第二節~巫女の焦燥~

 いきなり大声でたたき起こされた入里夜は混乱していたが、すぐそばに母のすがたを見つけて少し落ち着いた。


「……お母さん、どうしたの」


「入里夜、落ち着いて聞いてね」


 暦の顔には、これまで入里夜がみたことのない険しさがある。不安と焦燥にみちた母の顔をみて、少女はなにか大事が起こったことを本能で直感した。


 入里夜は眠気も忘れて、心配そうに母をみあげた。まことこれほどマイペースを失った母は見たことがない。


「ねえお母さん、大丈夫? なにがあったの」


「え、ええ。じつはね……」


「じつは……なに?」


 暦は返答にこまった。いま起きている大事をそのまま話すと、入里夜は間違いなく混乱する。


 とはいえ真実をあえて偽るわけにもいかず、暦は使うべき言葉に迷っていた。


 不穏な沈黙のなか、ふたりの巫女は誰かが走ってくる足音に気づいた。


 入里夜はいっさいの状況をしらないため、来訪者にまったく見当がつかなかったが、暦には見当がついている。


「恐らくケンだわね」


「どうして?」


 少女が質問した直後、引き戸が勢いよく開かれた。果たして足音の正体は、暦が予想したとおりの人物である。


 彼は「月界防衛軍げっかいぼうえいぐん」の重要人物で、情報収集や大将軍レインバードケルトの伝令係として働いている者だった。


 正しい名をいかずち けんといい、薄黄金うすこがねいろの髪が特徴的な若さあふれる青年である。


 ケンは暦の名をさけびながら部屋に飛びこむと、巫女たちのまえにひざまずいた。


 その動きにはがあるが、暦と同じく持ち前の冷静さを欠いている。暦は、彼に真剣なまなざしをむけると。


「ケルトからなにか伝言があるのね、現状は?」


 ケンがそれに応答するよりはやく、入里夜が口を挟む。


「ねえケン、いったいなにが起きてるの?」


 ただごとではないことは理解した入里夜だが、早いところ真実を知りたい。


 ケンは巫女の質問に早口でおうじる。


「はい、入里夜さま。じつはつい先刻、とつぜん大魔界軍が侵攻してきたのです」


「……えっ」


 ケンの報告は、入里夜の思考を刹那完全に停止させた。

 

 大魔界はこの世でもっとも恐れられている。過去にいかなる悪をも浄化できる天界を存亡の危機に立たせ、月界を壊滅状態におとしいれたこともある、最恐と謳われ続けてきた世界。


 月に生きる入里夜は幼少期からよく聞かされ、とうぜん知っている。

 

 いまその世界が攻めてきたという事実に、巫女はただ震えるばかりだった。


 ケンは暦のほうへ向きなおり、黒曜石のような美しい瞳を大巫女に向ける。


「暦さま、ケルトさまのご見解で、ただちに彼らを追い返すことは不可能です」


「……やはり」


「はっ。暦さまのご推察どおり、やつらは異界の門ではなく界包結界を破壊して侵入。軍の第一防衛線を突破されました。いずれここシャンバラに到達するかと。どうかわれらに、つぎなるご指示を」


 暦はむずかしい顔でケンの報告を聞く。彼女はある状況が起きることを懸念し、ひとつの決断に揺れていた。


「どうしよう……。でも、私は動けないし……ああん! でもでも」


「こ、暦さま、いかがいたしましたか」


 心配そうに声をかけるケンと、不安げに母を見つめる入里夜。


「ん? あ、ああ大丈夫よ。ごめんなさいね」


 暦はあわてて笑顔をつくり、またしばらく悩んだ。


 そしてけっこう悩んだすえ、暦はようやくケンに言葉をかえす。


「ケン、私がすぐに結界を張りなおすから、そのあいだ、大魔界軍を都に侵入させないでほしいの」


「はっ!」


 それから暦は、すこしなにか考えるそぶりをみせた。


「必要なら神々の力をお借りしてもかまわないから、なんとかサタンたちを食い止めてとケルトに伝えて。それでわかってくれるはずだから」


「承知いたしました。暦さまもどうかお気を付けて」


 ケンは二人の巫女にうやうやしく一礼すると、すさまじい速さで走りさっていく。


「入里夜!」


 ケンの退出とほぼ同じくして、暦が刃物のようなするどい口調で入里夜を呼びつけた。いや、焦りのあまり口調がそうなってしまったというべきか。


「は、はい!」


 入里夜はびくっとして背筋をのばした。


「これから地下にいくわよ。少しやらなければならないことがあるから。詳しくはあとで話すわ」


「う、うん、分かった!」


 入里夜がうなずくと、暦は娘の手をひき、ケンとは真逆の方向へ走りだした。


「………」


 入里夜は走りながら、胸が張り裂けそうな思いだった。

 

 これまで暦に、母として叱られたことは当然ある。だがそれは、優しくさとすようなやり方で、嫌な気分になることはなかった。


 だが先ほどの暦の口調は、入里夜の心を初めて寒くしたのだ。彼女はいま、言い知れぬ不快感と悲しさを懸命にこらえていた。


 少し走ったところで、入里夜がためらいつつも口を開いた。


「あ、あのっ、お母さん!」


「どうしたの、入里夜」


 暦の口調は、こころなしか普段のおだやかさを取り戻しはじめているような気がして、入里夜の心はすこし軽くなった。


「大魔界……のひとたちが襲ってきたのはわかったけど、どうして地下にいくの? 私もいかなきゃだめなの?」


 彼女がいま、もっとも気になっていたことである。暦は、すぐに返答できないでいた。というより、なにか言いずらいことがあるように見える。


 暦はすこし百面相ひゃくめんそうをしたあと、早口で答えた。


「そうね、なにをするかは地下についてから説明するけれど、あなたがいなければこれはできないの」


「……そ、そうなんだ。わかったわ」


 入里夜はもう少し言及したかったが、母の表情が苦しそうに見えたのでそれからは静かに暦についていく。


「………っ」

 

 遠くから聞こえてくる戦いの音は、少女にさらなる不安を与えていた。


 


 


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