの関係なくマロングラッセ作りは楽しかったから、またしたいな!」

 そのあと、すぐにパッと満面の笑みに戻って「何度も味見して、それも楽しかったよ」と料理中のことを楽しそうに話し始める。

 言葉通り、本当に楽しげで、倖せそうで。

(……こんなに倖せそうなんだし)

 陽火も、頬を緩めた。

(この関係のままでもいいかな……)

 が。


『求めるものが違ってくると、一緒に居るのが辛くなってしまうことの方が多いからね』


 脳裏に、奈弦の言葉が過ぎる。

「……!」

 冷水を浴びせられたような、心地がした。

(アタシ……は)

 背筋に、冷たい汗が流れる嫌な感触。

(本当に、そこまで想っているのか? そりゃ、一緒に居られたら嬉しいけど……一瞬でもよくわからない『永遠』のことを思ってみるほど、莉音と居たいのか?)


 ……わからない。


『求めるものが違ってくると』

『一緒に居ることが辛く』


「莉音」


 怖いものを遮るように、陽火は言った。


「……お試し期間を止めて、友だちに戻らないか?」


『一緒に居ることが辛くなる』


 ……それは、絶対に嫌だった。

 だから。


 陽火は、そう、言った。

 そう、言ってしまったのだ。



 7.本当の本当はどうなんだ。


『友だちに戻らないか』


 陽火の提案に、

「……うん。わかった」

 莉音は素直に頷いた。

 浮かべられた笑顔は、何処か寂しげなものだったけれど。

(……泣かれるかと、思ってたけど)

 そのまま家まで普通に話して。

「じゃあね、バイバイ!」

「……うん」

 いつも通り、お互いの家の前で分かれた。

意外とあっさりした別れだった。

(泣かれる……なんていうのは、自惚れだったか)

 陽火は、我知らず苦笑した。

(まあ、友だちに戻るだけだし……あんまり変わらないかも知れないけど……)


 *


 その夜のこと。


 ぽろん♪


 受信音に、スマホを覗き込んでみれば。

『さっき言い忘れちゃったんだけど、明日から受験対策の朝補講が始まるから、お弁当作れないんだ…ごめんね(涙)』

 莉音からの、そんなメッセージ。


 がーん……


 陽火の心に、思った以上の衝撃が走り、

(いや『がーん』って!? 弁当作って貰えなくなるからか? これが、咲菜の言ってた利用してるってあれか!?)

