第六章~始まりの夜明け~
第一節~異界の門~
月読の気配が夜空に消えると、入里夜は改めてレンのほうを向いた。
「レンくん。いよいよ……なのね」
彼女の台詞にレンも、決心したような顔でうなずいてみせる。
「ああ。ではこれより、異世界転送の儀を開始する」
彼はさっそく儀式のために動き始めた。懐から「月」と書かれたお札を取り出して、印を結ぶ。
お札がレンの手の中で青白く輝き、異界の門周辺に結界が張られた。結界の所々に「護」という文字が浮いている。
「レンくん、この結界は?」
「ああ、これは重要な儀式をおこなう際に使う守護結界だ。これがある間、われらと異界の門はいかなる攻撃も受けない」
「すごい結界なのね」
入里夜は、レンが結界を張っている暇に、改めて異界の門を見上げた。なるほど、間近で見ると実に巨大である。何もかもが。
初めて遠くから見たときよりも、異界の門へ続く石段の一番下から見たときよりも、ずっと大きな存在だった。
「ねえレンくん、儀式って何をすればいいの?」
彼女の問いに、レンは門に張られたお札を魔法で剥がしながら答える。
「ああ、この門には、世界でゆいいつ時空を司る力を持った神龍が封印されている。その封印を解き、契約を結ぶことで門は開く」
彼が語るのと同時に、入里夜は何かを感じた。嫌な感じ……いや、正確に言えば、何者をも寄せ付けぬ絶対的な力、といった感じだろうか。
その気配のために、入里夜はまた思わず癖が出てしまう。「ひっ!」という小さな悲鳴を上げ、彼女はレンにしっかりとしがみついた。そして、お決まりの流れでレンの顔がしかめっ面になる。
「入里夜、おぬし、いい加減にせぬか! そのようなことでまことに異世界行きなど大丈夫なのだろうな」
「うえ~っ、だって~。じゃあレンくん、このすごい気配はなに?」
入里夜が半泣き状態で尋ねた。
レンはそう言われ、思い出したかのような顔つきになる。
「そうだ。すまぬ、おぬしに言うのを忘れていたな。この気配は神龍様のものだ。先に私が剥がしたこのお札は、言わば封印の封印みたいなもので、これを剥がすと神龍様の意識が目覚めるのだ」
「……そうなの」
入里夜は納得したように門を見上げ、ゆっくりとレンから離れた。彼女はたしかに怖がりではあるが、正体を知ってしまえばあとは割と何とかなるほうである。
レンは入里夜が離れると、ふいに右手を上げた。その手には入里夜の脳では読解不能な文字が書かれている。やがて空中に魔方陣が浮かび、そこから何やら白いものが出てきた。
「………?」
入里夜が不思議に思っていると、レンはその白いものを手に取り、入里夜に投げて渡す。
「わわっ……なに」
入里夜が慌ててそれを受け止め、よく見てみると、着物に近いがどうやら純白の巫女服だった。彼女が口を開く前にレンが説明する。
その説明は、何やら困ったような口調で始まった。
「う~む……これは本来、下準備としてやっておきたかったが、何せあの戦乱だったからな。仕方ない」
「レンくん?」
「入里夜、それは異界の門を巫女が使用する際に着る、祭儀用の巫女服だ。私はよそを向いておくから、急いでそれに着替えろ」
「祭儀用の巫女服? これを着ないといけないの?」
入里夜がその巫女服を縦横に引っ張って観察しながら再確認すると、レンは首を一回縦に振って見せた。
「ああ、ここではどうしてもそれに着替える必要があってな」
巫女は、納得したようにうなずいたが、何やら少しばかり頬が赤らんでいる。
「そうなんだ。あの、レ、レンくん……恥ずかしいからぜったいこっち向いちゃダメだよ?」
少女がうす紅色に染まった顔で、門番に上目遣いに言うと、さすがのレンも平静を保てなくなった。
「お、おぬしは何を言っている! そのようなこと私がするはずがないだろう! はやくしろ、まったく!」
慌てふためくレンにそう言われると、入里夜はいそいそと着替え始めた。だが、このような環境で落ち着いて着替えるなど、彼女には難題である。
「――っ!」
すぐ後ろに色男がいると思うと、勝手に心臓が速くなり、脱ぐのも着るのも手がうまく働かない。さらによく考えてみれば、結界の外にも自分にとって異性しかいないではないか。
入里夜の脳みそは余計なことを考えてしまい、最後の帯締めがどうしてもうまくいかない。
「ああ、適当に帯を締めて、儀式の最中に解けでもしたら……」
などと勝手に想像して心配になった少女は、レンにとって迷惑な結論にたどり着いた。
決心したように、入里夜が口を開く。
「レ、レン……くん」
「なんだ、終わったか」
彼の声には、明らかに期待の念がこもっていたが、現実はそうではない。レンがゆっくり振り返ると、そこにはまったく困った巫女が立っていた。
彼女は白い顔をほのかに赤らめ、巫女服がずり落ちないように片方の手でしっかりと抑えている。そしてもう一方の手で帯を持ち、その手をレンに突き出しているのだ。
レンは驚いて声を上げた。
「なっ、何をしている!? まだ終わっていないではないか! 早く帯をきちんと締め――」
