第二節~巫女の焦燥~

 深く穏やかな眠りの中で、少女は夢をみていた。


 月界に住む龍に乗り、広大な空を飛びまわるという素晴らしい内容であったが、夢が終わりを告げるころ、彼女の脳裏になにやら意味不明な音が流れこんできた。


 それは時間の経過にともない、少しずつはっきりしたものに変わってくる。意識をむけるとどうやら人の声のようで、それも彼女の名を呼んでいるように思われた。

 

 何度も呼ぶ声によって眠りは浅くなっていき、入里夜はしだいにうなされはじめる。


 その声が夢ではなく、大いなる試練と冒険の始まりだと彼女が知ったのは、それから一分後のことだった。


 脳裏を駆けまわる呼び声に困惑していると、それまでよく聞き取れなかった声がはっきりと聞こえ始める。


「いりや……いりや……」


「……んぅ? だれぇ? やっぱり私を呼んでる……もうちょっと眠らせて」


「う~ん、仕方ないわね。こうなったら最終手段よ。すぅぅぅぅ――入里夜ッ! 起きて!」


 突如発生した耳をつんざく大声は、入里夜を強制的に夢の世界より叩き出した。


「は、はいいっ!」


 彼女は心の底からおどろいて、叫びながら文字通り跳ね起きた。


 余りのことに入里夜は混乱していたが、すぐそばに母の姿を見つけて少し落ち着きを取り戻す。


「……びっくりしたあ。お母さん、どうしたの?」


「……あ、ごめんね入里夜、耳大丈夫?」


「う、うん」


「それじゃあ早速なんだけど、落ち着いて聞いてね」


 暦の顔には、これまで入里夜が見たこともない険しさがある。不安と焦燥に満たされた母の顔を見て、少女はなにか大事が起こったのだと直感した。


 緊迫した空気といつになく乱れた母の魔力。入里夜は眠気も忘れ、心配そうに暦を見あげた。


「お母さん大丈夫? いったいなにが……」


「え、ええ、実はね……」


「実は……なに?」


 暦は返答に使うべき言葉に迷っていた。


 現状をそのまま話すと娘は間違いなく混乱するが、とはいえこの重大な真実を偽るわけにもいかない。


 その時、不穏な沈黙の中、ふたりの巫女は誰かがこちらへ走ってくる足音を聞いた。


 入里夜は状況を一切知らないために来訪者の見当などつかなかったが、暦はそうではない。扉に視線を向け、相変わらず硬い表情で告げる。


「恐らくケンね」


「どうして?」


 入里夜の問いに答えが提示されるより早く、引き戸が勢いよく開かれ、そこに現れたのは暦が予想したとおりの人物だった。


 彼は『月界防衛軍げっかいぼうえいぐん』の重要人物であり、情報収集や大将軍レインバードケルトの伝令係として働いている者である。


 名をいかずち けんといい、薄黄金うすこがね色の髪が特徴的な若さあふれる青年だ。


 彼は暦の名をさけびながら部屋に飛びこむと、巫女たちの前にひざまずいた。


 動きにはがあるが、暦と同じく持ち前の冷静さを欠いているらしい。


 暦は彼に真剣なまなざしをむける。


「ケルトから伝言ね」


 青年がそれに応答するより早く、入里夜が口を挟んだ。


「ケルトから伝言って……。ケン、いったいなにが起きてるの?」


 ただごとではないと理解した入里夜だが、今はとにかく具体的な真実を知りたい。


 急いでいるからとて月宮の巫女である彼女を無視するわけにはいかず、ケンは巫女の質問に早口で応じる


「はっ、入里夜さま。実はつい先刻、前ぶれもなく大魔界軍が侵攻してきたのです」


「……えっ」


 彼の報告は、入里夜の思考を数瞬のあいだ完全に停止させた。だが無理もない。大魔界はこの世でもっとも恐れられている魔王の世界である。


 過去、いかなる悪をも浄化できる天使が住まう天界を存亡の危機に追い込み、他でもないこの月界を、壊滅状態に陥れた最恐と謳われる世界。


 月に生きる入里夜は幼少期からよく聞かされ、むろん知っている話だ。その世界の魔軍が今攻めてきたという事実は、彼女にとってすぐに受け止め切れるものではない。