 動揺した。


 うおぉぉぉ……


 思わず頭を抱えて唸る。

 そのショックを和らげようと、どうにか送った『アタシも明日日直で朝早いから、一緒行くか?』の問い。

しかしそれに対する答えは、

『ごめん、友だちと予習の約束しちゃったから、更に早く行かなきゃなの』

 というもので。

これにショックを受けたことにより、『お弁当無しでがっかり』というだけではないことは判明した。

 が、大して状況が芳しくないのは変わらず、やはり陽火は悶える夜を送ることになった。


 *


 翌日。学校。

「は!? 別れた!?」

 咲菜は目を剥いた。

「いや、別れたっていうか、友だちに戻ろうって提案しただけっていうか……もともとお試しだったわけだし」

 その反応に、気まずそうに陽火は唇を尖らす。

「ばっかねぇ! アンタ、何でこの時期に!」

 咲菜が、ため息を吐いた。

「え?」

「あの子は、これから高校受験でしょうが! 大事な時期に、何メンタルダメージ与えてんの!」

「……あー!!」

「今気付いたのね……」

 受験対策の朝補講、と聞いたというのに。

 とんと結び付かなかった。

「本当もう、アタシ駄目だぁ……自分のことしか考えてねぇわ……」

 がっくし……

 陽火はうなだれて、机に懐く。

「何よ、自分のことしか考えてないって」

 咲菜が問うた。

「……ナツ姉が言ってたじゃん」


『求めるものが違ってくると、一緒に居るのが辛くなってしまうことの方が多いからね』


「アタシは、莉音が望んでるほど『一緒に居たい』って思ってるのか……わかんないんだ」

 陽火が答えた。

「そんな状態でお試しでも恋人やってたらさ……そのうち、一緒に居るのが辛くなって、離れちゃうんじゃないかって思ったら……そりゃ嫌だなぁって思ってさ」

 言っている内に、どんどん陽火の心は沈んでいく。

「つい、言っちゃったんだけど……」

 はー……

 重い気持ちを逃がしたくて、大きく息を吐いた。

 それでも、気持ちは晴れない。

 ひたすら、重くなっていく。

(そんなこと気にする時点で、『ずっと一緒に居たい』ってアンタも思ってるじゃない)

 咲菜は思った。

(でもこればかりは、本人が自覚を持って気付くしか無いわよね)

 ふう、とため息を吐く。

 世話の焼ける腐れ縁だ。

「ま、別れ話が無くても、今日からお弁当無しとか、朝補講とかあったのかも知れないし。意外と、話しかけたり、メッセ送ったら、普通に返してくれるかもよ?」

 今は、とりあえず様子見でいいんじゃない。

 敢えて、軽い口調で言い、陽火の肩を乱暴に叩く。

「そ、そうかも……!」

 陽火がやっと顔を上げ、少し希望の見えた顔をした。


 *


『今日塾なら、一緒に帰るか?』

『ごめん、受験対策で無料補講やってるからそれを受けてから帰るんだー』


 *


「あ、おはよう、りお……」

「おはよー! はーちゃん! 遅れそうだから、先行くねー!」

 ばびゅん!


 *


「……何が普通にだよ! めっちゃ避けられるよ! どこのどいつだよ、そんな気休め言った奴!」

「かもって言ったわよ、かも知れないって!」

 確定じゃないっつの!

 咲菜がツッコんだ。

「つーか、こっちはアンタがいきなりそんなアプローチかますと思ってないから言った気休めなのに」

「気休めって認めるのかよ」

「そもそも! 失恋した人間が即、フッた人間の誘いに乗ると思う? 私だって、前彼とは未だにメッセのやりとりすらしたいとも思わないっての」

 咲菜のため息に、うっ、と陽火が詰まる。

「フッたっていうか……友だちに戻ろうって言っただけだぞ?」

「いくらお試しだってそれはフッたに入るもんよ。……だから、マジでしばらくそっとしておきなさいよ」

 せめて向こうの受験が終わるくらいまでは。

 ビシッと咲菜に指差され、陽火はもう何も言えなかった。

「……うぐ……、わかったよ」


 *


 とぼとぼと一人で帰る道。

 冷たい北風が吹き荒ぶ。えっちらおっちらと上る坂道が、あの日から今まで以上にきつく感じる。マフラーに顔を埋めても、寒さもきつさも和らがない。

(何か……ここ最近ずっと莉音とだったから寂しいな……)


『向こうに新たな好きな人でも出来たら、また変わるんじゃない? その恋愛相談とか乗ったらすぐ戻れるかもよ』


(とか咲菜は言ってたけど……。莉音に好きな人、ねぇ……)


 モヤッ


「……ん?」

 ぴた、と陽火は足を止めた。ぴゅう、風が吹く。首を竦めて、マフラーを巻き直す。

(モヤ? モヤッて何だ? あっちに好きな人出来て、モヤることあるか? アタシたちは友だち同士で、幼馴染同士で、今までと変わらず一緒に居られるわけだし)

 急に湧き起ったモヤモヤした気持ちに、首を傾げつつ、

「ただいまー」

 帰宅した。

 家に帰っても、靄は消えない。

 洗面所で、ざあざあ勢いよく水を出す。

 そこへ手を突っ込んで、わしわし洗う。

 モヤモヤした気持ちも、ぐるぐるした考えも、すっかり綺麗に……。

(そうだよな。莉音と新しい好きな人の仲を応援したら、きっと今まで通り普通に話せるようになって、莉音が好きな奴と何してるかたまに惚気を聞いたりして……)


 そう、例えば、好きな人にお弁当を作ったんだとか。勉強教えて貰ったんだとか。一緒に学校行ったよとか。デートに行くんだとか……。


 モヤモヤモヤァッ!