レンの言葉を、入里夜がさえぎる。
「レンくん! ……あのね、私、手が震えて上手く結べないの。や……やってくれない?」
巫女の顔がますます赤くなり、あわせて門番の白い美顔にも紅がさすようだ。
「おぬし、何を言っている! 門番の私が、事実上立場は同じだとは言え、神聖な巫女の身体に触れて良いわけがないだろう! それに、男の私に女性ものの着物の着せ方など……」
分かるはずがなかろう、と、言いかけたレンの口が止まった。何とも絶妙なこの時に、彼の頭に昔の記憶が蘇ったのだ。
まだ初代大巫女朔夜が大巫女で、レンがシャンバラで門番として修行の日々を送っていたころ、たまたま月宮の館に赴いた日のこと。まだ幼かった暦にせがまれ、いやいや彼女に着物を着せてやったことがあった。そして彼の脳みそは覚えが良いらしく、その手順を忘れていない。
レンが思わず言葉を詰まらせると、入里夜が止めを刺した。
「もうっ、レンくん。今は一刻を争っているのよ? そんなこと言っていられないでしょ。それに、帯を締めるだけなら私の身体に触れないと思うわ。べ、別に、レンくんになら? 私、ちょ、ちょっとくらい触られても……だ、大丈夫だし……。だからやって。ねっ? ほら、私寒くなってきたの」
「おぬしなあ……」
レンはもう唸るしかない。この巫女はこの先大丈夫なのか、と言いたくなる。しかし、入里夜の主張も正しいと言えばそうだ。時間が無いのは事実だし、守護結界も無限に張っていられるわけではない。
確かにいつも着せられているだけの入里夜より、鮮明に覚えているレンのほうが確実でしっかりと仕上がって、より短時間で終わるだろう。
レンはもう、覚悟を決めるしかなかった。
「……くっ、分かった分かった。仕方ない、今回ばかりは私が着付けしてやる。しっかり服を持って、なるべく動くなよ」
「うんっ、ありがとう」
入里夜はそれを聞いてぱっと明るくなる。レンに駆けより、巫女服をしっかりと持ち、元気よく門番に帯を預けた。
「まったく、なぜ私がこのようなことを……」
レンは過去をしっかり思い出しながら、慎重に手際よく、そして確実に巫女服の帯を締めていった。
「レンくん、上手だし速いね」
「うむ、ま、まあこれしきのこと……」
と、レンが言いかけたとき事件が起こる。まだ帯をしっかり結んでいないのに、寒さに耐えかねた入里夜が威勢のよいくしゃみをしたのだ。
「ふっ……ふぁ……くしゅん! ひゃあ!」
「うぬっ!」
完全に油断していたふたりは、巫女がはなったくしゃみの勢いでなぜか均衡を崩し、見事にひっくり返る。
「いった~い……ん?」「なんだ?」
目が合い、ふたりはかたまった。入里夜はレンを下敷きにして、彼の腹の上にちょこんと座っていたのだからまあ無理もない。
「「……………」」
さらに、ふたりの目が点になっているうちに、大変なことになった。くしゃみで緩んだ入里夜の帯がするすると解け、純白の巫女服は、入里夜の身体からぺろんという具合にめくれてしまう。
「きゃあああああああああっ! ご、ごめんなさいレンくん」
入里夜は、顔を真っ赤に染めてレンの上から飛びのいた。
「ま、まったく、何をしておるのだおぬしは!」
いくらレンでも、半裸に近い、年頃の少女にここまで迫られれば冷静さを欠いてしまうのは当然至極だろう。
儀式はすぐに再開された。レンは落ち着きなく立ち上がり、いそいそと準備を始め、入里夜は慌てながら自分で着物を着なおした。
やってみると意外にできるものだ。
「ご、ごめんねレンくん。今度はちゃんとできたよ」
「ああ、こちらの準備も完了した。始めよう」
入里夜がレンの言葉にうなずくと、門番がふいに指を鳴らした。
「異界の門、開錠!」
彼の指から発せられた音が夜気を震わせると、異界の門の最上部に両手をかけ、覗き込むような姿で置かれた龍の像に異変起きる。龍が尾で巻き付けるように持っている燭台に火が灯ったのだ。
入里夜は数刻前、似たような現象を間近で見た記憶があった。
「レンくん、これってもしかして
「うむ、そうだ。よく知っていたな。先の話では、魔力を解放したのはつい先ほどのことで、魔法の勉強も始めたばかりであろう?」
レンが作業を続けながら驚いたように言うと、入里夜は少し得意げになって、少し前から魔法について独学で学んでいたことを明かした。
レンが感心したようにうなずいた時、同時に作業も完了したようである。
「入里夜、おぬし見かけによらず勤勉な性格なのだな」
「ねえレンくん、見かけによらずってどういうこと!?」
「いや、なんでもない」
「むう~~っ」
レンが強引に話を逸らすと、入里夜は頬に空気をため込んだ。
「それで、レンくん、私はどうしたらいいの?」
巫女がいまだ少し口を尖らせながら聞くと、レンは、「すまなかった」と前置きの上で門を見上げ、説明を続けた。
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