 一応入里夜に応えたケンはすぐさま暦に向きなおり、黒曜石のような美しい瞳で大巫女を見据えた。


「暦さま、ケルトさまのご判断では、予期せぬ急襲ゆえみな浮足立ち初動が遅れ、いまだ指揮系統は回復せず。ただちに彼らを追い返すことは不可能とのこと」


「……やはり。深夜帯を突かれたのが痛いし、彼らはやはり空から?」


「はっ。暦さまのご推察どおり、やつらは異界の門ではなく界包結界を破壊して侵入。軍の第一防衛線を突破されました。いずれここシャンバラに到達するかと。どうかわれらに、つぎなるご指示を」


 暦は難しい顔でケンの報告を聞いた。彼女はとある状況が起きてしまっていることを察し、ひとつの決断に揺れていたのだ。


「どうしよう、まさか予言どおりに……。でも、私は動けないし……ああん! でもでも」


「暦さま、いかがいたしましたか?」


 心配そうに声をかけるケンと、不安げに母を見つめる入里夜。


「ん? だ、大丈夫よ。ごめんなさい」


 暦は慌てて笑顔をつくり、またしばらく思考をめぐらした。確かに突然の奇襲ではあるが、彼女にとって今宵の事態はある一つの予言とぴったり重なる。


「大魔界軍の三度目の侵攻に加え、今は長月……入里夜の誕生月にして、この子が本格的に魔法に触れる時期。やっぱりこの状況……今日があの予言の日! だとするなら……」


 けっこう悩んだすえ、暦はようやくケンに言葉を返した。


「ケン。すぐに結界を張りなおすから、そのあいだ大魔界軍を都に侵入させないで」


「はっ!」


「必要なら神々の力をお借りしてもかまわないから、なんとかサタンたちを食い止めてとケルトに伝えて。それで分かってくれるはずだから」


「承知いたしました。暦さまもどうかお気を付けて」


 ケンは二人の巫女にうやうやしく一礼すると、すさまじい速さで走りさっていった。


「入里夜!」


 ケンの退出とほぼ同じくして、暦が刃物のようなするどい口調で入里夜を呼びつけた。いや、焦りのあまり口調がそうなってしまったのだ。


「は、はいっ!」


 入里夜はびくっとして背筋をのばした。


「これから地下にいくわ。少しやらなければならないことがあるの。詳しくはあとで話すから」


「う、うん、分かった!」


 不安で胸が張り裂けそうだが、今はとにかく母に従うべきと思い、入里夜がうなずくと、暦は娘の手を取ってケンとは真逆の方向へ走りだした。


「……………っ」


 入里夜は走りながら、母に引かれていない左手で苦しい胸を抑えた。


 これまで暦に母として叱られたことは当然ある。だがそれは、優しくさとすようなやり方で、嫌な気分になることはなかった。


 しかし先の母の口調は入里夜の心を初めて寒くしたのだ。それに悪気がないと分かってなお、彼女は言い知れぬ不快感と悲しさを懸命にこらえていた。


 とはいえ緊急事態ゆえそれに構っている余裕はなく、少し走ったところで入里夜はためらいつつも口を開いた。


「あ、あのっ、お母さん」


「どうしたの、入里夜」


 暦の口調は、こころなしか普段の穏やかさを取り戻しはじめているような気がして、入里夜の心は少し軽くなった。


「大魔界……の人たちが襲ってきたのはわかったけど、どうして地下にいくの? 私もいかなきゃだめなの?」


 彼女がいま、もっとも気になっていたことである。


 暦はすぐに返答できないでいた。というより、なにか言いづらいことがあるように見える。彼女は少し百面相ひゃくめんそうをしてから答えた。


「そうね、なにをするかは地下についてから説明するけれど、あなたがいなければこれはできないの」


「……そ、そうなんだ。分かったわ」


 入里夜はもう少し言及したかったが、母の表情が苦しそうに見えたので口を閉じる。


「………っ」

 

 遠くから聞こえてくる戦いの音は、少女にさらなる不安を与えていた。

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