「……」


 ザァァァ、キュッ

 ごしごしごし


 ダンダンダンッ


「兄ちゃん! ちょっと相談なんだけど!」

 バァンッ

「ノックぐらいしろ!」

 勉強机に向かっていた公彦が、振り返った。

 今日、唯行が来ていないことは、玄関の靴の有無でわかっている。

「で、相談って何。僕、受験勉強で忙しいんだけど?」

 コツコツとシャーペンの先で、公彦は机を叩いた。

「そこはちょっとした息抜きだと思って」

「こいつ……」

 兄の頬が、ぴく、とひくついたのも気にせず、

「兄ちゃんはさぁ」

 陽火は床に置いてあったクッションに座り、問う。

「もし、友だちに好きな人とか恋人出来たらモヤモヤする?」

 そんな受験に一切の関係の無い問いに、

「うーん? まあ、仲の良さにもよるけど……することもあるかも知れないね」

 ため息を吐きながらも、公彦は真面目に答えた。

 妹の押しには、文句を言いつつ弱いのがこの兄だった。

(何だ! 友だち同士でもするもんなのか!)

 公彦の回答に、パッと陽火の瞳が輝く。

 が。

「遊びに誘っても、向こうとの先約がある可能性が高くなるし、今までみたいな付き合いは出来ないだろうしね」

 次に返って来た兄の言葉に、サッと顔色が変わった。

「は!? 何で、話が違くね!?」

 それじゃあ、全然今まで通りじゃないじゃん!

 と叫ぶ。

 前半は声に出して。後半は、心の中だけで。

「話って、何のだよ……」

 もう勉強に戻ってもいい?

 公彦は、胡乱なものを見る目で妹を見た。

「いや……それはこっちの話……。

 なあ、友だち同士のままだと今までみたいに一緒に居ることって難しくなるもん?」

 公彦は、ふむ、と少しばかり考えたあと。

「……。一緒に居ることの定義にもよるけど。恋人より友だちを優先する人も居るし。人それぞれじゃないかな」

 そう、静かに答えた。

「人それぞれ……」

「はい。息抜き終わり。自分の部屋に帰れ」

 公彦の答えに呆然としている陽火を、公彦は時間切れとばかりに、ぺいっと部屋の外へと放り出す。

(……人それぞれって……)

 目の前でバタン、と閉められたドア。

 陽火は諦めて、自室へ戻る。

 そのまま自室のドアにもたれて、ずるずるとしゃがみ込んだ。

 はー……っと大きなため息が、勝手に口から零れ出る。

「あーもー……何もわっかんねー……」


 振り出しより前、何かもっととっ散らかったところに放り出された気分になった。


 8.Q.E.D


 奈弦は、キッチンの状態を見て静かに目を見開いた。

「……」

 まず、洗剤塗れになったガスコンロ。

「……」

 大きなボウルに漬けられた五徳。

 横には重層の袋。


 わっしわっしわっしわっし!


「……」

 そして、その五徳を真顔で擦る陽火。

 ブラシで勢いよく。


 わっしわっしわっしわっし!


 買い物袋をテーブルに置きながら、

「……どうしたの、陽火」

 とりあえず、奈弦は問うてみた。

「いや、絶賛悩み中だから」

「なるほど……」

 家訓に従ったのね……。

 ふむ、と姉はひとまず納得の頷きをする。

「ご飯作りたいから、手伝うよ」

 私、コンロやるね。

 腕をまくりながら、奈弦が言った。

「ごめん。ありがとう」

 陽火は、顔も上げず礼を言う。

 その横顔は、本当に真剣そのもので。

「なぁに、学年末テストの気分転換?」

 面白がる口調で聞きながら、奈弦はスポンジでコンロを磨き始めた。

 が、それとは反対に、ピタッと陽火の動きが止まる。

「……」

 沈黙。

 その後、おもむろに掃除の手を再開させ、

「……留年はしないようにするから、安心して欲しい」

 陽火は重々しく言った。

「その発言が、もはや怖いんだけど」

 忘れてたのね……

 奈弦は、ため息を吐く。


 わっしわっしわっし

 ゴシゴシゴシ


 しばらくの間、ブラシとスポンジの擦れる音だけが響き。

「……お姉ちゃんで良ければ、話を聞くよ?」

 奈弦が、ぽつんと口を開いた。

「……。ナツ姉さぁ、この間言ってたじゃん」

 陽火が、ブラシを止める。

「『求めるものが違ってくると一緒に居るのが辛くなる』って」

 こくん、と奈弦は頷いた。

「……でもさ。『求めるものが同じじゃないから、付き合うと辛く』なるって、友だちのままを選ぶとするじゃん。

 けど、そうしてもさ。結局、『友だち』じゃ、今まで通り一緒に居られない可能性もあって……」

 奈弦が、スポンジを脇に置き、テーブルに用意してあった布巾を取る。

 耳はちゃんと、妹の話に傾けたまま。

「そりゃ人それぞれだって、兄ちゃんは言ってたけど……何か、どうすりゃいいかわかんないなって思ってさ」

「陽火……」

 奈弦が言った。

「あんた、好きな子出来たの?」

 まあ、と目を丸くする。

「ん~~~~~それがわかんないんだよ」

 はあああ、と大きなため息を、陽火が吐いた。

「あっちが求めてるほど、こっちはあっちと『ずっと一緒に居たい』かって言われたら未知数なんだ」

 からん、とブラシをシンク脇へ乱暴に置く。

「けど、今まで通りずっと遊んだり、そういうのはしたいんだ。でも、もし向こうに違う好きな奴が出来たら、そっちを優先するかも知れないってなるだろ?

 そしたら、アタシはそれが」

「……嫌なんだね?」

 優しい顔で、奈弦が問うた。

 陽火が、水道の栓を開く。

「……うん」


 ザァァァァァ……


 水音に消されそうなほど、小さな肯定。

 けれども、姉には伝わり、「そっか」と彼女は優しく微笑んだ。

「というか、告白されたんだ?」

「告白されたというか」

 じゃぶじゃぶと、五徳に付いた泡を流しながら、

「ナツ姉とか、兄ち……や、ナツ姉が幼馴染同士で結婚してるけど、そんな近場だったら、友だちのままでもずっと一緒だろうし、何でわざわざ恋人になるんだろうなって話したら、じゃあお試しで付き合うかってなって、ついこの間まで付き合ってたんだよ」

 陽火は言った。

「……ナツ姉の話を聞いたあと、友だちにも戻れなくなったら怖いと思って、それは解消したけど……何か、全然元に戻れなくて悩んでるっていうか」

「え!? でもアンタそんな子誰も……」

 言いかけて、奈弦がハッとなる。

「……莉音ちゃん?」

「察しいいな、ナツ姉」

 陽火が目を丸くした。

「だってここ最近、アンタの周りでよく見かける子って莉音ちゃんしかいなかったし」

「莉音はもともと近くに居るじゃん」

「いや、それでもここ数ヶ月の仲の良さはすごかったから」

「なるほど」

 まあ、確かにそうかも知れない。

 陽火は納得しながら、五徳をテーブルに敷いておいた布巾の上へ置いた。

「何だろうね。私も一切人のこと言えないけど、唯行くんと付き合ってる公彦と言い、アンタと言い、本当に近場でくっつき過ぎだよね」

 ふう、と奈弦が、ため息を吐く。

「あ、気付いてたんだ、姉ちゃん」

「そりゃね。あれだけ一緒に居ればね。それより、アンタが気付いてたことに驚いたわ」

 奈弦は、コンロの周りを綺麗に拭きつつしみじみ言った。

「またかよ」

 そんなにアタシは鈍いかよ。

 陽火が、拗ねたように言う。

「というか、アタシが莉音と付き合ってたってなっても、そこまで驚かないのな」

「んー。そりゃだって」

 小首を傾げて、奈弦が言った。

「莉音ちゃんが陽火のこと大好きなの、みーんな知ってるしね」

 あれが友情を越えて恋愛に発展しても可笑しくないな……みたいなのはあったよね。

 さもありなん、と言いたげな口調に、

「え? そんなに?」

 陽火の方が驚く。

「気付いてないの、陽火くらいだよ」

 呆れたように奈弦が言った。

「マジか……」

 それ聞くとアタシ鈍いな……。

 陽火は、ちょっぴり肩を落とした。

「話は戻すけど。陽火は、『幼馴染くらい近くの距離だったら、別に恋人にならなくてもずっと一緒に居られるんじゃ』って仮説を立ててたわけよね?」

「仮説って大袈裟なもんじゃ……でもまあ、そうかな」

 最後の五徳を流し終え、陽火が水道の栓を閉めた。

「で、莉音ちゃんが『じゃあ幼馴染同士で恋人になってみたら何が違うのか実験しよう』と提案して、その実験に乗ったと」

「うん」

「それで、私のこの間の話を聞いて別れた、実験を終了したと」

「……うん」

 コンロを拭き終えた奈弦は、細かいところまで確認したあと、うんと大きく肯いた。

「とりあえず結果は、もう出てるね」

「え?」

 コンロから顔を上げ、奈弦がきっぱり言う。

「『友だち同士のままじゃ、一緒に居られないこともある。ゆえに、恋人同士になることにも意義はある』。……ま、それも人それぞれという注釈が付くけど」

 姉の言葉に、陽火は暫し呆然とし。

「本当だー! てか、元々の目的忘れてたー!」

 叫んだ。

「……。そこまで真剣に莉音ちゃんのことを考えてたんだね」

 そんな妹に、奈弦は仕方なさげな、しかし優しい笑みを浮かべる。

「じゃ、お試し実験の結果がわかったところで、本題だね。

 陽火は、莉音ちゃんとどうなりたいの?」

「どうなりたいって……」

 陽火は、少し躊躇ってから。

「ただ今までみたく、一緒に学校行ったり、遊んだり、そうやっていけたらそれが一番」

(そして、アタシのしたことで笑ってくれたなら)

「嬉しいかな……」

 言った。

 言葉にしてみると、何でも無いことだ。

 けれど、何故か今はそれがとても難しい。

「でもこれが、莉音がアタシに求めるのと同じかって言われたらそれはわからんし……」

 うーん……。

 腕を組み悩み始めた陽火を見て、奈弦が「あー……」と困ったように口を開いた。

「……ごめんね。その件についてはお姉ちゃん言葉足らずだったね。それは、別に、付き合いながら調整していくことも出来るんだよ? 人って生きてると、思ってること変わってくこともあるし……だからその都度、整えていけばいいというか」

「え」

 陽火の目が、点になる。

「それ早く言ってくれよー!」

「いや、でも言ったよ!? 私たち夫婦も調整してるって!」

「言ってたかー!?」

「言ったよー!」

 ぎゃんぎゃんと喚く妹に、姉も負けじと叫ぶ。

 公彦が「何事?」と降りて来るまで、言い合いは続けられた。




9.Shall we dance?


 とっぷり日も暮れた住宅街の坂道を、陽火はとぼとぼと歩いていた。

 ぽつぽつ並ぶ街灯が、夜道をぼんやり照らしている。


『ごめん、料理用の赤ワイン切らしてるの忘れてた。旦那うちの店で買って来て!』


 ガスコンロ掃除もひと段落し、いざ料理をする段になって、奈弦が材料切れに気が付いたのだ。

 ゆえに陽火は今、とぼとぼと寒空の下、坂道を下っている。

「うー……徒歩五分とは言え、冬の夜は辛いなぁ」

 いや、アタシがぐだぐだ悩みごと言ってたから遅くなったんだけども。

 恐らく陽火が掃除をしていなければ、もっと早くに気付いたことなので、ある意味自業自得ではあった。

「今日は違う料理でもいいじゃんか……それか、隠し味ならいっそ無くても……」

 ぶつぶつとぼやきながら、道を行く。

 ふ、と顔を上げて、陽火は「あ」と声を上げそうになった。

 前方。ちょうど街灯の下で。

 一匹の野良猫と戯れる莉音が居た。

 莉音が木の枝を左右に振ると、猫が手を出す。あるいは噛み付く。

 それにやられた振りをしたり。魔の手から逃れたり。また捕まったり。

 猫と莉音は、本当に楽しそうに遊んでいる。

(声をかけてぇけど……今声かけたら……)

 あの顔が曇って、逃げるように走って行っちゃうんだろうなぁ……。

 陽火は、ため息を吐いた。

(それは……嫌だなぁ……)

 せっかく、あんなに楽しそうなのだから。

(まだこっちに気付いてないし……遠回りすっか)

 仕方ない、と陽火は踵を返した。

(でも)

 これが、ずっと続くのか?


 浮かび上がって来た考えに、陽火の足が止まる。


 自分を見て嬉しそうにしていたあの子が、自分を見て顔を曇らせる。

 そんなことが、ずっと。


「~~~~~」

 陽火は、再度振り返った。

 莉音の方へ。


 そんなの、


「……莉音!」


 嫌だ!


 そんな気持ちを込めて、彼女を呼んだ。


「はーちゃん!?」

 驚いた莉音が立ち上がる。

 にゃぉん、と野良猫は去って行った。

 陽火が、ずんずんと莉音の方へ歩いて行く。

「あ、えと、お買い物? 私は塾帰りだよ~」

 焦ったような、けれど無理した笑顔を莉音は浮かべた。

「にゃんこと遊んでたら、こんな時間になっちゃった! 急いで帰らないと……っ!?」

 そう言って慌てて走り出そうとした莉音の腕を、陽火が掴んだ。

「……アタシは、こうならないために『付き合う』実験をやめたんだ」

「!」

 陽火を見た莉音は、ハッと目を見開く。

 陽火は、今まで見たことのない顔をしていた。

 苦しそうに眉を顰め、唇を歪めた顔。

「ご、ごめんね。……でも、少し、少し時間が欲しいんだ」

 莉音の眉が、八の字を描く。

「あともうちょっとがんばれば、きっと、きっと今まで通り……」

 笑おうとするのに、しかし莉音の表情筋はそれを無視して、どんどん泣きそうに歪んでいく。

 駄目、だめ、笑わなきゃ。

 焦る莉音を、陽火は思わず抱き締めた。

 街灯の下、どちらも泣きそうな、苦しそうな顔をした二人がくっつく。

「……アタシにも、時間をくれないか」

 吐き出すように、陽火が言った。

「アタシも、莉音と一緒に居たい。ずっと一緒に遊びたいし、アタシと居て、嬉しそうにしてくれる莉音が見たい」

「はーちゃ……」

 莉音の目が丸くなる。

「でも、それが『永遠』かどうかは、アタシにはまだよくわからねぇんだ」

 す、と一度身体を離して、陽火が言う。

「だから、その答えが出るまで、待っててくれねぇ? 絶対に、答えを出すから。……莉音の合格発表の日までに」

 陽火の目が、真っ直ぐ莉音の目を見つめていた。

 誤魔化しでも、先延ばしでもない。

 本当に、きちんとしたいのだと、その目がしっかり莉音に伝えてくれる。

「……うん。待ってる」

 莉音が、ふわっと笑った。

 久しぶりに見た、心からの笑みだった。


 *


「莉音ちゃんに会った!?」

「うん。だから、宣言して来た」

 家に帰り、買って来た赤ワインを手渡しながら、陽火は言った。

「宣言? 何を?」

「……莉音とアタシが同じものを求めているのか。どうしたいのかとか、そういうのの答えを、合格発表までに出すって」

 妹の、あまり聞いたことのない真剣な声音に、姉は優しい笑みを浮かべた。

「……しょってるわねぇ。もっと、気楽にでいいのよ」

 ぽん、と妹の頭に手を乗せる。

「昔、万里と仲違いしたときに、お義母さんに言われたことがあるの」

 思えば、あのときはまだ『原瀧のおばちゃん』って呼んでたのよね、と奈弦が笑う。

 泣き腫らした目でおつかいに来た奈弦を見て、彼女は「あたしでよけりゃ、話を聞くよ」と言ってくれた。

 その日のことを思い出しながら。

「『人間関係なんてさ、そう深刻に考えるこっちゃないの。そりゃ真剣になるのはいいけど、深刻になり過ぎちゃ駄目。『この人とダンスを踊りたいな』『誘ってみよう』『駄目だったら、また誘いたくなる人と踊ればいいさ』。それだけでいいんだよ』

……そんな風にダンスするように、いつだって真剣に、だけど軽やかに、深刻になりすぎないようにするのがいいよって」

奈弦は、歌うように言った。

「深刻になりすぎないように……」

 陽火は言って、頷いた。

「そっか……わかった。ありがと姉ちゃん! 気楽に、でも真剣に考えてみる!」

 元気に輝き出した妹の眼を見て、姉は安心したように微笑んだ。

 そして。

「うん。でも、学年末テストも真剣に考えてね?」

 しっかり釘を刺すのも忘れなかった。

「あ、ハイ」


 *


 三月。


 合格発表の紙が張り出された掲示板。

 その前には、合否を確認するたくさんの中学生たち。

 彼らの中には、莉音も居た。

彼女は無事、自分の受験番号を発見した。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 ふと振り返ると、陽火がいる。

 莉音は、友人に一声かけてから人混みを抜け、彼女の方へ駆け寄った。

 人差し指と親指で丸を作り、微笑む。

 陽火もニカッと大きく笑った。

 それから、莉音の手を引っ張る。

 喧騒をバックに陽火が莉音を連れて来たのは、人気の無い裏庭だった。

 裏庭には池があり、少しだけ生臭い水の匂いがする。

 池を見下ろしながら、陽火が言った。


「……アタシには、永遠とかは、やっぱりまだわからねぇ。たぶん、キスしたいとか、そういうのも」


「……そっか」


 陽火の答えに、莉音が俯く。それでも無理に笑おうとする顔が、水面にうっすら映る。


「けどさ」


 陽火が、それを遮るように言う。


「ずーっと莉音に、隣で笑って居て欲しいってのは。確かなんだ」


 きっぱりと、


「一緒に居て、たくさん遊んで、笑って、莉音とそうしたいって思う。あんな風に離れてくのは、もう嫌だ」


 顔を上げ、莉音を見て、


「だから、アタシの隣にこれからも居てくれねぇか。……付き合いながら、永遠とかキスとか、そういうのを探っていくのを手伝ってくれねぇか」


 陽火は、言った。


 ぽかん、としたあと、ふふ、っと息を吐くように莉音が笑う。


 それから、


「ずるいよ、はーちゃん」


 がばっと陽火に抱き着いた。


「でも」


 嬉しそうに、愛しそうに笑って。


「喜んで!」


 莉音が答えた。


 陽火は目を丸くしたあと、くしゃりと笑って、


「じゃあ、よろしくな」


 抱き締め返して、そう言った。


 桜の蕾が膨らんで来ている。

 春は、すぐそこに迫っていた。


 END.

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お試し恋愛!~女同士、幼馴染同士で付き合ってみた~ 飛鳥井 作太 @cr_joker

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